プロローグ
町のはずれの小高い坂を上った先に、古い平屋の家があった。
その家の周辺には、草や木がたくさん生い茂っており、その中に隠れるようにして離れが一つ建っていた。主人が畑仕事や趣味の日曜大工をして使っていた場所だった。
離れの部屋の中には、テレビやトイレ、キッチンなどが小規模ではあるが設置されていた。だが、使っていた主人はもういない。主人は二年前に亡くなり、今は母屋で妻が一人で寂しく暮らしている。
妻は家の周りの手入れができる歳ではないので、自然と離れは荒れ、周囲に雑草が大量発生した場所になってしまっている。ここ一年は離れに足さえも踏み入れていなかった。
放置したままの離れは水道や電気が通っていた。そこには二週間ほど前から身を寄せている二人の小さな少年と少女がいたが、妻はそのことを“認識”していない。
見た目は小学校低学年くらいだが、この少年と少女からは歳相応の雰囲気はなかった。
徐に少年は口をひらく。
「ミラ、外はもう赤くなってきているよ」
少し標高の高い場所にあり、窓から市街の町並みが辛うじて見渡せる。少年はミラと呼ばれた少女に窓の外を見るよう促す。
真っ暗な世界に浮かび上がる赤は、日の沈んだ時間では不自然であった。
「……本当に燃え広がっていくな。火というのは、もの凄い力があるのだな、ニレ」
少女は窓の外を眺めながら言った。
「そうだね。こんなに火が燃え広がれば完璧とは言わないけど、人の縁は火に消える。あの人が言っていたことは本当だったんだ」
ニレと呼ばれた少年は同じように窓を覗き込みながら落ち着いた声色で答える。
眼下に広がる町がだんだんと赤く侵食されてゆく。今にも助けを乞う声が聞こえてきそうなほどだった。
「あの中に僕たちの未来がある」
「わかっている」
ニレとミラは確かめるように見つめ合い、離れの玄関扉を開けた。
夜明け前の暗闇に紛れて敷地を出た。道に出ても人の気配は一切なかった。そのまま市街へと続く幹線道路へと出る。
幹線道路は車も一切通らない。不自然なほど静かだった。
ところどころしか電灯がついていない歩道を歩いていると、道路に車に轢かれて死んだ猫がいた。渡ろうとした猫が道路を横断中に轢かれたのだ。血飛沫がへばりつくようにして地面のコンクリートに付着していた。
ミラが死んだ猫に近づく。しゃがみ込んで猫を両手で持ち上げると、飛び出ていた内臓の一部がぼとん、と地面に落ちた。ミラの手は血で真っ赤に染まる。
「確か、猫は一度道路に飛び出すと引き返すことができなくなるらしい」
ニレはミラが掴んでいる猫の頭を撫でる。ニレの手にも血がついた。
「何故だ。引き返すという選択肢はある筈だ」
「猫はそういう風に考えていないからだよ。引き返すよりも、この先に在るものを強く求めているからだろうと思う。だから引き返す、という気持ちがないんだよ」
実際は身体が動かなくなって引き返せなくなるだけなのだが、今のニレはそれを信じて疑わない。否、信じたいのだ。
「そうか。そういうものか。ならば、今私達がしようとしていることはどうなんだ。この先に在るものはなんだ」
ニレを見上げて、まっすぐ目を見てミラは問い掛ける。
「……ミラ。僕たちは、町に行って計画を実行した瞬間、引き返せない世界に身を投じることになる」
息をつきながら、ミラと向かい合うようにしゃがみ込んだ。
「後悔はしないか」
ニレは力をこめて手を握り締めている。その手が微かに震えている。ミラは、それを見逃さなかった。
ミラは猫を地面に置いて、ニレの手に自分の手を添える。
「もちろん後悔などしない。ニレの隣にいるということが、私の答えの全てだからだ」
その言葉にニレは心底ほっととしたような顔になり、嬉しそうに笑った。つられてミラも口角を上げた。ニレとミラのその笑顔だけは歳相応の笑顔であった。
ニレとミラは猫の死骸を見る。
「引き返せない。それは僕たちも同じだ」
この先に在るものを想像しながら、ニレは小さな声で猫に言う。
ミラの手を軽く持って、誘導するように立ち上がる。そのまま手を繋ぐように優しく、そして強く握った。それに答えるようにミラも強く握り返す。
