第十七章『慈悲と供養 ―拷問椅子の聖者―』
その“願い”のような声が、地下に響く。
周囲の囚人たちは、息を呑んだ。
もはや、彼が何者かなど関係なかった。
――明らかに、“ここにいてはいけない存在”が現れたのだ。
地下牢には、電流の匂いと焦げた鉄の音が満ちていた。
「フザけんじゃねぇぞこの野郎ォ!!」
ベロワの叫びが響き、再びスイッチが押される。
通常の倍の電圧が、迅の身体に叩き込まれた。
が――
「……っふ……ふふ……ああ……感じます、この痛み……っ」
迅は、笑った。
明らかに普通ではない。
いや、最初から“狂っていた”のかもしれない。
「あなたの怒りが……この身体に宿るたび……ああ、なんて……なんて尊い……!」
苦痛のはずの痙攣の中で、微笑を浮かべながら、彼は“願い”を捧げるように呟く。
「さあ……もっとください。あなたの煩悩を。あなたの破壊を。あなたの絶望を――この身が、供養いたしましょう」
「っっだぁああああああああ!!!!」
ベロワは椅子を蹴り飛ばし、スイッチを連打しながら激昂する。
「アア゙ッンッギモヂィィィィイイイイ!!!!」
昇天しそうな勢いで叫んでいる。
「なんなんだよお前!! なんで拷問されて笑ってんだよッ!! ぶっ殺すぞオオオ!!!」
もはや周囲の拷問者たちも止めない。
いや、誰も止められなかった。
まさに狂気と狂気の激突。
――そのはずだった。
「……やめなさい」
一つの声が、それを断ち切った。
教会の入り口――
教会の崩れかけたアーチの前に、白銀の光をまとった少女が立っていた。
その姿を見た瞬間、柚希の目が見開かれる。
「……マリア……?」
小さく漏れた声は、懐かしさと驚きが入り混じったものだった。
過去に共に“願い”を学んだ、姉妹弟子――だが、あのとき別れたまま会うことはなかったはずの人。
(どうしてここに……いや、まさか)
柚希の胸に、かすかな確信が灯る。
彼女の“縁糸観”が、知らぬ間にマリアをこの場所に導いていた――その可能性に。
その隣で、灯夜が驚いたように呟いた。
「……誰?」
柚希は微笑むように言った。
「……縁が、ここまで導いたんだよ」
彼女はゆっくりと歩み寄り、ベロワの正面に立つ。
「あなたの“懺悔”は、まだですね」
その言葉に、空気が変わった。
ベロワの笑いが、止まった。
「……はァ? なに急に正義マン気取りしてんだ……」
「懺悔しなさい。あなたの罪を――本当の罪を」
マリアの声は静かだが、絶対だった。
「チッ……俺が罪? こいつらの罪を許してあげる側で俺は……」
口を開いた瞬間――
口元に曼荼羅が広がった
「俺は……子どもが泣く声が好きだ。壊れる寸前の顔がたまんねぇ……ッ!? な、なに言ってんだ俺……!?」
言葉が止まらない。
頭では否定しているのに、口が勝手に“真実”を語り出す。
「俺はなァ、牧師だった頃も教え子を……!」
「やめろおおおおおおお!!!」
ベロワは咆哮し、マリアに向かい、蹴り飛ばした。
「……ッ…!!」
マリアは言葉にならない声を発した。
「…まだあなたの懺悔を聞いていません。」
ベロアの咆哮は止まらない。
「うるせぇ!!!余計なことをしゃべらせやがってぇ!!」
また一発一発とマリアにダメージが入っていく。
バシッ…
「それ以上罪を重ねるのはよくないですね」
先ほどまで椅子に縛られていた迅がいつの間にか拳を止めている。
拷問を受けていた時が嘘かのように整った顔をしている。
その声は、地の底から響いたような静寂の力を帯びていた。
「あなたの罪――この手で、浄化します」
ほとんど無力化されていたマリアを目の前にして静かに立ち上がった。その時、ベロワが愉快そうに笑いながら言った。
「なんでここにいんだよお前。喜んで拷問受けてりぁいいだろ。ヒーロー気取りかぁ??」
「あんな顔見せておいて格好着くわけねえだろ」
次の瞬間、迅の拳が闇を裂いた。
バコッ!!
