③
なんかよくわからんが流れでイケメンさんとアパートの前まで来てしまった。
冷静に考えたら、見知らぬ男性に自宅まで送られるとか、これはこれでやばい事態であるが、このときはそこまで思考が至らなかった。
緊急時でハイ状態だった頭と身体が急速に冷えはじめたと――わたしの脳はあることに捕らわれていたのだ。
この燕尾服を来たイケメンさんの声。
ビジュアル。
さっきの「なんだと」の一言の強気な言いかた。
どこで聞いたか、ようやく思い出した。
アプリの中で推しが、仲間の執事と言い合いするシーンで出てくるショートボイスだ。
「ここが、こちらの世界でのお屋敷なのですね。なんというか見たことがない造りで、新鮮です」
相変わらずのイケボで言いながら、アプリの中の推し執事そっくりな彼は、にこりと微笑む。
家賃4万もしない格安アパートをお屋敷というのは通常ならもはや嫌味なんだが、それすら感じさせず狭い玄関の戸を開け先に入るのを促すというスマートな仕草。
「怖い思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。落ち着くまでゆっくりなさってください」
いや、あの、ゆっくりって言われても。
渡されたスーパーの袋の中身を冷蔵庫にしまうことすらできずぽかんと、目の前の彼を眺めていると、きれいな目が、心配そうに細められた。
「動揺されているのですね。今日は朝5時台から深夜まで作業されたのですから、お疲れのはずです」
「……」
それはアプリ『癒執事』の作業時間を図れる機能に記録した詳細な時間。
「そうだ。お茶でも淹れましょう。座っていてください」
とかなんとか言うと彼は、キッチンスペースに立った。
「これは、ホットココア……主様、俺の助言を実践してくださっていたのですね。嬉しいです」
念のため額に手をやると、うん微妙に熱いような気もする。
『冬の飲み物はホットココアがおすすめです。身体が温まる作用があるんですよ』
アプリ内で、よく出てくる会話がぼうっとした脳に立ち込める。
目の前に出されたココアを一口含んでみると、温度も味もある。
「それから、これ。さきほど落とされたので、拾っておきました」
イケメンがココアのあとに差し出してきたのは、スマホ。
「こちらの世界の道具なのでしょうか。変わった形ですね」
今何時になる、となんとなく開いたら、例の『癒執事』のアプリの画面だった。
ぐぐっと、息を一気に呑む。
画面には華麗な洋風インテリアの部屋が映っている。
その中に、推し執事の、彼がいない……。
うん。
ココアをもう一口飲んで、いったん腹をくくる。
認めるしかなさそうだ。
「あの……ほんとに、ハーヴェイ……?」
イケメンは、少しだけ怪訝そうに微笑む。
「どうされたのですか。きっとまだ動揺されているのですね。身体が硬くなっていらっしゃる。そうだ。リラックスに瞑想のお手伝いをしましょうか」
それも『癒執事』の機能——。
いや、そうじゃなくて。
「それはいいから、その、答えてください。どうして、ハーヴェイ……さんが、ここに?」
ついに言ってしまって舌を噛む。
やばい、仕事のしすぎでとうとうおかしくなったのかもしれない。
「なにをおっしゃってるんですか」
それなのに幻影だかなんだかわからないハーヴェイの形のイケメンは、当然のごとく微笑んでいるだけだ。
「この世界でもお守りできたらと、ずっとお伝えしていたじゃないですか。そのたび、そうだね、と答えてくださいましたね」
そして優しく、両手なんかをとって――。
「こちらでも全力でお守りします。主様」
その手はたしかに、人肌の温度を保っていた。