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第42話「溶け合う熱は切なく」

「あれ?」


ロビーで食事の後片付けを頼み、食事を運んできた給仕とともに部屋へ戻ってきた私は、先ほどまで部屋にいたはずのミサンナの姿がないことに気づいた。

どこかへ出かけてしまったのだろうか。


「あの……すみません。連れの姿が見えないのですが、見かけませんでしたか?赤髪で、紫色のローブをまとってる女性なんですが……」


「ああ、あのお嬢さんでしたら、先ほどお出かけになられましたよ。何やら慌てた様子で、人を探してくるとおっしゃってましたかねぇ……」


「そうでしたか……ありがとうございます」


多分、フィオンを探しに行ったんだろう。

そう遠くまで行ってないといいのだけれど……。


沈み始めた陽の光が、切り込むような長い影を室内に差す。


こうして一人でいるのはあまり良くない気がする。

それに、スペクターのことも心配だ。

彼女が出かけてしまったことも伝えておいた方がいいかもしれない。


「……」


ふと、彼と二人きりで顔を合わせるのは、"あのとき"以来だということを思い出す。


「どうしよう、緊張してきたかも……」


息を入れ直し、これは必要事項だと自分に言い聞かせる。


「すみません、少し部屋を開けますので、あとをお願いしてもいいでしょうか?」


「ええ、ええ。大丈夫ですよ。ごゆっくりなさってくださいね」


柔和な笑みで受け答えする給仕に会釈をすると、部屋をあとにし、早足で隣の部屋へと向かった。

扉の前まで来ると、余計に緊張が増す。


震えるこぶしで、軽くノックを打ち鳴らす。


コン、コン。


「スペクター、今大丈夫?」


しかし、しばらく待っても返事がない。


もう一度ノックを鳴らす。

やはり、返事がない。


もしかして、スペクターも不在なのだろうか。

でも、食事のあと部屋で休むと言い残していたし、これからしばらくは行動を共にすることになっているはずだ。

私たちに何も言い残さずにどこかに行くというのは、彼をあまり知らなくても考えにくい気がする。……何となくだけど。


勝手に入るのははばかられるが、念のため部屋を確認しておこう。


どくん、どくんと脈打つ胸を押さえながら、そろりとノブを捻る。

少し開いたドアの隙間に体を差し込み、そっと覗き込む。


「スペクター、いないの……?」


部屋のなかを覗き込んだ私は、部屋の奥の窓辺に目的の人物を見つけ、目を見張った。

スペクターだ。

良かった、やっぱり部屋にいたんだ。

窓辺の椅子に深く腰かけ、ひじ掛けに腕を預けるようにして頬杖を突いているのが、こちらに背を向けていてもわかる。

しかし、私が部屋に入り込んでも気づいた様子がない。


そっと足音を立てないように近づくと、微かに吐息だけが聞こえてくる。

これは、もしかして……。


椅子の正面に回り込み、しっかりと被り直されたフードのなかを覗き込む。

静かに伏せられたまつ毛。無造作に下ろされたマスク。

薄く開かれた唇からは、緩やかな吐息が規則的に吐き出されている。


時折吐息に混じって彼の声が小さく漏れ出るたびに、何だかむずむずとした感覚が背筋を這い上がってくる。

色香が漂うとは、こういう姿のことを言うんじゃなかろうか。

胸をかき乱されそうになるくらいには、大人の色気を感じる。


口内に溜まったつばを飲み込む音が、いやに響く。

……ふ、触れてみたい。


起こさないようにゆっくりと近づき、フードの隙間に手を差し込む。

指先が、さらりと頬に触れる。

ほんのりと温かくて指触りが良い。


もっと触れていたいけれど、あまり触れすぎては起こしてしまうかもしれない。

気づかれないように手を引こうとしたとき。


伏せられていた瞼が開かれ、深い緑色の瞳が私を射捉えた。

驚く間もなく掴まれた手首を引かれ、立ち上がった彼と入れ替わるようにして椅子に座るかたちになる。


「わ……っ!」


背中にあたる衝撃に思わず閉じた目を開くと、驚いた顔のスペクターと目が合った。

彼の目に映る私は、彼以上に驚いた顔を浮かべている。


「……君か」


私だと気づいたらしいスペクターはほっとしたように表情を緩めたかと思いきや、途端にいたずらな笑みを浮かべた。


「俺に触れたな……?」


「や、それは、その……」


弁解しようにもうまい言いわけが浮かばない。

考えあぐねているあいだにも、ひじ掛けに縫い付けられた両腕を掴む彼の手に、力が込められていく。


「無防備な寝姿を易々と晒してしまった俺も良くなかったが、君も君だ。何をしようとしていたのか、聞かせてもらおうか」


「な、何も……っ、声をかけてもスペクターが起きてくれなかったから、私は起こそうと……」


「それにしては、やけに物音を忍ばせていたようだが……?」


その口振りからして、私が部屋に入ってきたのに気づいていながら寝たふりをしていたんだろうか。

けれど、それを口にするということは私の魂胆を白状してしまうようなものだ。

何も答えられず、口をぱくぱくさせるしかない私に、スペクターはほくそ笑む。


なんて意地悪な笑みを浮かべるんだろう。

それなのに、かっこいいだなんて思ってしまう私は、彼のことをいよいよ本気で意識しているんだと思う。


「そんな顔をされると、期待してしまうだろう……この先を」


横髪の隙間から差し込まれた手袋の手が、頬に添えられる。

切なげに眉を寄せるスペクターの顔が近づけられ、そっと唇を重ねられた。


「アネリ……」


私の腕を押さえつけていたスペクターの手が、二の腕を撫でるように這い上がってくる。

彼の革手袋と私の服に阻まれて互いの温度はわからないはずなのに、触れられたところが熱を帯びているような感覚にさせられる。


ちゅ、とリップ音を鳴らしながら繰り返し与えられる軽い口付けは、唇を重ねるごとに深くねっとりとしたものになり、なすがまま受け止めているうちに、彼の舌が私の舌を捉え口のなかに入り込んできた。


