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『「部屋〜ある哲学者の変形〜」』

作者: 伊東

 「部屋」がありました。


 「部屋」があるということは、壁があります。ということは、「部屋」は壁でおおわれているはずでありまして、したがって部屋は暗かったのです。あまりに暗闇が濃すぎるのでしょう、暗闇自体も、輪郭がはぎとられ、かきまぜてみると、液体のように波うっていくのでありました。


 「部屋」は暗かったのですが、しかし「部屋」ですので、たくさんのものがあるはずでした。そこには先のまるまったペンや、木目のあれた机、座ったら壊れてしまいそうな椅子、乾燥し切った羊皮紙、なにかの保証書や、証明証、書類や小切手の束がはずでした。そして、それらは、暗闇のなかで、息も立てずひそんでいるのです。


 耳をすませてみましょう。


 どおりでカサカサした音がきこえてくるはずです。これをネズミやゴキブリの足音ととらえるのは、部屋主にたいする侮辱というものです。これは部屋主が「外」のために生み出した書類の束が、「部屋」の軋みにあわせて鳴る音と取るのが、妥当なのです。


 「外」?そう「外」です。


 「部屋」に密閉された閉鎖的イメージばかり持つのは、幸福なミステリ作家ぐらいのものでしょう。「部屋」の本質とは「外」なのです。我々は「外」の流動的な世界につながるべくして「部屋」という安心安全の場をつくるのです。そうでなくてどうしていたづらに光を遮る、分厚い壁の中に閉じこもることができましょうか。


 「部屋」があり、壁があり、そして暗闇があるということは、つぎに人の存在をたしかないわけにはいきません。人があり、「部屋」がないというのは、浮浪者をみればわかることですが、「部屋」があるのに、人がいないというのはちょっと聞いたことがありません。  


 人の迷子はいても、「部屋」の迷子はいないのです。


(目をさました。


 いや、最初から目はさめている。開けていても、閉じていてもかわらないのだ。なぜだろうか。そうだ、ここには灯りがない。この部屋は暗闇で包まれてしまっている。暗闇が、しんとつくような暗闇が、おれの目の役割をうばってしまっている。あまりに暗すぎるので、おれは起きていながら、突然起こされたような気がしたのだ。しかし、それにしたって暗すぎる。これじゃあ、おれが、存在していることさえ確かめようがないじゃないか。)


 ここに「部屋」の存在と、人の存在が確かめられました。「部屋」は迷子の「部屋」から脱出し、「部屋」たる地位を獲得したわけであります。


 最後に私たちが確かめなければならないのは、「部屋」の「外」、つまり「部屋」のための「部屋」であります。「部屋」にも、「部屋」のための居場所が必要なのです。胎児に子宮という「部屋」が与えられるように、「部屋」にも「街」という揺り籠が与えられるのです。


(あまりにも暗すぎる。何もかもがここでは判然としない。意味不明といえばその通りだし、不可解といえば、なおその通りだ。しかし、より不可解なのは、確かにここがおれの「部屋」だという、この自覚。例えばおれには、何も見えないこの場所においてある、あの木目のついた机や椅子の形が手に取るようにわかる。荒の目立つ白いペンキで塗られた壁や、もう何年も取り替えてない、茶けたカーペットが手に取るようにわかる。しかし、本当にそんなものが存在するのだろうか?それがおれにはわからない)


 「街」にはいくつもの「部屋」が眠っているのであります。「街」に日が昇るのにしたがい、「部屋」は目覚め、人は活動をはじめるのです。人は自分たちの活動にあわせて、「部屋」を起こしていると、錯覚しているようですが、これは大きな誤りです。じつは「部屋」の活動のほうが先で、人間は「部屋」に呼ばれるようにして、動かされているに過ぎないのです。


 人が朝、目覚めるときに感じる、あの厭わしい煩わしさ。まだ意識もはっきりしない眠りのなか、突如、「起きなければならない」という直感につき動かされる、あの不快感。これこそが、「部屋」の呼び声、「街」の目覚めが先であるという、直感的根拠なのであります。


(さらにわからないのは、さっきからおれがしているのはなんなのか?ということだ。意味もわからず、「部屋」の地べたに座り、右手を一心不乱に床にむかって叩きつけている。そして叩きつけるたびに、響く金属音。しかし、そんなことはありえない。おれはおれの座っている床が木材でできていることを知っている。塗装剤がはがれ落ち、ツヤのなくなった、ささくれ立つ床をおれは知っているのだ。だとしたら、この金属音はなんなんだ?)


