プロローグ
東京都私立上野動物高校には、校庭にある古い大きな桜の木の下で告白し、結ばれた恋人同士は、永遠に幸せになるという伝説がある。この伝説が、いつから語り継がれているのかはもう誰にも分かっていないし、本当に幸せになった恋人がいるのかも分からない。歴史が古いからな。だが、この伝説があることだけは、確かな事実である。
この、いかにも怪しい伝説にあやかろうとするものが後を絶たない。高校生。多くの人々は十五歳から十八歳を異性を交えた学校という閉鎖空間で過ごす時期。恋に発展しやすく、そして何より子供から大人に変わっていく時期……いわゆる思春期なのである。
思春期とは、人間の身体的な変化が激しく、心理的には最もセンシティブになるという何ともめんど……矛盾に満ちた時期なのだ。つまり、一度でも告白に失敗したら十年後、二十年後の同窓会でもネタにされてしまう。絶好の酒の肴にされて、一生クラスの笑いものにされてしまうのだ。そのくらいのリスクがある。だから、告白するからには絶対に失敗ができないのだ!
とはいえ、一度きりの学生生活。せっかくならクラスの美女と付き合ってイチャイチャして過ごしたい――それが偽らざる男子の、全国の男子高校生の本音なのだ。灰色のまま青春を終わらせたくない。贅沢は言わないから、学生時代に一度くらい異性と付き合いたい。そんなモテない男の嘆きが、藁にもすがる思いが、この伝説を後世に残している。
「委員長、いや、若月さん俺と付き合ってください!」
そして――今日もまた、桜が咲いた木の下で、ひと組の男女が真剣な顔をして向き合っていた。男子の方は、何かスポーツをしているのだろう。制服の上からでも一目で分かるほど筋肉がしっかりとついており、体格が大きくて強そうな印象を受ける。頼もしい。女子の方は、眼鏡に三つ編みで、スカート丈が長い。昔の委員長キャラの三拍子が揃っている少女だ。素朴な顔立ちのおかげか、真面目そうな雰囲気がより一層引き立っている。スポーツ男子に委員長。そのカップリングは一昔……いや、二昔前だったら新鮮で覇権を取れていただろう。だが今となっては、ありふれた組み合わせだ。とはいえ、現実にはそんなこてこてなテンプレートはまったく関係ない。
王子でも、姫でも、不良でも、委員長でも、社長でも、秘書でも、幼馴染であっても。恋愛とは、結局のところ二人の思いが通じ合えば成立するのだ。恋路は縁のもの。男女の恋が生まれるのは、二人の間に不思議な縁がなければ成り立たない。運命の赤い糸で結ばれているかは、当の本人たちにも分からない。分かるとすれば、それは恋愛の神様くらいだろう。告白する側にできることがあるとすれば、それは、フラれなように好感度を上げるしかない。それを恋愛に目覚めた若人たちはそんなことすら分からない。いや、分からないのではない。気づけていないのだ。自分が告白すれば絶対にフラれないものだと若さ故の勘違いしているからである。
だから、すぐに運に頼る。そして、恋愛を成就させる確率を上げるためには、この場は打ってつけだった。ここには、伝説がある。この桜の木の下で告白し、結ばれた恋人同士は、永遠に幸せにな――
「ごめんなさいッ!」
少女の震えた声が校庭に響き渡った。面白半分で見物をしていたクラスメイト、こっそりと聞き耳を立てていた部活生、若い二人を温かな目で見守っていた副校長。告白が成功すると思っていた全員の空気が一瞬にして凍った。
この東京都私立上野動物高校には、校庭にある古い大きな桜の木の下で告白し、結ばれた恋人同士は、永遠に幸せになるという伝説がある。しかし、これには一つだけトラップがあった。そう、ここで結ばれた恋人同士は、永遠に幸せになれるが……ここで告白した男女が必ず結ばれるとは誰も言っていないのである。
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伊達定治と若月レイナは、伝説の桜の木の下で、お互いに頭を下げ合っていた。通りすがりの人には、二人は仲睦まじく見えるかもしれない。だが、伊達定治はたった今若月レイナにフラれたのだ。こんな気まずい空気が漂う中、それでも彼は諦めることができないと言った様子で、下げていた頭を上げる。そして、さらに一歩詰め寄った。真剣な瞳で彼女のことを見つめる。
「待ってくれ、待ってくれ委員長。あんたのことが本当に好きなんだ!」
「いや……それは、ちょっと……」
情熱を燃やした声で、瞳で、もう一度彼女に告白した。彼の勢いはもう誰にも止めることができない。若さだけを胸に突っ走る姿は傍から見ている分には可愛げがあり、真っ直ぐで好ましい。だが、彼女はとても言いにくそうな表情で、口ごもるばかりだった。そんな彼女に構わず、愛が暴走している定治はずっと胸に秘めていた熱い想いをぶつけ続ける。
「俺にダメなところがあるなら、はっきり言ってくれ! 委員長に相応しい男になれるようにオレも努力するから! 悪いところを必ず直してみせるからッ! だから――」
「いや、別に、伊達君が悪いわけじゃないの。ただ……」
「なんでも言ってくれ、絶対に直してみせるから!」
「伊達君はとても真面目だし、誰に対しても優しいからね。私も、いい人だとは思ってるんだよ。いい人だとは思ってるんだけどね。ただ……」
「なら、なんでッ!」
レイナが一歩、後ろに下がった。それが定治の熱量に気圧されたのか、声の大きさに驚いたのか分からない。『もしかして、怖がらせてしまっているのではないか?』と、理性を取り戻した定治の胸に、その可能性が深く突き刺さった。だが、冷静になった彼の目には、彼女が言葉を選ぶようにゆっくりともごもごと口を動かしている姿だけが映っていた。そして、その声音には、申し訳なさと戸惑いが混ざっていた。数秒の沈黙の後、目を伏せていたレイナが、何か決心をした表情で定治のことをまっすぐに見つめる。そして、そして――
「……伊達君の顔が、ゴリラみたいでタイプじゃないの」
彼女は、決定的な一言を口にした。定治は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。耳が音を認識する機能を失ったのか、脳が情報の処理を拒んでいるのか……とにかく、意味が入ってこなかった。だが、無情なことに時間が経つにつれて嫌でも彼の頭は彼女の言葉が持つ意味を理解できてしまう。若月レイナの真剣な眼差しが、それが冗談でも気まぐれでもないことを物語っていた。これが、彼女の嘘偽りない本心だと定治が気が付いた瞬間――
「……ウホ?」
結果として、定治の思考はオーバーヒートした。彼の防衛本能が導き出した最適解が、これだったのだ。外部からの脅威に対して身を守るために本能が彼を何も考えない状態へと導いたのである。彼の口から漏れたゴリラの鳴き真似……それは、彼の青春の終わりを告げる鐘の音だった。最後の、恥の上塗りは心根が優しいレイナは生涯、誰にも言わないだろう。それだけが、彼にとって唯一の救いだった。
こうして、伊達定治の一世一代の告白は見事なまでの失敗で幕を閉じた。彼はしばらくの間、現実を受け入れることができなかったようで……撃沈し、放心状態になった彼は一人、桜の木の下で立ち尽くしていた。