ニレとミラの手首には一粒一粒に、透明度の高い白や黒、赤、青、緑、黄、茶の七色が混じりあった数珠がついていた。その数珠がきらきらと輝いていた。
そうして二人は炎に飲み込まれる町に向かって歩き出した――。
*
一九八六年四月一七日未明、岡山県М市で大規模な火災が起こった。
火災が起こった地域は山に囲まれた町ではあるが、人口に恵まれたごく普通の町であった。車は必須だったが住宅が多く立ち並び、みな平和に暮らしていた。
しかしそんな町に悲劇が起こった。町の一角のほとんどが火で埋め尽くされ、逃げ遅れた人々や逃げ惑う人々の大半が負傷したり死亡した。死傷者は合わせて五百人を超えた。
何故こんなにも広範囲に広がってしまったのか。
それは、この日は空気がかなり乾燥していたことや、ほぼ同時期に複数の場所で一斉に火の手が上がったこと、消防車と救急車、そしてパトカーを塞ぐように火が燃え移っていき、救助などが遅れたからだと言われている。
渦中の現場を見た人は、まるで火が意志を持った動きをしているように見えたという者もいた。草や木を走るように炎が燃え広がっていくのを人々は黙って見ているしかなかった。
一部の人の間では、鬼の仕業だと本気で言う者も現れるほど、酷い惨状だった。
その後、巷でその事件の名前は草鬼事件と言われるようになる。
災害や事故ではなく、事件と呼ばれるのには理由があった。複数人の不審な人物を目撃した人が多かったからだ。しかし誰一人として犯人は捕まる気配を見せなかった。
事件から一週間程が経った。
そんな事件に親戚が被害に遭うなんて思ってもいなかったので、塚川江美子は大きくため息をついた。
従弟の家が全焼し、従弟と嫁、長男が亡くなったのだ。残ったのは次男の雄一だけであった。
雄一をどうするのかという親戚会議がここ連日行われていて、皆自分のところに来てほしくなくて、雄一のなすりつけ合いになっていたからだ。
その割に、施設に入れてはどうかという言葉は、誰も言わない。誰も言い出しっぺにはなりたくないのだ。
それでも親戚が引き取るという選択肢がないのは、そもそも従弟とその嫁は親戚たちとはほぼ絶縁状態だったからである。嫁は良くない噂のあるような宗教団体の信者であった。嫁についていくようにして従弟も信者となってしまった。
最後に従弟家族に会ったのは五年前で、その時すら大した会話はしなかった。無邪気な雄一が長男と部屋中を走り回っていたことだけははっきりと覚えている。
旦那の吾郎は無類の子供好きだったこともあり、今回の件で雄一にかなり同情していた。
江美子は子供を産むことができない身体だった。いろいろ手は尽くしたものの、最後まで子供に恵まれることはなかった。
吾郎と話し合って引き取ろうかと話をしていた。そんな矢先に、さも当然のように子供がいない自分たちに白羽の矢が立った。
腹立たしかった。引き取りたくないわけではない。ただ引き取らないという選択肢を血も涙もない夫婦として態度に出されることが不快だったのだ。
そんな中、親戚に手を引かれてやってきた雄一は、無表情だった。
吾郎は雄一の頭をガシガシ撫でていたけれど、されるがままで無表情だった。つらい目にあったのだからそうなる筈だ。こんな年で家族がいなくなるなんて本当に可哀そうだと思う。
そこで少し違和感が湧き上がった。
――こんな顔だったっけ?
いくら五年前の姿が幼子だったとしても、その面影は多少は残るものだ。幼子の時の雄一は目が小さく、顔の輪郭もどちらかと言えば角ばった顔をしていたように思う。
しかし目の前の雄一はそんな面影は一切なかった。
目鼻立ちのはっきりした綺麗な男の子だった。
ついまじまじと雄一を見つめてしまっていたので、雄一も視線に気が付いてこちらに視線を向けた。
何か声をかけてあげなければ――そう思って口を開きかけたその時。
雄一はニコリ、と笑った。
その笑みは心底端正で、この状況を楽しんでいるような、嬉しそうな、そんな感情しかない――この状況ではあり得ない表情だった。
江美子は底知れぬ不気味さを感じた。
――誰だ? この子は?
しかしその考えに至った時、ふっ……と何かが落ちたように、その考えはなくなった。
プロローグ【完】