 ここでひとつ、ある「街」の話をしましょう。その「街」には一人の哲学者がおりました。その哲学者はなにか直感的に、人間の活動が、超越した力によって、半自動的に導かれていることに気がつきました。そう、「部屋」の活動が、人間の活動に先立つという直感であります。もちろん、この哲学者にも「部屋」がありましたから、この直感は当然です。


 しかし、哲学者は自由意志の存在を信じる、非決定論者でありました。彼には、人間を超越してあるある法則というものが信じられなかったのです。そこで、哲学者はこの直感を否定するため、ひとつの実験をおこなうことにしました。


(そうだ……だんだんと思い出してくる。おれが叩いているのは床じゃない。このささくれた床からとびだす、「金属の棒」だ。おれのまえには、いま大きな穴が開けられていて……触ってみるまでもない、そこから一本の「金属の棒」が、まるで腐った木を苗床にするキノコのように、飛び出している。そうだ、おれはこの「金属の棒」を叩きつけなければいけないのだった。腕に疲労が溜まり過ぎているせいで気づかなかった。おれの右手には金槌のようなものが握られているのじゃないか?疲労が髄にまで蓄積して、腕の痺れが冷えた金属に一体化している。もうそれがあまりに自然すぎたために、またあまりに暗すぎるために、おれの右手は、おれの右手を超えて、一つの金槌になってしまった)


 哲学者の実験は簡単なものでした。彼は「街」の活動を完全に止めるために、「部屋」という「部屋」から、人間を一人残らず引き剥がすことにしたのです。幸い、哲学者は「街」の設計理論を一任された、都市設計家でもありました。彼は、彼の住む「街」がどういうメカニスムで動いているのかを熟知していたのです。 


 「街」は中心に大きな時計塔が据えられており、機械化された時計塔が朝日とともに、正確な時刻を告げるようになっておりました。鐘の音は「街」の目覚めでありました。そして人間にとっては、時間そのものでもありました。


 そしてこの時計塔は哲学者が作り出したものでした。その時計塔の仕組み、そして「街」が、文字通り時計塔を中心として中心として動き出すことも、彼はしっかりと理解していたのです。


(おれにはまだ思い出さなければならないことがあるらしい。金槌になってしまったおれの右手……これを仮に「純粋な金槌」と呼ぶことにしよう……この「純粋な金槌」はなんのために「金属の棒」を叩き続けている?金槌である以上それが金属を打ち続けるのは自明かもしれない。しかし、「何」を打ち付けているかわからないということが、まさか金槌の純粋さを証明するなどとは言わないだろう。金属にだって打ち付けられるだけの存在意義がある。つまり「この金属はなんの金属なのか」という、「純粋な金属」たる理由が。


 ……そういえば、この「部屋」はさきほどから軋む音がする。はじめは、外を吹く風が強すぎるせいかとおもったが、どうも普通の軋みにしては大きすぎる。間隔だってあまりに規則的すぎるじゃないか。なにか既視感のあるような一定のリズム。それと一緒になって響く、ごく身近な金属音……。ふと、頭の中で、「純粋な金槌」が、金属の棒になった「部屋」を、叩きつける連想が、よぎる。)


 ちょうどその頃、「街」には大規模な建設の計画がありました。時計塔を中心にしている「街」の沿革をさらに拡大するために、人々は日夜、哲学者のもとに指示を仰ぎにきていたのです。


 哲学者にとってこれほど都合のいいことはありませんでした。彼からすれば効率的に住民を「部屋」から引き剥がせる、願ってもない状況だったからです。彼は人々に建設の計画を指示しました。


