第二章『緑の世界』(1)
中学二年生の春休みを間近に控えたある日の放課後のことだった。
均の視線の先には、美術室の窓から緑の景色が広がっている。
その景色に近い色をパレットの上で作り、キャンバスに絵の具を載せる。
「なあ、やっぱり窓からじゃ描きにくいんじゃないの?」
斜め後ろで描いている、美術部の部長である宮辺瞬は苦笑しながら軽く呆れていた。
「いいんだよ。外で描いても美術室で描いても一緒だ」
均の視線は外に向いたまま、描き進める。
それに、と均は続けた。
「美術室で描いたほうが、雨の日とか楽だろ?」
実際はそんなこと全く思っていない。
均は中学二年のくせに変に芸術家気取りで、わざわざ外で絵を描いて、自分に酔った奴だと思われたくないのだ。芸術家になる気もないのに。
「本当、均ってめんどくさがりだな。均だけ毎回、今座ってる場所で済むような作品ばかりじゃん。今回の作品のテーマは『未来』だっていうのにさ。二年最後の課題だよ?」
均と瞬は美術部に属していて、毎回顧問の先生が提示するテーマに沿って作品を作る。均は何かとテーマにこじつけて、今座っている窓際の席の特等席に居座って作品を作っている。
「そんなこと言うお前はどうなんだ。俺と同じような絵描いてるじゃん」
「これは雑草の未来を描いてるんだ。この後に、人間を描き足すつもりさ」
「雑草の未来ねぇ。自分で物語を創るなんて、さすが将来は芸術家の宮辺だな。発想が違う」
均は冗談ではあるが、わざと毒づくような言い方をした。
「……まあ、確かに将来を芸術家になりたいとは思ってるけど」
恥ずかしげもなく、瞬は言う。瞬はそんな均の皮肉な言い方をなんとも思っていないのだ。
「……ふーん」
均はキャンバスに視線を戻す。
瞬もそれ以上は言わず、そのまま作業に戻った。
暫くした頃、隣で瞬がふーっと大きめのため息をついて、言った。
「俺、二週間後に東京に引っ越すんだ」
均の反応を探るように、だが決意を持った声色だった。
「え」
東京――?
均は木でできた背もたれのない長方形の椅子を軸にして、瞬のほうに身体を回した。
「……まじで? 東京行くの?」
信じられなかった。
二週間前に言われたことも信じられなかった。急に決まった事ではないというのは瞬の表情を見れば明白だった。
均は勢いのまま出そうになった文句を飲みこむ。
「本格的に絵の勉強がしたくてさ。俺、美術系の高校行こうと思ってるから」
「そんなの東京行かなくたっていいじゃん。ちょっと県外に出れば絵の勉強なんていくらでもできるだろ」
均はなんとか平然と言えたが、瞬は悠然と答えた。
「俺はもっと絵にたいして豊富な知識が欲しいんだ。それで良い大学に行きたいんだ。東京は美術系の高校も大学もたくさんあるし、俺にとって良い場所なんだよ」
「……まあこんな田舎町じゃ、描きたいものも描けないよな」
ははは、と均は半ば無理やり笑う。
学校周辺は家が立ち並ぶ住宅街にはなっているが、少し歩くと、周りを見渡せば家は常に数件くらいしか見えなくなる。あとは田んぼや畑、森に山だ。均の住んでいる町は田舎なのだ。
そんな世界で絵なんて描いていられないのだろう。
「本当は、この町好きだし離れたくないんだけどさ、でももうこの町に来れなくなるわけじゃないからね。友達と会えなくなるのはつらいけど、またこの町に遊びに来るから」
「……ああ」
「――だから均も頑張れよな」
そう言って瞬は爽やかに笑った。その顔にはなんの迷いもなかった。
その顔を見て、瞬はもう此処には戻って来ないと思った。
