第二章『緑の世界』(4)
それから一週間が過ぎて、新学期最初の美術の授業をしていた時だった。
対象物を真ん中に置き、それを囲むようにして数人で座り鉛筆でデッサンをする。均が座った席の、対象物をはさんだ向かいの席に優香が座った。
均は内心どきどきしながら、絵を描き始めた。測り棒で大きさを測るふりをして、さりげなく優香を眺めた。
こんなに長時間、優香をじっくりと見たのは初めてだった。
しかし優香が対象物を見た瞬間、均は目が合わないように別のところを見た。
素直に綺麗な子だと思った。目が大きく鼻筋もとおり、背筋もすらりとしている。少し短めに切った髪は下を向いた時には綺麗な髪がさらさらと肩から滑り落ちていた。
左手で髪を耳にかけた時、左手首につけている、一粒一粒が透明度の高い白や黒、赤、青、緑、黄、茶の七色が混ざり合った数珠が目に入った。春休みに入るまではつけていなかった。
変わった数珠だ、というのが最初の印象だった。
均は美術部ということもあり、比較的早く描き進めていた。
最初は全体のバランスを測るためラフで描き、その後で精密に描いていくのだが、対象物の上のほうを描くため視線をもっていくと、ちょうど優香と目が合った。
心臓が高鳴った。優香も均と同じところを描こうとしていたのだ。
均と優香はお互い目をそらさなかった。その間の時間は数秒だったか数十秒だったかさえ、間隔が判らなくなっていた。それほどに優香と見つめ合う、ということは非現実的だった。
優香は今、何を想っているのだろう。
そして何故、自分はこんなに優香が気になっているのだろうーー。
無意識に力が緩み、手に持っていた鉛筆が滑り落ちて、あろうことか優香の近くまで転がってしまった。優香の事を考えていたからバチが当たったのかもしれない。
周りのクラスメイトに「何やってんだよー」と突っ込まれながら、鉛筆を拾いに行った。
「ご、ごめん」
均は少ししどろもどろになりつつも優香に謝った。恥ずかしい。一気に顔が熱くなる。
優香の近くに転がった鉛筆を拾おうと手を伸ばしたが、偶然にも優香も地面に落ちた鉛筆を拾おうとしてくれていて、均の手は優香の手に重ねるような形で触れてしまった。
「ごめん! そんなつもりじゃ――」
咄嗟に優香と距離を置いた瞬間、
「――そんなつもりってどんなつもり?」
そばにいる均にしか聞こえないくらいの小声で言って、優香は小さく笑った。
均でちょうど死角になり、クラスメイトからは優香の表情は見えなかった筈だ。そしてその表情を見て、均が思っていた優香への印象は大きく変わった。
今までの優香はいつも冷たく、余裕を持っていて、なんでも軽くこなしてしまう。いつもどこを見て何を想っているのか全くわからなかった。
瞬には笑みを浮かべていて確かに驚いたが、それも今考えると今までの優香の延長にあった笑みに感じる。
今、目の前にいる優香の笑みは全く違っていた。親しげな表情に見えたのだ。
――本当の優香。
ふと、そんなことを均は思った。
その後は絵を描くことだけに集中しながら描き進めた。そのかいあって、かなり良い出来で描きあがってきた。一応美術部の威厳は守られただろう。
チャイムが鳴って、デッサンは次の授業に持ち越されることになった。素早く後片付けをするとそれを見ていた多田先生は言った。
「岩崎と大川は準備室に今日の分を置くスペースを作ってくれないかな」
美術部の均が呼ばれる理由は解るのだが、どうして優香を指名するのかと多田先生を見れば、ボサボサの髪の隙間から一丁前にウインクをしていた――気がする。
なぜ楽しそうにウインクしたのか理解したくなかったが、均はスペースを開けるために準備室に向かった。あの一連を多田先生に見られたからかもしないと思うと最悪だった。
優香は均の後に続いて準備室に入った。
美術部のものも置いてあるので、均はまず部員たちのイーゼルと作品を端に寄せる作業をすることにした。
「とりあえず、大川のそばにあるイーゼルから移動させよう」
均はそう提案したが、優香は黙ったまま動かない。ちょっと仕切りすぎたのかと一瞬冷やりとしたが、どうも違うらしかった。
「大川、どうしたんだ? ……って、瞬の絵?」
優香の視線の先には、瞬が置いていった作品があった。
「……宮辺君が描いたんだね。綺麗な絵だね」
かろうじて声を出した、という感じの言い方だった。均が瞬の名前を言って、初めて気づいたようだった。
綺麗な絵だね――と言うには聊か表情が険しい。
「……まあ、そういう道に進みたいらしいし」
「東京行ったもんね。……じゃあこれは、岩崎君が描いたの?」
まさか自分の作品も見てくれたとは思わなかった均は少し恥ずかしくなりつつ言葉を返す。
「うん。まだ下絵なんだけど」
「東京だよね。この風景」
「そうだけど、よく東京ってことが判ったな」
ビル群の描写をしていたのは確かだが、東京だと判る要素は、まだ一つも描いていなかった。
「わかるよ。……だって岩崎君、東京憧れてるでしょ」
「え?」
「…………」
東京に憧れているとか、そんなことを誰かに言ったことはなかった。瞬にだって言っていないのだ。
そのまま優香は黙った。優香の顔は険しさの中に悲しそうな表情を滲ませていた。
「……なんで、俺が――」
優香は、黙って均を見た。
「俺が……」
聞いたところで特に問題ない筈なのに、均はこの後に続く言葉を飲み込んだ。
「……ごめん。なんでもない」
「早く移動させなきゃな」と言って、均は優香に背中を向けた。