第二章『緑の世界』(3)
瞬が東京に行く日、見送りをするため瞬の家に向かった。
家に着いたら既に瞬は車に乗っていて、見送りに来た人たちと車から顔を出しながら話していた。
均はなんとなく話す気にならなかった。だから遠くで眺めるだけにしておいた。連絡先は既に聞いているから、いつでも連絡はつく。瞬も特に話しかけてはこなかった。
車が動き出す。見送りに来ていた人は、走っていく車に向かって手を振っていた。車が見えなくなるまで振り続けていた。
でも瞬は車が動き出して少ししてから、手を振るのをやめて前に向き直ったのを均は見た。
瞬にとっては “此処”は通過点でしかないのだ。通過点をいつまでも眺める奴なんてきっといないのだろう。
瞬を乗せた車は見えなくなった。
*
春休みになって数日が経った。
美術部の『未来』というテーマの作品がまだ完成していないので、均は学校に行くことにした。どうせ春休みの宿題は、春休みで印象に残ったことの感想文しかない。
いつもの何もない道を通り、学校に向かった。都会のように整ったコンクリートの道ではなく、いつ埋め立てたのだと疑問がわくほど抉れていたり、ぼこぼことしたコンクリートの道だ。畦道と変わらない。町は予算を割く気はないのだ。
どうしてこんなところを歩いているんだろう、と均は思う。
道の端々には田んぼしかなく、まだ田植えのされていない田んぼは寂しげだ。
でももう少ししたら田植えの時期になる。そうなってしまえば稲はすくすくと生長し、青々とした立派な稲になる。そして九月頃の稲穂は、大空の下で黄金色に輝いて、自分の存在を証明させるのだ。
ここに埋められる稲たちは、自分の存在を証明させる場所を最初から用意してもらっている。
自分たちは此処にいる。自分たちの生長を見てくれる人も、自分たちを食べて喜ぶ人もいる。
均は無性に腹が立ってきて、地面落ちていた石を拾い上げ、水田に思いっきり投げた。
チャポン、と驚くほど小さな音を立てた。
「このクソったれ!」
均は思い切り叫んだ。遠くで木にとまっていた鳥たちが嘲笑うかのように飛び立った。
グラウンドで体育系の部活動の生徒達が、部員数が少ないのに広々と野球やサッカーをしていた。敷地だけは無駄に広いのだ。
均は北側校舎の四階にある美術室に向かう。
美術室のドアを開けると、美術部顧問の多田先生がいた。
「岩崎! やっぱり来ると思ってたよ。完成してないのは岩崎だけだからねー」
多田先生が均の元へやってきた。
多田先生は女性だが、髪の毛がいつもボサボサで、前髪が長くて、視界がどうなっているのか生徒たちの気になるところだった。でもちゃんと身だしなみを整えれば、さぞかし美人だと、根拠のない噂が広まっている。年齢もかなり若いらしいが、詳しい年齢は知らなかった。
「こんちは」
均はそれだけ言うと、準備室に足を運ぶ。
準備室に入り、自分の作品の乗ったイーゼルを抱えた。横を見れば、東京に引っ越した瞬のイーゼルと作品が置いてあった。
瞬の中学二年生最後のテーマ『未来』で描いた作品は雑草の絵だ。前に見た時は二つの雑草が中心に描かれていただけだったが、今は二人の人間が少々粗いタッチで描き足してあった。時間がなくて急いで描き足したようだ。
「宮辺は引っ越す前日に描きに来たんだけど、東京には持っていく気がなかったらしいよ。……面白い絵だよねえ。これ」
多田先生が準備室に顔を出した。多田先生の言う面白い絵とは、多田先生にとって芸術性が高いという意味だ。
「なんで瞬は自分の作品置いていったんですか」
「さあね。なんとなく東京には持っていきたくないって言ってたな」
「でも自分の作品って芸術の世界では自分の命だって。だから大切にしろって、多田先生言ってましたよね」
自分の作品は陳腐で人に見せる代物ではないというようなことを多田先生に言ったとき返ってきた言葉だ。
均が少し多田先生を問い詰めるように言うと、多田先生はボサボサの頭を掻き毟り陽気に笑った。