『「街」を拡大するためには、その「街」に必要なだけの時計塔がなくてはなりません。「街」を繋ぎ止めておくだけの、「街」のための時間時間が。そのためにはまず新たな時計塔の建設を。そしてそのために時計塔の周りに住む皆様には、いまの「部屋」から抜け出し、別の「部屋」に移ってもらう必要があるでしょう。なに、心配はいりません。その「部屋」は「街」の外側に、一回りするように作れば良いのです。樹齢を重ねた大木の年輪のように、一回りね。結局、それが「街」の拡大にも繋がり、時計塔を円滑に建設することにもなるわけですから、住民の理解もきっと得られるでしょう』


(もしや、この部屋を軋ませているのは、「純粋な金槌」になったおれの右腕なのじゃないか。馬鹿げた連想だ。だが、どうにも否定できない。すくなくとも、この「部屋」の軋みは、おれが「純粋な金槌」をふるい続けているという事実と、何やら関係がありそうだ。この「部屋」の軋みは、不気味なほど一定だ。生き物の呼吸を思わせるような、そういう一定さだ。というおれの右腕も、まったく同じ一定のリズムで、金属の棒をたたき続けている。生き物の呼吸……?だとすると、おれはこの「部屋」の心臓ということになるのだろうか。「部屋」という生き物をいき続けさせるための心臓が、このおれ?またしても馬鹿馬鹿しい連想。ただ、そういって簡単に否定できないのはなぜなのだろう。この「部屋」の軋み、そして金属音を聞いていると、どんどん否定しようという思いが弱まってくる。


 ……随分まえに読んだ新聞に、ポリオ患者を鉄製のタンクにいれて、強制的に呼吸を促そうとする話があった。タンク内の陰圧を下げることで無理に胸郭を広げさせるのだ。タンクの中で、真っ赤になったポリオ患者の顔をみて、まるで生きながらに、入れられる棺桶のようだとおもったのをおぼている。たしか「鉄の肺」といったはずだ。しかし、なぜいまになってこんなことを思い出すのだろうか。)


 「街」の建設は順調に進みました。


 人々は外へ、外へと移動をはじめ、すこし、またすこしと人々は、「部屋」から遠くの「部屋」へ、移り住んで行きました。「街」の中心は時計塔だけを残して、静かになっていきました。全てがあらゆるものの影響から自由になっていくかのように、静かに、静かに、「街」はなっていくのでした。


 哲学者の計画は順調に進みました。「街」には中央部で時計塔の作業をする、技術者数名と、その中核を設計する哲学者のみ。技術者達は、周囲の「部屋」を解体し、時計塔の土台を組み上げ、更に高く、より大きく、時計塔は築き上げられていきました。巨大な発条や、ワイヤー、ネジ、そして大きすぎる金属の棒。哲学者の設計した図面通りに技術者達は組み上げ、時計塔は着々と完成していきました。


 しかし、その技術者の誰も、その時計塔がどう動くのかを知りませんでした。哲学者は、決して、その心部の話を誰にもしなかったのです。彼だけが、その時計塔の動き方を知っていました。そして、彼だけがその時計塔を動かすことができました。


 そのことを疑問に思うものはいませんでした。なぜでしょうか。いくつか理由は考えられるでしょうが、それは技術者が技術者であるためというより他ないでしょう。彼らにとってもっとも重要なのは図面が完璧な形で仕上げられることでありました。それがどのような意味を持つかは、技術者以外の人間が考えればいいこと。いわば彼らは純粋な「街」の道具としてしか、生きていないのでありました。


(しかし、それにしても暗い。それに、そう。おれはさっきから腹が空いているのを忘れている。腹が空いているだけじゃない。喉の渇きだって、全身の疲れだって、もうとうの昔に忘れてしまっている。おれに感じられるのは、「純粋な金槌」になってしまった右腕だけで、それ以外は……。考えれば、この「部屋」は一体どこにあるんだろうか。そして、おれはいったい、「誰」なんだろうか。いつからこの「金属の棒」を叩きつけているのだろう。考えれば不思議なことばかりだが、何よりも不思議なのは、この金属の棒を叩きつけていると、何もかも不思議でなくなっていく気がすることだ。この行為だけがいま、唯一おれが存在しているのだと確かめさせてくれる。あとは何もない。そう、おれにはおれの存在を確認する方法がないのだ。だから、おれはこの「金属の棒」を叩き続けるのだろうか?なんの意味かもわからずに)