ベロワの身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
その連撃は、もはや“暴力”ではなかった。
――怒りをもって、慈悲を執行する。
「あなたの罪を肩代わりします」
廃墟の教会に、雷鳴のような打撃音が響いた。
骨の折れる音がした。
囚人たちは、唖然として見ていた。
誰も、止めようとはしなかった。
いや――止められなかった。
迅の目が一瞬、激しく燃え上がった。
「愚かなあなたにも慈悲を――」
その一言が、狂った空気の中で突然、強く響き渡った。
彼の顔が、今まで見たことのないほど冷徹なものに変わる。その美しい容姿に、まるで仏のような輝きが宿っていたが、目の奥に潜むのは他者を憎むような冷徹さだった。
ベロワが声にならない声で口を開く。
「なぁに、てめぇ、俺のこと庇ってんのか? なのになんで殴られてんだ?」
迅は、まるで悟ったかのように微笑んだ。
「私はただ、止めなければならないだけです。暴力では何も解決しません。」
その冷静な言葉が、逆にベロワの神経を逆撫でた。
「…お、お前、言ってることわかってんのか?い、いかれてる。まさに今俺が暴力を振るわれているんだぞ」
ベロワが瞬時に掴んだバールで、迅に向かって振り下ろす。だが、それを軽々とかわし、迅はそのままベロワを見据えて一歩踏み出す。
「他者の痛みを理解してください」
その言葉が落ちるや否や、迅は再び冷徹な顔で歩みを進め、ベロワの胸に容赦なく膝を打ち込む。その音は、部屋に響き渡るほど鋭く、そして決定的だった。
ベロワが衝撃で後ろに倒れ込む。
「――これ以上、世界を汚さないでください。」
その一言が、まるで裁きのように響いた。
しかし、すぐに迅の目が変わった。今までの冷徹さが消え、顔に暗い狂気が宿った。
電撃が落ちてきたかのように身体はビクビクと痙攣する。
「あぁ素晴らしいぃ……!これでまた一人救われる…!!!」
彼は急に暴れだし、容赦なくベロワを打ちのめし始めた。
「これが――! これが世界の、あなたの――痛みだッ!!」
その声が響くと、迅は突然、己の体に再び電流を走らせられた痛みを嘲笑うかのように叫びながら、顔を引きつらせた。
「アァ、この痛み、叡智様に捧げます――!」
「……私はただ、この身を“器”として差し出しているだけです。
どうか、あなたは……あなた自身の願いを、どうか穏やかに咲かせてください。
私のこの供養は、誰かに真似てほしくて行っているのではありません……」
彼の体が震える中、その痛みに対する狂気がどんどん強くなっていった。まるで過去の苦しみが全て、今ここに集約されていくかのように。
迅はその場に転がるベロワ容赦なく叩きつけるたびに、言葉では言い表せない愉悦を感じているようだった。
「アァ!叡智様ァ――この怒りもまた、慈悲に変えて……!」
迅は、最後の一撃を振り抜いた。 それは、業を断ち切る刃のようだった。
静寂。
ベロワは、完全に沈黙していた。ただ静かに、涙を流していた。
取り巻きたちが震えている。 誰もが、迅を見ていた。 その姿に――恐怖と、敬意と、畏れを。
そこにマリアが軋む身体に鞭を打ち歩んでくる。
「あなたの罪を…少しでも私が肩代わりするため…ここで懺悔してください」
泣きながらベロワは笑う。
「ふん……いいだろう。私は“彼ら”の懺悔を受けてやってたんだ。みんな救われたがってた」
マリアは静かに言う。
「それは嘘。あなたは彼らを“救って”いなかった。
あなたは――“懺悔されることに酔っていた”」
ベロワの顔が引きつる。
口元に曼荼羅が光り口が勝手に動く。
「あぁ……そうだよ……!
俺は“懺悔”されるたび、神になった気分だった……!
“救われたい”って目で俺を見るあの顔……あれが、最高だったんだよ……!」
声が震える。言いたくないのに、言わされる。
「だから、拷問なんて当然だろ!? “俺が裁いてる”って……!
あの感覚が……消えてほしくなかった……!」
マリアは目を閉じ、静かに言う。
「それは救済ではない。
あなたは“他人の罪”に寄りかかって、自分の傲慢を隠していた」
ベロワは、泣き崩れる。
「……わかりました。あなたのその罪――わたしが一緒に背負います」
次の瞬間、マリアの足元に蓮のような光が咲き、血が唇から零れる。
背後には、痛みと慈悲の曼荼羅が浮かび上がり、懺悔者の魂から黒い靄が抜け落ちていく。ベロワはいつの間にか人間の姿に変わっていた。
敵はあっけに取られている。
捕らわれていた柚希と灯夜はすぐさま拘束をとく。
柚希が駆け寄る。
「っ……マリア!?」
「……だいじょうぶです。これは……光に変わる痛みなので。」
灯夜は振り返り残党を睨みつける。
「お前ら…匠をあんなにしやがって。こんな少女も傷つけて恥ずかしくないのかよ!!!」
その怒声が教会の空気を震わせた。残党の数人が、一斉にマリアの方へと走り出す。既に力尽きかけている彼女に、無慈悲な刃が迫る。
そのとき――灯夜の瞳が揺れた。
視界が、二つに割れた。
一つの未来。拷問器具の刃がマリアの首元に迫り、崩れるように倒れる姿。
もう一つの未来。自分が動き、敵を殴り倒し、マリアの命が救われる光景。
選択の余地はなかった。
「やめろおおおおおおおッ!!!」
灯夜のスイッチが入った。
落ちていたバールを拾い上げ、全身の筋肉が爆発するように動き出す。憎しみ、怒り、痛み、無念――すべてが胸に渦巻いていた。
(なんで……こんな目に……匠が……あの母親が……子供まで……!!)