瞬は小さい頃から絵が好きで、いつも絵ばかり描いていた。小学生の時も図工はいつも先生に褒められていたし、何回か賞を取っていて、子供を対象にした町づくりに関する絵の募集にも見事選ばれていた。だから東京で本格的に絵の勉強がしたいのは自然なことなのかもしれない。
そんな瞬が、東京に行く。均が憧れている東京に行く――。
なんで均が『未来』というテーマで教室の外の景色を描いたか、この町に住んでいる人達は気づくことがあるのだろうか。
何もない均は、畑や森しかないこの町にずっと囚われ続ける――そんな想いを込めていることを。
*
次の日、ホームルームで瞬はクラスメイトに東京へ引っ越すことを伝えた。
感極まって、一人のクラスメイトが泣きだすと、伝染するかのようにほとんどのクラスメイトが泣きだした。こんなことでは最終日が思いやられる。
小学校からほぼずっと同じクラスで、今までにこのクラスから引っ越した者はいない。泣いているクラスメイトたちは初めての体験をしているのだ。
均自身も初めての体験ではあるが、泣くほどではなかった。
瞬も泣きはしていないが、涙目になっている。
男も女も関係ない。この学校という共通された世界から出ていく。だから泣いているのだ。
ただそれは、悲しいという気持ちだけではない。「また会おうね」や「住所教えて!」「定期的に帰って来いよ」とか、そういう言葉をかけられていたからだ。
その中でも口を揃えて言われていたのは、『東京でも頑張れ!』であった。
まるで家族に言うような、そんな温かみがあった。そう言われた瞬は嬉しそうに言葉を返していた。
『頑張る』って何を頑張るんだ、とクラスメイトたちをぼんやりと眺めながら均は思う。
昨日に瞬から言われた『頑張れ』とは、どういう意味なのだろう。この町で何を頑張るのだ?
何もない、ただの田舎町で、一体何を頑張れというのだろう。
瞬はやりたいことも夢も希望もある。だから周りに頑張れと言われても本当に頑張ることができるのだ。均には胸を張って頑張ることや、できるものなんてないから、頑張れと言われても困るのだ。
夢を突っ走っている奴にそんなことを言われたくなかった。
「おい! 何ぼーっとしてんだよ! 均も驚けよ! 瞬が東京行くんだぜ!」
いつもうるさいクラスメイトの晴彦が涙と鼻水を流しながら、何も声を掛けない均の傍へやってきた。
「……別に俺知ってたし、そんな驚くことじゃないだろ。会おうと思えば会えるんだし」
なんとも思ってないぞ、という風に返事をした。
それに新しい住所や連絡先を知っていれば、会おうと思えば会えるのは事実だ。
「そうそう。俺もそんなみんなに泣かれちゃ、東京行きづらくなるよ」
瞬は苦笑を滲ませた。
「なら行くな! ずっとここにいろ!」
首に腕を巻くように、晴彦は瞬を軽く絞める。瞬は「いてて」と小さく呻いた。
「そんな無茶なこと言っちゃだめよ。晴彦は馬鹿言いすぎ。宮辺君が困るでしょ!」
均たちの会話の様子を見ていたクラスメイトの恵美は、晴彦の頭を叩いた。
「いてっ! なんだよそれ。冗談に決まってるだろ。恵美は瞬を庇いすぎ」
「晴彦は馬鹿だから言葉の言い方の使い分けができてないから、こっちは冗談か本当か分かんないのよ。馬鹿だから」
「馬鹿馬鹿ってうるさい! そんなこと言ったらお前だって馬鹿じゃん!」
「なんですって!」
「なんだよ!」
二人は顔を近づけ赤い目で睨み合った。この二人はいつも夫婦漫才を繰り返している。
クラスで笑いがおこる。均もなんとか口元をあげた。
ほんの一瞬、クラスに一人だけ机に座ったまま窓の外を眺めている女子―― 大川優香をチラリと見た。
窓から差し込む太陽の光に、優香の綺麗な長い黒髪がきらきらと輝いていた。
優香の目には何が映っているんだろう、とこんなとき均はよく思う。