第二章『緑の世界』(5)
放課後、均は美術室のいつもの窓際で椅子に座りながら外を眺めていた。傍らには下書きをしているキャンバスを置いている。
作品の下書きを描き始めたのはいいが、あれからある一定以上描き進めて、ぱったりと描けなくなってしまった。
優香はなんの疑いもなく、均の描いた作品を東京だと言った。この田舎では人に悟られないように想いを維持しておこうと思っている。そしていつか何食わぬ顔で東京に行ってやろうと企てている、のだが――。
均が東京に憧れていることを、どうして全く接点がないのに知っていたのか。全くわからなかった。
均の想いを見透かされているようで、複雑な気持ちだった。
「……俺そんな絵描くことさえ好きじゃないんだよな。正直な話」
言い訳のように一人でぶつぶつ言っていた。
「どうして? 私、岩崎の絵好きだけどな」
背後から多田先生の声が聴こえてきた。しかし均は振り返らず、窓から見える緑を眺めている。
「今回は都会を描こうと思っているんでしょ? 何をそんな悩ましげに外なんか見てるの?」
「ここは田舎ですよ。いくら心で想っていたって都会は描けませんよ」
「そうかなぁ。私は田舎だからこそ描けると思うんだけど」
多田先生は近くの椅子に腰掛けて、均と一緒に外を眺めた。
「先生は都会に行ったことあるんでしょ。なら描けますよ。そりゃ」
うんざりするようにため息をついた。
「……よくよく考えたら、独り善がりな思いつきだけで描こうってほうがお門違いってやつです。あとで笑われるのが目に見えてますよ」
「芸術なんてそんなものなんじゃないかな。多くの芸術家なんて、自分が描きたいと思ったものを描いた独り善がりの作品ばかりだ。ま、中には周りのことを考えた上での作品もあるのは事実だけどね。ただ、笑われてもきっと独り善がりの作品を独り善がりだと思わない人が必ず一人は存在するよ」
「…………」
「その時点で、その絵は独り善がりの作品にはならない」
「先生」と言う後輩の声が聞こえてくる。多田先生は「ちょっと待ってねー」と軽く言いながら、外を眺めていた。
「……てことは、結局は独り善がりの作品なんてないってことになりますよ」
「私が言っていることは、今は理解が難しいかもしれない。けど、きっとこの言葉を岩崎は解ってくれると信じているよ」
緑の匂いを伴った風がふわりと教室に入ってきた。その空気を肺に入れながら均は口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
多田先生は黙っていた。
それを了承と捉え、均は緑の風景を眺めたまま言った。
「――自分の想いだけで、本当にあるその形を変えてもいいんですか。其処に自分が目指しているものがあると、望んでいるものがあると、勝手に解釈してもいいんですか」
多田先生なら、この言葉の意味を解ってくれると思った。暫しの沈黙のあと、多田先生は口を開いた。
「……それはどうだろうね。何事にも本当の形なんてないし、自分が想っているものに変わる時もある。でも変わらない場合、鱓の歯軋りだよ」
均は多田先生へ顔を向けた。多田先生も均を見ていたらしく、視線が重なった。
多田先生の髪から覗かせる瞳はいつになく真剣だった。
「だからこそ、今は岩崎にとって絵を描くことは気休めにもなるんじゃないかな。都会を描きたくば、都会を見ずってね」
「……そんな言葉聞いたことありませんけど」
「私が今考えた」
そう言ってふわりと顔を緩めた多田先生は、にひひと笑い、椅子から立ち上がった。そしてまた口を開く。
「岩崎がそういう想いを持って今回のその作品を描いているなら、完成した暁には何か新しい視野で物事が見れるかもね。もしかしたら答えだって見つけることもできるかもしれない」
多田先生は均の肩をぽんぽんと叩いた。
少し考えてから言葉を返そうとしたが、多田先生は既に立ち上がっていて、さっき声をかけられていた後輩に話しかけていたからやめた。
「もし完成しなかったら、どうなるんですか」と。
部活動をしている生徒に向けてのチャイムが鳴った。このチャイムが鳴れば帰宅の合図だった。部員たちはいつもより早く後片付けを始めた。
多田先生は用事があり、すでに帰っていた。いつも戸締りは多田先生がしているが、今日は部員がしなければならない。皆戸締りをしたくないのだ。
「部長、お疲れ様です」
一年や二年の後輩たちは、均に挨拶をしてから美術室を出て行く。
瞬が部長だったので、急にいなくなって多田先生は困るだろうと思っていたのに、三学期の最終日、均が部長だとさらりと言ってきた。ちなみに副部長は別にいる。だからその副部長が部長になると思っていた。副部長に対して居たたまれない気持ちになった。
「なんで俺なんですか」と、均は多田先生に疑いの目を向けるように言った。多田先生に「私は、あえて岩崎を部長にしたんだ」と、答えになっているのか、なっていないのか判らない返答をされた。
均は三年だから部長としていなければならないのは一学期までで、その後は引退だから、と無理やり自分に納得させた。
「……お疲れ様」
にっこりと笑いながら、後輩たちに言葉をかける。
しかし自分が部長だなんてなんの冗談だよ、と笑いたいくらいだった。
「部長、戸締りは――」
「俺がやっとくから、みんな先に帰っていいよ」
だらだらと帰る準備をしていて美術室には均以外いなくなり、がらんとした空間になった。
外は夕暮れ時で、緑の景色が橙色に染まっている。四月なので、少し涼しげな風が開けている窓から吹いている。
この時間帯が一番胸を締め付けられる。小学生の頃からずっと、この橙色の風景を眺めるたび、心細いような、寂しいような、切ない気持ちになるのだ。