「まあね。でも自分の作品が必ずしも命になるとは限らないよ。それが自分の命になりうるものかは、最終的には自分が決めるんだから。宮辺はこの作品を自分の命にはなりえないと思った。だから此処に置いていったんでしょう」
「でも命になりうるかは、他人が決めるって多田先生言ってましたよ」
そう多田先生に言えば、今度は大声で笑った。でも均は真剣だ。
「ということは、他人に決めてもらう以前の作品だったというわけだ。別に誰かに見せたいから描いたわけじゃないってことだね」
均には多田先生の言っていることがよく解らなかった。瞬が描いた今回の絵は、自分の作品として認めたくなくてそばにも置いておきたくなかったってことになる。でも瞬は、今までの作品をそんな扱いをしたことはないし、自分の描いた作品に自信みたいなものを持っていた。
『未来』というテーマなのに此処に置いていくなんて、と思ったが、そもそも均は自分の絵にそんな執着していないので、大したことではないのだと思い返した。
「…………」
これ以上言うことも見つからなかったので黙って自分のイーゼルを持って、準備室を出るといつもの定位置に置いて座った。
そのまま均は自分の作品の制作に取りかかる。
多田先生もそれ以上何も言わず自身の作品制作に取りかかった。多田先生は近々市街で数人の仲間と展覧会をひらくということで、その作品作りに勤しんでいる。環境が良いので、許可をもらい学校で絵を描いているらしい。
均は多田先生のことは嫌いではなかった。均が抽象的な質問をしても必ず答えを返してくれる。しかし一定以上のことは、こちらが聞いてこなければ決して聞いてこない。田舎に毒されていないところが気に入っていた。
*
春休みが終わり、均は中学三年生になった。
三年になってもクラスメイトは変わらないので新学期という気分はなかった。
結局、春休みは何事もなく終わってしまった。なんとかできた作品は気に入らないものの、多田先生が納得していたので完成ということになった。
しかし瞬がいなくなり、そのせいで均が美術部の部長になってしまった。
他に変わったことといえば、優香の髪が短くなったことだった。
始業式で前の方に並んでいる優香の髪の短さに気がついたのだ。胸の下あたりまであったストレートの髪が肩の少し下くらいまで切られている。
均はなんとなくもったいないと思いつつ、始業式の間ちらちらと優香の後ろ姿を眺めていた。
新学期の席は出席番号の関係上、優香と隣同士になった。優香が隣にいるというのは、とても不思議な気分だった。
でも均は心なしか、気分が弾んでいたのだった。
始業式の次の日。中学三年になって初の部活だった。均は美術室の窓際にある机に突っ伏して何を描こうか悩んでいた。
中学二年生の最後の作品を完成させたが、新学期早々、また新しく作品を描かなければならなかった。しかも今回のテーマは『自由』だ。
『自由』というのは、テーマ自体が『自由』なのか、何かから解放されるような意味での『自由』なのかは、多田先生に聞いてもにこにこと笑うだけで何も言わなかった。
こういう時、瞬は『自由』というテーマを聞いて何を思うのだろうか。東京で実力を発揮しているであろう瞬は、こんな時何を想って何を描くのか。
均は知らず知らずのうちに瞬と比べていたことに気づき、「あー、くそ!」と呟く。
近くの後輩たちが均のほうを見たのが目の端に映ったが気にしないことにする。
瞬の作品はまだ準備室に置いてあった。東京には持って行きたくない作品で、多田先生が言うには、命になり得ない人に見せようとは思わなかった作品だ。
つまり独り善がりの作品ということだ。
「……そうだ。東京だ」
腕に顔を埋めながら小さく呟く。独り善がりの見てくれる人を意識しない作品でも描いてやろう。それに今回のテーマは『自由』だ。
この町から自由になり、東京へ行く。
東京と決まればこっちのものだと思った。均は早速下絵を描き始めた。