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其処に草が生えている 緑之章—踏み潰す—  作者: 宮林 實
第一章『此処は何処』
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第一章『此処は何処』(1)

 岩崎均(いわさきひとし)は東海道新幹線の品川駅に降り立った。

 そのまま改札を出て、中央線に乗った。平日の昼過ぎだというのに、空いている座席がなかった。仕方なくドア横に立っておくことにした。


 今日から均は東京に住むことになっていた。来月から大学生になるのだ。入学式は一週間後に控えている。


 今年に入り、とても慌ただしく過ごした。均の通うМ大学は、一応世間で声を大にして言っても恥じないところだ。М大学に拘っていたわけではなかったが、講義の内容や設備で良いと思い選んだところがこの大学だった。しかし受けるからには、かなり勉強をした。


 無事に大学合格を果たした後も腰を落ち着かせる時間はなかった。入学手続きや引越しの準備、最後の高校生活。高校卒業を間近に控えながら、大学の入学準備を既にしていたあの瞬間が、今では奇妙な出来事に思えてくる。


 小さくため息をつく。電車に揺られながら眺める風景は、ほぼ灰色しかなかった。均が今まで見ていた世界は緑の世界だったというのに。


 均が生まれた町は、世間で言うところの田舎である。孫がおばあちゃんおじいちゃんの家に遊びに行く、そんなときにイメージするような町並みであり環境である。


 家だって木造平屋だし、夏は都会の人間は見たこともないような大きくグロテスクな虫が室内外関係なく徘徊しているし、冬は尋常じゃないくらい寒くて、均の世界はストーブの焚かれた部屋のみであった。トイレだって、均が幼少の頃はまだぼっとん便所だった。


 でも、“此処”は都会というだけで、本当に均は東京にいるのか実感が湧かなかった。

 不思議だったのだ。思っていたよりもはるかに簡単に抜け出したから。抜け出すことができたから。


 今まで均と関わってきた人たちは、もう気軽に会うことはないだろう。もう、これを期にできる限り地元には戻らないと決めている。


『もう東京には来ないでください』


 手紙の一文が頭の中から浮き出てきたが、別のことを考えて沈ませた。

 その時均は無意識に、左手首につけている一粒一粒に、透明度の高い白や黒、赤、青、緑、黄、茶の七色が混じりあった数珠を触っていた。“あの出来事”を思い出しそうになるたびに、数珠を無意識に触っているのだった。





 新宿駅で下りて京王線に乗り、S駅で降りた。そして今日から住む家に向かった。

 均の住居は、学生向け、単身者向けのマンションだ。立地条件も悪くない。中でも一番は大学が近いところにあり、ギリギリ徒歩圏内ということだ。


 マンションに着き、階段を上がる。四階建てで築年数は結構経っているが、自分の家の事を考えれば全く気にならない。均の部屋は四階だった。自分の部屋の番号の前で、不動産屋から貰っていた鍵を取り出し、開けて中に入った。


