2不幸を呼ぶ女(後)
深夜になっても、眠ることはできなかった。
所持品は没収されてしまっていて、薄いブランケット一枚とナイトドレスでは寒さをしのげない。備え付けの寝台はすっかり使い古されていて、横になっているとなんだか背中がむずむずとしてくる。
かしゃんと音がして顔を上げると、鼠が一匹、私の残したパンをかじっていた。ため息をついて顔を上げるけれど、暗闇の中でも空はどんよりとした雲に覆われていて、星のひとつも見えない。
「お先真っ暗ってことね……」
そうつぶやくと、くしゃみが出た。ハンカチを探して、ふと、こんなにも寒いのに、涙は出ないのだと気づいた。
……夫が死んでも、私は泣けなかった。
悲しまない、人の不幸に寄り添えない私は、不幸になって当然ということなのだろうか。
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そんなことをぼんやりと考えているうちに夜が明けて、私の身元引受人が到着したと看守に告げられた。
石造りの階段に反響する革靴の音が聞こえてくる。
「……お父様!」
父のウェルフォード伯爵が駆けつけてくれたのだった。鉄格子にすがりつくと、建付けが悪いのか、がしゃんと音がした。
数日ぶりの親子の対面が拘置所だとは、さすがの父も想像していなかったはずだ。ここからウェルフォード伯爵邸まではかなりの距離がある。夜通し馬車を走らせて駆けつけてくれたのだろう。
「お父様! 私、無実なんです……!」
「分かっているよ、マリーア」
父の声は、不思議なほどに静かだった。以前よりもずっと老けたような、そんな疲れのにじむ声だった。
「お前が、自分から誰かを傷つけるような子ではないってことくらい、私が一番よく分かっている」
「お父様……!」
その言葉に、胸が詰まった。信じてくれている。たった一人でも、信じてくれる人がいた──そう思った、その直後。
「……でもね、マリーア。私は、もう疲れたよ」
そう言って、父は顔をしかめてから、私に背を向けた。
「そ、そんな……」
それ以上は、声を発することができなかった。
「たとえこの結婚がどうなろうとも、お前はすでに家を出た身。……もう、ウェルフォードの屋敷の門を通ることは許さない」
胸の奥がずきりと痛んだ。私はもう、ウェルフォード家の人間ではないということ。たった一日とはいえ嫁いだのだから当然かもしれない。でも、父の言葉はそのような意味ではないことははっきりとしている。
たとえ無実だったとしても「不幸を呼ぶ女」であることには変わりがない。私に帰る家は、もう、ないのだ。
「わかりました……そうですよね。お父様。今まで育ててくださって、ありがとうございました」
「……元気でな」
父は私の保釈金として、いくばくかのお金を置いて、去って行った。
昼頃には調査の結果が出て、グレゴリーの死因は持病の心疾患による急性の心臓発作だったと判明した。
毒物の検出はなく、私は無罪放免となった。
──無実。
その二文字が、こんなにも空虚な響きを持つときがあるだなんて、数日前には想像もしていなかった。
釈放されて、ふらふらと拘置所から外へ出ると、数日ぶりに見た太陽の光はひどくまぶしかった。
自由になったはずなのに、どこにも行き場はない。帰る家もなければ、迎えに来てくれる家族もいない。足元には旅装のままの小さなトランクだけがある。中には数日分の着替えと、母の形見の宝飾品。グレゴリーとの旅行のために用意した、魔導列車のチケットも。
「一人ぼっち、かぁ……」
誰にも聞かれないように、小さく呟く。
何のために私は、異国の地で結婚したのだろう。家族を不幸から解放するため、だろうか。
──でも、私はまだ生きている。それがいいことなのかは、まだわからないけれど。
私はトランクの取っ手を引き寄せ、駅へと足を向けた。
「とりあえず、クーリッジ邸に行くしかないか……」
チケットには日付が示されていない。まだ使えるはずだ。
そして──
「魔法都市メディアランス、ね……」
どこかで聞いたことがあるような気がして、胸がざわついた。その響きに、まるで訪れたことがあるような、奇妙な既視感がある。
でも、私はメディアランスを訪れたことはない。だから、どこかでその名前を見聞きしたのだろう。
「……気のせい、ね」
そう言い聞かせながら、私はチケットを握りしめて、魔導列車が発車する駅へと向かった。