「ふ……っ、す、スペクター……っ」


私の鎖骨を撫でていた彼の手が髪をすくい上げ後頭部に回されたとき、スペクターが唇を離し私の目を覗き込んできた。


「本名を、教えただろう?今だけは、俺を本当の名で呼んでくれ。……“ジェスター”と」


こんな間近で目を見つめられながら、そんなことを言われ、一気に顔が熱くなる。

スペクターは目を合わせたまま、早くそうしろと言わんばかりにじっと見つめてくる。

恥ずかしくて仕方ないはずなのに、拒めない。


「……ジェス、ター」


喉の奥から絞り出した声は緊張と羞恥で掠れてしまったが、それでもスペクター……ジェスターは嬉しそうに目尻を下げた。


「いい子だ、アネリ」


窓から差し込む夕日がジェスターのフードを強く照らし、陰る彼の面つきが切なげに歪む。

その目にこんな間近で見つめ続けられているうちに、私の胸はたまらなく愛おしい気持ちでいっぱいになっていた。

込み上げてきた想いは喉を伝い、唇からぽろりとこぼれ落ちた。


「好き……」


口付けの合間に囁くように呟いた想いは、本当に小さな声にしかならなかったはずなのに、それでも彼の耳に届いたのが、驚きに見開かれた彼の目を見ればわかった。


ジェスターは今にも泣きそうなほど顔を歪めると、私を引き寄せ、強く抱きしめた。


「アネリ……っ、俺も、君が……」


ぎゅ、と私の背中を抱き締めるジェスターの腕は、息苦しいほど力強いはずなのに、嬉しくて仕方がない。

彼も私と同じ気持ちなのだと、言葉を介さずとも伝わってくる。

それなのに、どうして彼はこんなに苦しそうな顔をするんだろう。


そのとき、廊下でバタバタと足音がし始めた。


アネリー?と私を呼ぶ声。ミサンナが戻ったようだ。

流されてしまううちにすっかり忘れてしまっていたが、私はスペクターに彼女の不在を伝えるという本来の目的を今さらになって思い出す。

それも結局無意味になってしまった。

慌てて椅子から上体を起こすと、スペクターがクスクスと笑いながら腕を引いて立たせてくれた。


「君を呼んでいるようだ。……行ってやるといい」


「う、うん……そうだね」


呆気なく解放され、つい声が萎む。

そんな私の胸中を見透かすように、ジェスターの目が細められる。


「……随分と名残惜しそうな顔だな」


にやりと上げられた口角に、かっと首から頭まで一気に熱くなる。

今までのやり取りからしても読心術はさすがに心得ていないとは思うが、これではまるで、心のなかを読まれているかのようだ。


「な、何言って……!」


しどろもどろになりながらうろたえる私の横髪を指先で弄びながら、ジェスターはさらにとんでもないことを口走る。


「俺は、このまま君を抱きたいと思っていたのだが」


「は……え!?」


驚きのあまり、彼の言葉を咀嚼するのに時間がかかってしまった。

熱っぽい視線。

回らない頭のなかで、意味を飲み込むことができないまま彼の言葉だけが無駄に反芻されていく。

抱きたいって……何だっけ。

抱きたい……抱きたい!?


ようやく意味を理解した瞬間に、体中から火が吹き出しそうなほどの熱が全身を駆け巡る。


「だ、ダメだよ!二人に見られちゃったらどうするの」


「ほう、つまり、見られさえしなければ構わないと」


「そ、そういう意味じゃ……!」


「ふふ、冗談だ」


バクバクと早鐘を打つ胸を両手で押さえる私をおかしそうに見下ろすジェスターは、随分余裕の表情を浮かべている。

冗談だと口ではそう言うものの、からかっているだけなのか、本気なのか、彼の口からあまり冗談を聞いたことがないせいで本心がわからない。


「ほら、そろそろ行ってやらねば怪しまれるぞ」


悶々としている私の気持ちを置き去りにしたまま、とん、と背中を押される。

彼の顔を振り返ることもできず、それじゃ……と部屋を後にした。


普段ほとんど表情を変えることのない彼が、あんな意地悪な……というよりもむしろ愉しそうな顔を浮かべるなんて。

去り際の彼の顔は、きっとほくそ笑んでいたであろうことは、見ていなくともわかる。


まるで人が変わったかのようだった。

けれど、あんな彼の一面を見てもなお、好きな気持ちはなおも加速するばかりだ。


「どうしよう……本気で好きになっちゃった……」


口元を覆う手が小刻みに震える。

以前から彼のことを意識してきたはずだけれど、はっきりと自覚してしまった今、もう気持ちを抑えられそうにない。



第42話「溶け合う熱は切なく」 終

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