5話アドニスと私
私が転生したのはアドニスを虐げる悪徳継母の肉体だった。ということは、私がもたらす不幸の連鎖はまだ続くことになる。
──さ、さ、最悪……私の人生って、一体なんなんだろう……。
今までのあれこれが脳内をよぎって、ネガティブなことを考えずにはいられない。大人として、ソファーの影に隠れたままのアドニスをなだめて安心させてあげなければいけないのに、突然突きつけられた自分のこれからの運命を思うと、顔が引きつってしまう。
「ご、ごめんなさい……僕、部屋から出るな、って言われてて……その、気がついたら……家の人がいなくなってて……」
か細いアドニスの呟きを聞いて、意識が引き戻される。私が黙りこんでしまったのを自分が何かしてしまったのだと思ったらしい。
「それで、誰かが帰ってくるのを待ってて……でも、お腹がすいたから、下にあった食べ物とか食べちゃって……ごめんなさい」
ため息が止まらない。アドニスは痩せこけていて、怯えていて、一人で生きていくこともできないのに、この屋敷に放置されていたのだ。
こんな何の罪もない子を……。この屋敷の元使用人たちと、グレゴリーは一体何を考えているのよ!?
私だったら絶対にそんなことをしない。
今まで感じていた絶望や恐怖、不安みたいなものが、アドニスを見ていると無責任な人達への怒りに変わっていく。
「いいえ、ここがあなたの家だもの、自由にしていいのよ。……大変だったのね」
どんなに最低で最悪であろうとも、今が現実。私は大人で、アドニスは子供。だから私が彼の命運を握っているのは間違いがない。
でも、私は私だ。マリーアでも、マリーアじゃなくても、アドニスを虐げる理由なんて一つもない。この子はここでひとり、ずっと待っていたのだ。言いつけを守って、誰にも頼れず、誰にも気づかれずに。
──私は、彼を傷つけたりはしない。もし、私の人生に意味があるとしたら。
それってアドニスを救うためかもしれない、と思う。
ゲームの設定通りなら、アドニスに魔法の才能があるのは間違いがない。彼の継母として彼をしっかり育てることができれば、私の呪いのような不運もなにか幸運のアイテムとかで相殺できる未来があるかもしれないし……。
どっちみち、一人の人生は私だって嫌だ。もし私を必要としてくれる家族がいるなら、そのために頑張った方がずっといい。
──覚悟は決まった。
にっこりと笑みを作って、両手を広げる。……うまくできているかは、わからないけれど。
「大丈夫よ、アドニス。もう大丈夫」
ゆっくりと、できるだけやわらかい声でそう言った。アドニスは私をじっと見つめている。その瞳は希望ではなくて、得体の知れないものを見る目……のような気がする。
「改めて言うけれど、私はマリーア。あなたのお父様、グレゴリー・クーリッジと結婚したの」
アドニスの目が少し、驚きに見開かれる。
「けっこん……?」
「そう。だからね、私はあなたのお母さん、ということになるの。突然来て、びっくりしたかもしれないけど」
「……じゃあ、お父様は? どうして帰ってこないの?」
ぽつりとした問いに、口ごもってしまう。
どうしよう。ここで「死んだ」とさらに過酷な現実を突きつけるのは躊躇われた。
「……今は、ちょっと離れてるの」
「帰ってくる?」
「……さあ……どうかしら……」
返答があやふやになる。別に、私が殺した訳ではないのだけれど。
「だから、しばらく一緒にお留守番してくれると嬉しいな」
アドニスは少し考えこんでから、ゆっくりと口を開いた。
「でも……僕、呪いの子だから、って……言われてて……本当はこの家にいてほしくない、ってお父様に……」
──なら、せめてしかるべき所にでも連れて行ってあげるのが大人の役目ってものでしょうが。
と心の中で毒づいても同意してくれる人は居ないのだった。
「だから僕、マリーア……さんを、呪っちゃう……のかも」
私は知っている。アドニスが『呪いの子』だなんて言われていたのは、ただ瞳が紅いせいだってことを。
「あなたの呪いで誰かが不幸になったの?」
あえて尋ねてみる。
「わかんない……」
でしょうね。だって、実例はないはずだもの。
「そう。私は「不幸を呼ぶ女」って言われているのだけれど、どう? それっぽいかしら?」
私の自虐に、アドニスは前髪の奥で大きな瞳をぱちぱちとさせた。
「よくわからない、けど……そんなふうには……見えない、かも」
「でしょ? 私にも、あなたが『呪いの子』には見えないわ」
アドニスは私を見つめたまま、ぎゅっと唇を噛んだ。すぐ信用されるとは思っていない。だってお互いに何も知らないのだもの。
「あの、僕、がんばる……でも、僕のせいで、何か起きたら……ごめんなさい」
……それは、こっちの台詞なのよ。私の方でも、何も起きないように、極力気を付けて生活するつもりだ。
「私がなんとかするわ。だから、今日からよろしくね」
「は、はい」
「この家の中のこと、わかる?」
「うん、たぶん」
「じゃあ、一緒に探検しましょう」
私がそっと手を差し出すと、アドニスは躊躇いがちに、その小さな手を私の指先に触れさせた。
震えていた。でも、ちゃんと触れてくれた。
「う、うん」
アドニスが小さく笑った。それは、ごくごくわずかだけれど、確かに『脱悪役』への最初の一歩──そんな感じがした。
なんとかアドニスと二人の生活を立て直さなければと思ったその時。
ドンドンドンッ!!
と屋敷の玄関を乱暴に叩く音がして、アドニスがびくりと肩をふるわせた。