 哲学者の設計した時計塔は、図面をみればそれが普通の時計塔とつくりが違っていることに簡単に気づくことができました。時計塔は、振り子が重力に下がる力を利用し、その反復運動をアンクルと雁木車で、回転運動に変換することで時計の役割を果たします。この振り子こそが時計の心臓部となるわけです。


 が、彼の設計した時計塔には、この振り子は組み込まれておりませんでした。代わりに、振り子の位置には、ぽっかりとした大きな穴のようなものが。


 真っ黒に塗りつぶされて、彼の図面には描かれていました。


(本当におれには何もわかっていないのだろうか?本当におれには何も?


 なぜだろう、この疑問には古い懐かしさがある。何度も自分に問いただしてきたような、そんな懐かしさだ。おれには何か考えがあったんじゃないか。そのために、この「部屋」があったはずだ。その考えのために、おれはこの「部屋」を設計したんじゃなかっただろうか。この「部屋」を設計……)


 哲学者は、時計塔の心部の話を誰にもしませんでした。時計塔がどのように動くのかも、どのように鳴りだすのかも。その図面の黒く塗りつぶされた意味も、誰にも話しませんでした。


 その時計塔の心臓は振り子ではありませんでした。その時計塔の心臓は、中央に設えた「部屋」から飛び出す金属の棒。それを叩きつけることが時計塔の動き出す条件になっておりました。金属の棒を叩きつけることで、一刻、一刻と、時を刻む……。つまり時計の心臓は、金属の棒を叩きつける、人間の心臓そのものでありました。


 無論、このようないわば人力的機械時計が機能するはずないことは、哲学者が一番理解していました。物理法則に従う振り子ならいざ知らず、人間が半永久的に機能するテンプになるなど、あり得ないのでありました。


 そうです、哲学者には最初から、時計塔を動かす気などなかったのです。


(設計?いったいなぜこんな言葉が出てきたのだろう。どこからこんな言葉がやってきたのだ。


 そうだ。おれには初めからこの「部屋」が、おれの「部屋」だという自覚があった。存在も確かめられないのに、おれには確かにこの「部屋」がおれの「部屋」だということがわかっていた。ささくれだった木目の床や、でこぼこと歪な形をする壁も、すこし座ったら壊れてしまいそうな椅子や、それようにあつらえた、ただ図面を描くためだけの机。そして、そこらじゅうに散らばった、夥しい、図面の束と、散発的な思索を書いたメモ。軋みとともに鳴っていたのは、この紙の束だ。おれがこの「部屋」を作ったのだ。おれがこの「部屋」を生み出したのだ。そうしておれは……)


 哲学者は、完全に「街」を止めるために、「街」から「部屋」が動き出すための時間を消し去ってしまおうとしたのです。


 もし、誰も時間が訪れることがわからなかったら……。「部屋」から「部屋」へ移る住民はとまどい、朝日はただ光をもたらすためだけのものに変わり、そうして「街」はがらんとした空き家に埋め尽くされ、完全にその意味を失ってしまうでしょう。そこに漂うのは、ただ人間の自由な意思だけ。それだけが何にも支配されず、人間がまた歩みを始める契機となるのです。哲学者は「部屋」も「街」も、真っ黒に塗りつぶし、完全に消し去ってしまうつもりでした。


(そうしておれは、なにをしているのだろう?おれが、おれのために作った「部屋」で、おれは金槌を叩き続けている……これじゃあ自分のために独房を作ったようなものじゃないか……おれにはもっと大きな目的があったはずだ。おれにはもっと大きな理由が……それは、この「部屋」の軋みと、関係しているような気がするのだが……しかしそれが思い出せない。このツンと響く金属音が、おれの思考をすべて吸い取ってしまうのだ。)


