音のない嫌がらせ
音のない嫌がらせ
土曜の午後。
インターホンが一度だけ震え、玄関の外に澪が立っていた。
痩せた頬、目の下の影。
「……入ってええ?」
名古屋の音が、細い。
「うん」
リビングに入るなり、澪は伸介の顔を見て、息を飲んだ。
「伸……やつれとるがね」
鏡でわかってはいた。けれど、友だちの口から出ると、現実になる。
伸介は小さく笑うふりをした。
「食べられん日が続いとるだけだわ。大丈夫」
大丈夫、という言葉は薄い紙みたいに、指でちぎれそうだった。
一華が温かいスープを置いて、席を外す。
澪は黙って、テーブルの端にドアラの缶バッジを転がした。
「これ、置いとく。……“楽しかった”は、捨てんでええで」
伸介は頷く。声が、出にくい。
胸の速度計は、相変わらず震えていた。
⸻
月曜。
学校は静かだった。
静か、という名の圧。
SNSに証拠が残ると悟った連中は、画面の外へ移った。
•給食の配膳で、お椀だけそっと外される。
•上履きの中に、砂。掲示物の裏に押し込まれる悪意のメモ。
•図書カードがいつの間にか紛失。返却期限だけが教室で囁かれる。
•掃除当番のバケツに針のような木片。
•自転車の空気を抜かれる。サドルが濡らされる。
•「先生来た!」の合図だけが広がり、沈む。
スマホのレンズは沈黙したが、囁きが増えた。
「ここ座ると“疫”うつる」
「近くにおると“非常”鳴るで」
笑いは起きない。うすい失笑だけが、足元で擦れる。
⸻
学校は動こうとした。
だが、証拠が集まらない。
WHITE BOXは画面を掴むには強いが、音のない嫌がらせには弱い。
生活指導は見回りを増やし、巡回シフトを組む。
けれど、指導の影を見た瞬間に、風景が“通常運転”へ偽装される。
計画された沈黙は、証拠の空白を量産した。
古田教頭は、メモの余白に三本線を書いた。
•事実:物が動く/位置が変わる/痕跡が残る
•感情:怖い・痛い・苦しい
•評価:冗談・大げさ(→排除)
「“動いた痕跡”を拾うんや。」
そう言って、教室の写真定点を始めた。
朝の黒板、配膳台、ロッカーの棚板――同じ構図で毎朝撮る。
誰がやったか、までは映らない。
けれど、**“動いた”**は残る。連続性が、嘘を拒む。
⸻
それでも、間に合わない日がある。
その日の昼休み、伸介が席に戻ると、机の中が空だった。
教科書、ノート、筆箱。ぜんぶない。
天井の蛍光灯に血の気が引く音がした。
澪が走り、蓮が配線ダクトの中を覗く。
里奈はゴミ箱をひっくり返し、紙くずを拾う。
どれも、ない。
ホームルーム前、何も持てない両手が、教壇の前で震えた。
山根の視線が揺れ、クラスの空気が**「知らん顔」**で整列する。
(これも、“証拠なし”になるんだわ)
胸の内側で、合図が虚しく鳴った。
コン、コン、コン。
(止まれ。整えろ。……出られん。)
⸻
放課後。
昇降口の傘立てで、伸介の傘だけが消えていた。
外は雨。
澪が自分の傘を差し出す。
「入ってこ。濡れたら風邪ひくがね」
二人分の肩が、ぎゅっと狭い空に押し込まれる。
それでも、道の角ごとに背中に刺さる視線が増えるようで、足取りは重くなる。
家のポストには、差出人不明の紙切れ。
〈“駅、止めるなよ”〉
字は拙い。けれど、拙さが本物らしさを装っていた。
一華は封筒を持ち上げ、光に透かす。
「触らんといて。袋に入れて、保全する」
三人で無言のまま、封緘。
記録は、未来の盾だ。




