第四話 隠し区画
影が形を持つ。
だが、それは大きくなったわけではなかった。
スライムは、同じ大きさのままそこにいた。
色も、形も変わらない。
ただ——空間のほうが歪んでいるように見えた。
闇の奥から、低い唸り声が響く。
赤い光が二つ、こちらを見据えている。
彼は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
「……前に出るな」
命令は、これまでと同じだった。
それでも、スライムは一歩分だけ前に移動した。
止まらない。
揺れが、ゆっくりと、しかし確実に大きくなる。
地面が、軋んだ。
赤い光の主が姿を現す。
巨体。
鱗に覆われた四足の魔物。
吐く息だけで、空気が焼ける。
彼は知っていた。
絵本で、資料で、話だけで。
——Sランク魔物。
足が、動かない。
剣も、魔法もない。
逃げ場もない。
「……戻れ」
声が震える。
スライムは、戻らなかった。
代わりに、床へ溶けるように広がった。
円を描くように、ゆっくりと。
魔物が前脚を振り上げる。
次の瞬間、床が沈んだ。
巨体が、わずかに傾く。
踏み出した足が、沈み込み、抜けない。
怒号。
炎が吐き出される。
だが、炎は途中で消えた。
熱が、拡散しない。
まるで、吸われているように。
彼は、ただ見ていた。
何も指示していない。
思考が追いつかない。
スライムの表面が、細かく震える。
震えは、波のように広がり、床と壁に伝わる。
石が、溶ける。
魔物の鱗が、軋む音を立てた。
巨体が沈み、もがく。
「……やめろ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
スライムは、揺れを止めた。
次の瞬間、魔物の動きも止まった。
倒れたわけではない。
そこに“固定された”ように見えた。
時間が、流れ出す。
彼は膝から崩れ落ちた。
息が荒い。
心臓の音が、耳を打つ。
しばらくして、魔物は崩れた。
音もなく、形を失い、消えていく。
残ったのは、静寂だけだった。
彼の足元で、スライムが元の形に戻る。
揺れは、小さい。
「……今のは」
言葉にならない。
立ち上がり、周囲を見回す。
ここは、明らかにダンジョンではなかった。
壁には古い紋様。
魔石ではない、別の光源。
空気が、どこか“閉じて”いる。
「隠し……区画?」
聞いたことはある。
だが、初心者ダンジョンに存在するなど、誰も言っていなかった。
足元で、何かが光る。
冒険者証だった。
手に取ると、職業欄の文字が変わっている。
――召喚師+e
(規格外)
小さく、追記されていた。
「……規格外?」
誰も、説明してくれない言葉。
スライムが、彼の足元で一度だけ揺れた。
それは、これまでで一番、静かな動きだった。
遠くで、何かが動く気配がする。
この区画に、Sランクが一体だけだったとは思えない。
彼は立ち上がり、深く息を吸った。
「……行こう」
スライムは、何も答えず、ついてきた。