 時計塔は完成しました。


 予定よりもその竣工は早く完了しました。技術者達の献身的な協力もあり、哲学者が計画していものよりも一ヶ月も早く。


 完成した時計塔を目の前に、哲学者は技術者達に短く指示を下しました。


『さあ、みんなありがとう。君たちのおかげで時計塔は一月も早く日の目を浴びることになった。さてここで最後のお願いだ。実はこの時計塔はまだ完成していないのだ。なに、驚くことはない。残っているのはほんのわずかな仕上げだけだ。そしてそれは私にしかできない作業である。そのことはみんなも図面の上で承知済みだろう。そこで一つお願いだ。君たちには、「街」の外側にある「部屋」に移っていただきたいのだ。いままでは「街」に「時間」が行き渡るように、旧式の時計塔を稼働させてきた。して、この……新しい方の、この時計塔が本当に「街」の外まで響き渡るのか、君たちにはその目で、いや失敬、目ではなく耳であったね、それで確かめてもらいたいのだ。もちろん君たちの技術力や、まして私の設計が間違っているなどとは夢にも思っていない。この時計塔が素晴らしい出来であることを知っているのは、他でもない私自身だから。だからこそ君たちには新しくできた「街」でこの時計塔を感じ取ってもらいたい。この「街」のために築き上げた新しい「時間」を、その成果を、君たち自身に感じ取ってもらいたいのだ。』


 哲学者は技術者達を「街」の端に追いやると、しんと静まり返った「街」で一人になっていくのでした。


 「街」にはするどい風の音がうなっていました。陽も傾きかけ、もうすぐ夜が訪れるでしょう。石造りでできた時計塔の周りを、どこかからやってきた落ち葉が、急旋回をして走り去って行きました。誰にも止められることのない自由な歩み。きっと落ち葉はどこまでも転げ回っていくのでしょう。


 哲学者は、永久に動き出すことのない時計塔を見上げました。時計塔の出来は見事と言わざるを得ません。堅牢であり、精密であり、そして永久であり……。完全に静止しきった見事な時間が組み上げられたのです。


 哲学者は息を飲みました。と同時に、彼は知らず知らず、時計塔の階段を一つ、また一つと歩き始めていました。理由は誰にも説明できませんでした。が、きっと、彼の創り上げた時計塔があまりに見事すぎるためだったのでしょう。


 時計塔には「街」よりもさらに、冷えた時間が流れているようでした。一段登るごとに静まり返っていくような感じ。足音の反響が逆に静かさを加速させていく……。横でいまにも動き出しそうな巨大な歯車。寸分の狂いもなく振動を伝えるワイヤー達。時計塔は登るほどに陽を閉ざし、暗闇だけが目に濃くなっていきます。歯車や雁木車の姿もいつしか暗闇に溶け込み、すぐ側にあるはずなの、逆行してどこまでも遠く……。もし自分で設計図を書いていなければ、この階段は無限に続くように思われたでしょう。


 ふいに哲学者はつんのめりそうになりました。急に階段が消えてしまったのです。哲学者は、自分の足元を確かめました。しかし、もう陽は閉ざされ、どこを見ても無限の暗闇があるばかり……。


『(そうだ。ここは文字盤のちょうど下あたり。階段を踊り場にして作った、つまりあの「部屋」のあるところじゃないか。この時計塔の心臓部……真っ黒に塗りつぶされた空白の……建設の最中はどうせバレるはずのないことがわかっていてもヒヤヒヤさせられた……脳に腕が直結させられたような技術者達……いずれも「部屋」を創ることだけしか頭にない「街」のための道具……まさか自分たちの手が「街」を永久に止めてしまうことになるとは夢にも思わないだろう……その油に塗れた手がこの真っ暗な部屋を作り出したのだ……わたしはこの部屋に意味らしいものを与えるために、机や仕事道具を持ち運ばせて図面の修正をする振りをしていた……ほとんどは断片的な細部の修正を意味もなくやり直していただけだった……動かない時計塔の改善など見るに値しない……機能が剥奪された完全な静止……修繕をする余地などなかったが、それでも技術者達を煙に巻くにはうまく役に立ってくれた……テンプ代わりの金属を床に取り付けるときには幾分邪魔そうにしていたが……それでもわたしは机からどかなかった……それが返って、彼らにわたしの作業の重要さを裏付けるものになってくれたらしい……嬉しい誤算だった……もっともそのあとで、「部屋」に必要以上の家具や道具を揃え出したのはどうしたことかと思った……きっと「部屋」のために生きている、彼らなりの気遣いのつもりだったのだろう)』