 玄関を入って右にキッチンがあり、左にはバス・トイレになっていて、正面のドアを挟んだ向こう側に部屋がある。ごく一般的なワンルームだ。


 電気や水道は既に手続きは済ませてあるが、ガスは立ち会いが必要らしく、あと一時間くらいしたら、ガス会社がやってきて使えるようにしてくれる。


 部屋のドアを開けて、部屋を見渡す。部屋の中は何も置いていなかった。基本的に必要な家具家電は明日届くことになっていた。実家からの荷物も明日届く。

 さらに細々としたものもこれから調達しなればならないのだが、入学式までは一週間あるので、なんとかなるだろう。


 今日は天気が良いので、ベランダから日が差し込んでいた。ガラスの引き戸を開ける。

 周りには似たようなマンションやアパートがなかなか窮屈そうに犇めき合っている。


 やっぱり灰色だ、と電車の中でも感じたことを思った。

 本当に此処は今まで住んでいた場所ではない。


 均が小さい頃からずっと望んでいた場所。

 チャイムが鳴るまで、均は外を眺めていた。



    *



 入学式はマンモス校なだけあって都内のスタジアムを貸し切っていた。

 会場は人がいっぱいだった。入り口付近には大勢の新入生や保護者がいた。田舎者には敷地内にこんな人がいるのは新鮮だった。遊園地みたいだ、と均は思った。

 均の父母は入学式には来ていなかった。均が、「来るな」と口酸っぱく言っていたからだ。


 会場の周りに埋めてある桜が満開になっていた。桜の花びらが、ひらひらと新入生たちへ落ちていく。これからの未来を担う若者たちを祝福しているのだ。

 均は真新しいスーツに身を包み、桜の祝福を受けながら入学式が開催される会場に足を運ぶ。


 会場の入り口に特設してある受付で封筒に纏まった冊子を受け取った。中を見てみると、今日と今後のスケジュールや奨学金など金融機関紹介の冊子が入っていた。他には何が入っているのかと物色しながら歩いていると、人にぶつかった。


「すみません」

 下を向いたまま、半ば反射的に謝った。


「俺が余所見をしてたんだ。申し訳ない」

「いや、こちらこそ……」


 そこで初めて相手を見た。ぶつかった相手は均と同じ新入生だった。髪をワックスで固め、真新しいスーツを着ている。さっき均が貰った封筒も手に握られている。


「新入生だよな? 俺もそうだから、良かったら一緒に行かないか?」

「うん、いいよ」

 その場の流れで了承すると、入学式が行われる会場に足を踏み入れた。





 均たちは会場に入って新入生専用の座席に座った。

 既にかなりの人数が席に座っている。がやがやと会場は煩かった。


「俺は井上大喜(いのうえだいき)。宜しくな。大喜って呼んでくれ。お前の名前は?」


 そう言って大喜は白い歯を見せた。こんな時、慣れたような雰囲気を出しつつ耳にすっと入ってくる言い方をするので、大喜の社交性の高さが伺えた。


「俺は岩橋均。宜しく」


 均はできるだけ自然に聞こえるように心がけた。こういうとき、背中がむずがゆくなるのは自分だけだろうかと少し恥ずかしくなった。


「宜しくな! しかしこの入学式も長々と続きそうだな。早く終わんねえかな」

「まだ始まってもないのに何言ってるんだよ」


 軽く言ってみたが、大喜は心底だるそうにしていた。大喜は椅子に深く座って欠伸をしていた。こういう形式的なものが面倒なタイプなのだろう。


「やっとの思いで掴み取った念願の大学と一人暮らしなんだよ。遊ばなきゃ損ってね」


 眠たそうにしながらも、フフン、と鼻歌が聞こえてきそうであった。そんな大喜の顔を横目で見れば、本当にこれから楽しいことが起こると確信しているようだった。


 舞台横の壁に設置してある大きなデジタル時計は、あと五分程で入学式が始まると告げている。

 新入生たちは浮き足立っている。楽しく、眩しく、華やかで、輝かしい。

 自分は今その中にいて、自分もその中の一人なのだ――。


 均はふと、気になったことを聞いてみた。

「大喜の地元はどこなんだ?」


 大喜はさっきから欠伸ばかりしている。

 入学式って、もっとこう新学期特有の緊張感あるものでは? と、大喜を見て思った。

 均自身は変な動きをしてないか気になって仕方がなかった。大喜は変わり者なのかもしれないと思った。


「……千葉だな。でも東京寄りで、ギリ通える距離かもな」

「それならなんで実家から通わないんだ? その方が楽じゃないか。お金もかからないし」

 そう言うと、大喜は緩く首を振った。


「均はなーんも分かってないな。実家暮らしなんてなんもできないじゃん。そういう均は地方から来たって感じだな?」

「なんで分かるんだよ」


 まさか自分からそんなオーラでも出ているのかと、ほんの少し悲しくなった。

「見ればわかるよ。俺、そーゆーの判るタイプなんだ」


 本当かよ、と突っ込みたくなったが抑える。

「…………」

 なんて言えばいいのか困っていると、大喜は「じゃあさ」と楽しげに言った。


「東京案内するから遊びに行こうぜ。仲良くなった祝いに」

「……ああ。助かるよ」


 返事をしたと同時に会場が暗くなり、ざわついていた会場内が静かになった。

 入学式が始まった。新入生たちは司会者に続き、理事長や学長、来賓の人たちの祝辞、新入生代表の宣誓などを聞いていた。


『――大都会の東京で色んなものを見て色んなことを経験してください。きっとそれが未来への自分に役立つ時が来るでしょう』


 今の均には、学長が言っていた言葉は遠く聞こえた。


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