4話 アドニスという子
ほこりまみれのドアノブをそっと押して中に入ると、窓から吹き抜けてきた爽やかな風が頬を撫でた。
真正面の大きな窓は開け放たれていて、ふわりと風に巻き上がったカーテンが視界を遮る。その中に紛れて、窓枠をよじ登っている子供の背中が見えた。頭は完全に下に重心が行ってしまっているのか、見えない。
まるで、今にも重力に負けて落下してしまいそうだ。
「……あぶない!」
このままだと、窓から落ちてしまう!
反射的に駆けよって、子供を窓枠から引き剥がして抱え込む。年の頃は四歳ぐらいだろうか。痩せた体はとても軽く、簡単に窓枠から腕の中で小さく「ひっ」と声が聞こえたけれど、構いはしない。
「危ないわよ!」
「ご、ごめんなさい……!」
勢いに任せて叫ぶと、腕の中の小さな生き物はか細い声をあげて、私を見上げた。
その顔を見て、息が止まりそうになる。
伸びたボサボサの黒髪。服は薄汚れていて、襟元が伸びているし、足元は靴どころか靴下さえ履いていない素足だ。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
伸び放題の前髪から覗く、深紅の瞳。魔法も、エルフも、異世界転生もなんでもありのこの世界でも、紅い瞳というのは珍しい。
──私は、この子を知っている。
そう、私の魂が教えてくれている。けれど、何故知っているのかはまだわからない。
「私はマリーアよ。今日からこの家に住むことになったの」
抱きしめていた腕の力を緩めると、彼──きっと男の子。は野良猫みたいに素早く私の膝から逃げ出して、窓から身を乗り出す足場に使ったらしいソファーの影に身を隠した。
多分、彼はこの家に潜んでいて、私がやって来たから慌てて隠れて、そして見つかりそうになったから逃げようとしたのだ。
「驚かせてごめんね。もう、誰もいないと思っていたから。あなたはここに住んでいるの?」
──情報が欲しい。彼を怖がらせないようにしないと。
ゆっくりと、言葉を選んで問いかける。
「一人で住むのは寂しかったから、ちょうどよかったわ。追い出したりしないし、怒ったりもしないから、まずはお名前を聞かせてくれる?」
子どもはぴくりと肩を震わせた。
「……怒らない?」
「怒ったりしないわ!」
長い沈黙の後、小さく、かすれた声が返ってきた。
「僕は……アドニス……」
アドニスという名前には聞き覚えがある。
「家名はクーリッジ?」
アドニスはこくりと頷いた。
彼がアドニス・クーリッジならば、元夫、グレゴリーの連れ子だ。元妻のもとで育てられているはずだった子が、どうしてここに?
「アドニス……クーリッジ……」
名字も名前も、そう珍しいものではないから、どこかで、聞いたことのある組み合わせなのは当たり前だ。
……いや、違う。
頭の中で、なにか記憶の扉のようなものがかちりと開いた気がした。
アドニスとマリーア。
私の前世は日本人で、私はただ、見知らぬ異世界に転生したのだと思っていた。
だって世界に「名前」なんてものはないのだもの。
だから、今まで気が付かなかった。ここが「乙女ゲーム」の世界であることを。そして、彼はゲームの登場キャラクター。
攻略できない、つまりは決して報われることのない、悲劇的な男。
「アドニス……あの、ヤンデレ当て馬の……」
私がその名前を口にした瞬間、アドニスはソファーに身を隠した。まるで私の声に触れることさえ恐れているみたい。
どんどんと、脳裏に嫌な記憶がよみがえる。
愛されることを知らず、誰にも大切にされず、ただ飢えたように愛を求め、歪んでしまったキャラクター、それがアドニス。
彼が、私の知っているアドニスだとしたら。私は、私自身──「マリーア」のことも知っている。
そしてその原因を作ったのは、彼の義母だとゲーム内で示されていた。
つまりはこの私。マリーア・クーリッジはこれから彼をいじめ抜いて、歪ませてしまう悪女だ。
──私が呼ぶ不幸は、どうやらまだまだ続くらしかった。