 哲学者は暗闇に手を伸ばしました。おそらく部屋の扉がある方へ。


 ひんやりとした手の感触。冷え切った木材の触り心地。暗闇に飲み込まれていくような錯覚に襲われながら、手を押してやると、扉は金属同士を擦り合わせたような不快な音をたてる……。部屋の中にはあまりにも濃すぎる液体のような暗闇。


 哲学者は頭のなかの「部屋」の風景をしきりに思い出しながら一歩、また一歩と、なかに入っていきます。そのごとに響く、木材が軋む音。骨と骨の隙間から響いてくるような感じ。体の内側を、自分で踏み鳴らしているような……。しかし、もしこの音が無かったなら……。哲学者は身体に悪寒が走るのを感じました。


 それでも哲学者は歩くのをやめませんでした。正確にはやめられなかったのかもしれませんが、どちらにしろそれは同じことでした。彼は注意深く、進んでいきました。暗闇に足を取られないように、ゆっくり、ゆっくりと。部屋の真ん中のあの「金属」目指して。


『(そう、なにも緊張することはない……ここはわたしの設計した「部屋」じゃないか……もう少しあるけば音が変わるはずだ……足音に耳を傾けながら、注意深く……くそ、あの馬鹿な技術者が持ってきたカーペットだ!……音が聞こえなくなってしまったじゃないか!……頼まれもしないの余計なことばかり……しかし、この馬鹿な敷物があると言うことは、もう少しだ……もう少しであの「金属」の棒に辿り着く……あそこは下に穴を開けさせたから音が響くはずだ……そう言うふうに技術者たちには加工させた……くそっ、それにしても音が聞こえない!……穴に落ちたらどうしてしまうつもりなんだ!)』


 哲学者はもう地面に這いつくばっていました。少しでも身体に触る部分を増やすために顔まで床に擦り付けて。闖入したネズミのような姿を晒すことは哲学者にとって、とてつもない屈辱でした。しかし、目の代わりになるのはこの手触りだけ。なりふり構っている場合ではありませんでした。


 カーペットにこびりついた泥や、乾燥した紙の束をかき分けながら、哲学者は手を伸ばし続けました。机や椅子の脚に身体をぶつけながら、それでも根気強く……。手の感覚だけが鋭く細くなっていく……。蛇のようにくねらせながら、慎重に、ゆっくりと……。


 瞬間、哲学者の右手に違和感がありました。急になにも感じられ無くなってしまったのです。どこに手を伸ばしても、頼りない暗闇の感触。手だけでなく、体の全てが溶け出していくような心細さ。


『(慌てて手を引っ込めた……右手は確かにまだある……慌てることはない、慎重に、慎重に腕を伸ばすんだ……今度は床に沿わせながら、ゆっくり、ゆっくりと……予測が正しければ、この先にあれあれがあるはずだ……少しづつ木目が滑らかになってきた……念入りにカンナをかけた証拠だ……もう少しで、穴の縁に、手が届きそうなんだが……なんだ、急に指の先がざらざらし始めた……荒く木材を切り出したときにできる、ささくれの手触り……指で辿っていってみれば、ゆるく歪曲したカーブ……ざらりとした手触りと、指の腹にひっかる木材の角……しめたぞ!)』


