暴力はいじめを超えたのか
【解説】
暴力はいじめを超えたのか
――拡散される「撮影された暴力」と少年法の限界
今年に入り、関東・九州など複数地域で、暴力行為を伴ういじめの様子が動画として撮影・拡散されていた事件が相次いで発覚した。
被害者を殴打・蹴り上げる行為や、複数人で囲みながら嘲笑し撮影する様子が、YouTubeやTikTokなどのSNS上に投稿され、社会に大きな衝撃を与えている。
専門家や関係者からは、「これらはもはや従来の『いじめ』という枠では捉えきれない」との指摘が相次いでいる。
■「支配」「見せしめ」「娯楽化」する暴力
問題の動画に共通するのは、
顔面を殴る
後頭部を蹴る
複数人で囲み、撮影し、笑いながら煽る
といった行為が、仲間内の“見せ場”として演出されている点だ。
特に深刻なのは、加害者本人だけでなく、周囲の取り巻きが撮影や煽りに加担している構図である。
この行為は、暴力を「仲間内で正当化」し、被害者の苦痛を「コンテンツ化」する働きを持つとされる。
ある教育関係者は
「撮影者が存在することで、加害者側に『自分たちは守られている』『バレない』という集団幻想が生まれる。
その結果、行為はエスカレートしやすくなる」
と指摘する。
■「想像できない」のではなく「想像しなくていい環境」
事件の背景として浮かび上がるのは、他者の痛みを想像しないまま行動できてしまう環境の存在だ。
・叱責されても深刻な結果に結びつかなかった
・周囲が止めなかった
・SNSで注目を浴びる経験が快感として学習された
こうした条件が重なることで、
「他人の痛みよりも自分の欲望が優先される」
「邪魔する存在は排除してよい」
という思考回路が固定化される可能性がある。
専門家は
「これは年齢の問題ではなく、人格形成の歪みとして捉えるべきだ」
と警鐘を鳴らす。
■身体能力の“裏切り”という社会的衝撃
一部の事件では、加害者が格闘技や競技スポーツの経験者だったことが報じられ、議論を呼んだ。
スポーツは本来、
自己鍛錬
ルール遵守
他者への敬意
を育むものとされる。
その身体能力や技術が他者を傷つけるために使われたことに対し、
「社会的な裏切り」と受け止める声が強まっている。
■情報流出と「私刑」への懸念
動画の拡散をきっかけに、加害者側の氏名や住所、家族構成などがネット上で流出する事態も発生している。
「自ら撮影・投稿し、拡散した以上、匿名性を放棄したと言える」という意見がある一方で、
専門家からは
「怒りが『私刑』へと転化する危険性も見逃せない」
との指摘もある。
被害者の人生が深刻な影響を受けている事実と、
新たな被害を生みかねない過剰な制裁との間で、社会は難しい判断を迫られている。
■少年法は現実に追いついているのか
これらの事件を受け、少年法のあり方にも改めて注目が集まっている。
現行の少年法は
更生可能性を重視
未成年の保護を前提
としている。
しかし、
明確な殺意に近い暴力
集団性
撮影・公開という悪質性
が揃ったケースにおいて、
「本当に更生前提でよいのか」
という疑問は根強い。
近年、「特定少年」制度や逆送拡大などの改正は行われているが、
暴力の凶悪化・可視化のスピードに制度が追いついていないとの見方も多い。
■問われるのは「守るべき順番」
専門家の多くが一致して指摘するのは、
「守られるべき優先順位が混乱している」という点だ。
暴力行為そのものだけでなく、
撮影・煽動・拡散といった周辺行為も含め、
刑事責任として明確に位置づける必要性が指摘されている。
被害者が
安心して暮らせない
学校に戻れない
状況に追い込まれている現実がある以上、
「守られるべきは誰なのか」という問いを、社会全体が真正面から受け止める必要がある。
暴力を「見せ物」にする構造が放置されれば、
「やったもん勝ち」「未成年なら安全」という歪んだ学習だけが残る。
今回の一連の事件は、
社会がどこまで暴力を許さないのか、
そして怒りをどう扱うのかを改めて突きつけている。
冷静な議論と、誤魔化しのない制度設計が、今、強く求められている。
栃木・大分・熊本で発覚した事件を多治見家・澪の家族を通して再構成してみようかと思います。