目に映るのは、焼かれた痕、泣き叫ぶ子、震える老人たち。
灯夜は怒りのまま、残党を殴り倒していく。
「人を苦しめて……なんでそんなことができるんだよッ!!!」
バールが鈍く唸り、残党が倒れ込む。さらに、もう一人、もう一人――止まらない。
「やめなさい」
低く、しかし凛と響く声が、怒りの渦中に落とされた。
「怒りは、慈悲に変えなければいけない」
振り返ると、そこにいたのは鷹野迅だった。鋭い目が、怒りに染まった灯夜を真っすぐに射抜いている。
「そのままでは、君自身が闇に呑まれる。君は“祈る者”だ。怒りに飲まれてはいけない」
灯夜は、バールを振り上げた手を止めた。肩が震え、呼吸が荒い。
(もし俺がこのまま壊していたら、誰も救えない。
“願い”って、そういうものじゃない……!)
(……怒りじゃ、誰も救えない)
(“願い”って、誰かの命を壊す力じゃなくて……守る力のはずだ)
(……俺、何してた……)
ゆっくりとバールが手から滑り落ち、鉄の音が響く。
その瞬間、空気が変わった。まるで黒い靄が晴れるように、残党たちの瞳から狂気が抜け落ちていく。
一人、また一人と、その場に膝をつき、錯乱していた者たちが我に返る。
マリアが壁に寄りかかりながら、微笑を浮かべて頷いた。
「……届きました。怒りを乗り越えた“願い”が」
その言葉に、誰もが黙って頷いた。
胸の奥で、暴力では癒せなかった傷が、かすかにほどけていく。
願いはまだ確かに脈打っていた――静かに、深く。
柚希が駆け寄り、匠の縄をほどき、彩花の手を取った。
迅は倒れていた老婆を抱き起こし、マリアも手を差し伸べる。
皆が、それぞれのやり方で、教会に残された傷を癒していった。
やがて、教会を後にするときが来た。
崩れかけた扉の外に、淡い光が差し込んでいる。
瓦礫の隙間に、まだ火が残っていた。
風よけに並べられたブロックの中で、スティックパンの袋が温められている。
「……この非常食、微妙に焦げてる」
「それがまた美味しいの」
柚希とマリアが並んでしゃがみこみ、パンをかじっている。
灯夜も、その横に腰を下ろした。
誰も喋らない。ただ、風と火の音だけが耳に残る。
「……ありがと、ふたりとも」
灯夜がぽつりと言った。
柚希が振り向く。「どうしたの、急に」
「なんか……ああいうの見たあとだからさ。少しでも“生きてる感じ”が嬉しくて」
火の向こうでマリアが微笑む。
「じゃあ、いまのこの時間ごと、願えばいいんじゃない?」
「……願い、か」
灯夜はつぶやく。
その声に、焚き火が応えるように揺れた。
火は揺れ、誰も言葉を交わさなかった。
ただ焦げたパンの匂いだけが、夜に滲んでいた。
それが、“まだ生きている”という実感のようだった。
そのとき――一人の少女が、泥団子を手に迅へ近づいてきた。
少女はあの、不倫を告白した母親の子どもだった。
「……おじちゃん、これ、あげる」
先ほどまでの狂気な姿が脳裏に浮かび、母親が慌てて駆け寄る。
「すみません! この子が勝手に……!」
だが、迅は笑って泥団子を受け取った。
そして、そっと口に運ぶ。
「……おいしい」
涙がこぼれた。
「純粋な味がする」
「……ありがとう。
でもね、私みたいな供養は……本当は、誰かにやってほしいものじゃないんだ。
あなたの願いは、もっと綺麗な形で咲いてほしい。
それを守るためなら、私の身がどうなっても構わない」
教会の鐘が、崩れた塔の上で、かすかに鳴った。