9話 先生(前)
まだ空は白み始めたばかりの明け方に目が覚めた。
休養は万全とは言いがたいけれど、やるべきことははっきりと決まっているから、心身共にエネルギーが満ちている。
起き上がってまずするのは洗濯だ。アドニスの服装をどうにか外出用らしいものに整えなければならないけれどお金がない。
衣装部屋だったらしい部屋を漁ると、ずいぶん昔のものらしい子供服が出てきた。……多分グレゴリーのお下がりだろうけれど、今アドニスが着ている襟がダルダルのものよりは大分ましだ。
「ああーっ、冷たいっ」
井戸水で服を洗っていると、背後に気配を感じた。
「マリーア……」
「あら、アドニス。おはよう」
振り返ると、眠そうな目をしたアドニスが立っていた。朝が弱いらしい。
「どうしたの?」
「マリーアが、どこかに行っちゃったのかと思って……昨日のこと、夢かなって」
「夢じゃないわ」
もし互いの不幸な境遇が夢なら、どんなによかっただろう。けれど残念ながら、ここが現実だ。
「お洗濯をしてたのよ。それとね──あなたの、先生にご挨拶しようと思って」
アドニスはぱちぱちと目を瞬かせた。
「先生? なんの?」
「魔法のよ」
「魔法……を勉強したら、僕……お金を稼げるようになるかな?」
「ええ、そうね。でもその前に、王立魔法学院を目指すの」
「おうりつ、まほう、がくいん……?」
それってどこ? とアドニスは首をかしげた。
「魔力のある子が集まる場所よ。そこならきっと、お友達が沢山できるわ」
「大変そうだね」
「ええ。でもアドニスなら、きっとできる」
ゲームの知識が正しいならばアドニスには王立魔法学院へ進めるだけの才能がある。その芽を伸ばせば明るく、自信を持って生きられるはず。
けれど私には魔法を教えられない。だからこそキャスティの力が必要だ。性格に難はあるけれど、超一流の魔術師。そしてヒロインの育ての親。師として申し分ない。
それに幸運のお守りをヒロインに作って持たせてくれるぐらいの人だから、私達の不幸パワーがどんなに強くたって跳ね返せるはずだしね……。
生き延びるためには、どんなに厚かましいお願いだってしてみせる。
「分かった。僕、頑張るよ」
アドニスにも私の決意が伝わったのか、彼はしっかりと私の目を見て頷いた。
「お願いね。……そうだ、この服を乾かしてくれるかしら」
なにしろ洗濯桶しかないので脱水にも限界があるし、今日は曇りだから半日かかる。うまいことアドニスが炎を使って乾かしてくれたら大助かりだ。
「うん、わかった」
洗濯をアドニスに任せて、次に向かうのは書斎だ。お金になりそうな本はないけれど、クーリッジ家の歴史を記した本なら残っている。
「やっぱり、地図は記憶の通り……」
キャスティの家は都市の郊外、川を渡った先の平野にそびえ立つ大きな木の側にある。幸運なことに、ここからなら徒歩でも日帰りできる距離だ。
「マリーア、服が乾いたよ」
庭に戻ってみると、アドニスがにこにこしながら近寄ってきた。
「あら、もう? やっぱり天才ね!」
「そ、そうかな……」
照れたようにうつむく仕草が、また可愛い。
「今日は曇りでしょう、普通に干したら半日はかかるもの。便利ね、人間乾燥機」
「にんげんかんそうき……?」
「なんでもないわ。さ、着替えたら行きましょう」
交通費がもったいないので、徒歩で向かうことにする。おんぶをすると言ったのだけれど、アドニスはかたくなに首を横に振りつづける。疲れたでしょう、ううん大丈夫、を繰り返しているうちに、川のふちまで辿り着いた。
ここを越えたら、キャスティの家はすぐそばだ。
「この先に先生がいるの?」
「ええ。何か見える?」
私の目の前には緑の草原が広がっていて、目印の大きな木さえない。アドニスは注意深く周囲を観察しながら、考え事をしている。
「うーん、見えないけど……何かあるような、気がする」
「そう。そうなのよ」
キャスティの家はそう簡単に辿り着けないように隠されていて、ここを抜けられないと彼と話をすることすらできない。……ヒロインは子供時代に時空のはざまからダイレクトに落ちてくるんだけどね。
「ここから、どうするの?」
アドニスは不安そうに私を見上げている。
「大丈夫、私、暗号を知っているから!」
橋のたもとの石版を手順通りに押すとカモフラージュの幻影が解けるのだ。
「私が指示した通りに、アドニスが押してくれない?」
「え、僕? わかった、がんばる」
「よろしくね。まずは左上の赤っぽい石を……」
私が触ると何かが起きるかもしれないので、アドニスに押してもらう。
「じゃあ、最後に真ん中の石を」
「うん」
アドニスがボタンを押すと目の前の景色がぐんにゃりと歪んで、大きな木が見えた。木にはハンモックがぶら下がっていて、そこに座っている人影が見える。
長い銀の髪──遠目からでもわかる。あれがキャスティだ!
そろりそろりと近寄ってみるが、反応はない。
私達が幻影をすり抜けて来たことに気が付かないわけもないのに、キャスティは手元の本から視線を上げる様子はない。
没頭しているというより……興味がない?
じりじりと近寄ってみる。拒絶もなく、もちろん歓迎もない。
「ぼ、僕、ご挨拶してくる……」
アドニスがするりと私の手を抜けて駆け出してしまった。
「あっ、待って!」
私がキャスティ・レンドベルクを善よりの存在だと認識していながら、ゆっくりとしか近づけなかった理由。
それは──
「せ、先生、ですか……?」
おずおずとアドニスが声をかけて、キャスティはアドニスに視線を移した。アドニスが気圧されたのか、びくりと硬直する。
白金の長い髪に碧玉の瞳、白い肌。絵画のように美しい外見を持ち、天才としての名声をほしいままにするキャスティは──
「教職はとうに辞した。俺はお前の先生じゃないぞ、ガキ」
そう、彼はとっても口が悪いのだ。