 哲学者はもう一度深呼吸しました。穴のそばまでにじり寄りながら、興奮でぐらつく頭を整えて、そしてもう一度呼吸。


 一気に手を伸ばしました。


 身をつく冷えた感触。「部屋」のなかの、なによりも冷たい金属の感触。たぎるような興奮が身体を駆け巡り、金属の冷たさで鋭敏になった手先をぼんやりとさせ始める……。


『うまくいった!……この「部屋」の心臓をようやくつかまえた!……「部屋」だけじゃない、いま、この「街」の全てが……わたしの手の中にある……なんでもない削り出しただけの金属……こんなものがいまや、この「街」の時間のすべてなのだ……わたしはついに「部屋」の時間をつかまえた!……そう、わたしが……わたしだけが「部屋」の活動から人間を解放してやれる……なんという充実感だろう……しかし、興奮しすぎているのだろうか……手の先が痺れてきているようだ』


 哲学者の言うとおり、彼の手は痺れ始めていました。極度の集中と疲労、圧迫した姿勢からおとずれる血流の不足、そして冷え切った金属の温度。そしてあまりにも濃すぎる「部屋」の暗闇。


 そう、あまりに暗闇が濃すぎたのでしょう。哲学者の手は、輪郭の剥ぎ取られた暗闇の中で、変形し始めていました。


『しばらくしたら手の痺れもなくなるはずだ……大事なのはたしかに、わたしが「部屋」の活動を掴んでいるという認識なのだ……そう、認識……なにせここでは何もかもが暗闇に溶かされている……思い描くことだ……それが一番重要なのだ……意思がなににも邪魔されず歩き始める世界……「部屋」などという閉鎖された空間から解き放たれて、「街」という歪曲された現実が死に絶える世界……陽は時間の訪れなどではなくなり、夜は強制された休息を意味しない、そういう世界……そして人間は、自由意志だけをもって荒野を歩き出すのだ……もはや「部屋」は永久の安息を意味しない……「街」が機能しないのだから当然、「部屋」だって……人は気づくだろう……死んで初めて与えられる墓場、それが「部屋」と言うものの名前であると……ああ、それにしても手の感触がない……一体どうしたんだろうか』


 感覚が失われた手の中に、金属の冷たさが流し込まれていきました。冷え切った金属の液体が手の境界を破壊し、少しずつ奥へ、奥へ流れ込んで行きました。筋肉は破壊され冷えた金属に同化し、血流は運動をやめ、より強固な組成式を描き、骨はそれらの枠組みに……。


 手は「純粋な金槌」へと変貌していました。


『(手の痺れが加速していく……あれほどまで鋭敏だった感覚がもうどこにも感じられない……だからといって確かめてみる気もおきない……棒を掴んでいるという認識だけが、いまわたしをここに繋ぎ止めているのだから……「時間」を掴んでいるという認識が、「時間」が手放される完全な了解なのだから……なにせここでは全てが暗闇に包まれている……認識が大事なのだ……「部屋」などに犯されない完全な認識が……


 じきに朝がやってくる……そのときまで、わたしはここにいなければならない……わたしは見届けるのだ……否、触り続けるのだ……誰にも動かされることのなくなった「時間」を、「街」を、「部屋」を……目で確認できる「街」など断片に過ぎない……どこを切り取っても歪な「部屋」が浮かびあがるばかりで、決して核心の部分には触れられない……触っているという事実が何より確かだ……触っているという認識が何より確かなのだ……誰にも奪い取られず誰にも妨げられることのない……完全な)』


 しかし、哲学者が自らの変形に気づくことはありませんでした。どころか急速に進みつつある肉体の変化にも決して。


 手から染み出した暗闇はどんどん哲学者の形をはぎ落としていきました。皮膚、骨、筋肉、内臓、血液……。暗闇の中で彼の姿、形に一体どんな意味があるでしょうか。もはや哲学者の身体は誰にも認識されることはないのですから……。意味も形も失った身体は、そうして一つのところに集まっていきました。唯一、形の定まった「純粋な金槌」のもとへ。


『(認識だ……「部屋」から解き放たれるための、完全な……そう、自由意志)』


 彼の身体は彼のものではありませんでした。彼の思考すら彼の手から離れていました。金属があまりに冷た過ぎたために、また暗闇があまりに濃すぎたために、彼の身体は暗闇の中で、永遠に波打っていくのでありました。


(自由……そうわたしが夢見ていたのは自由という言葉の響きだったのじゃないか……わたし?古くなじみのある一人称……もう随分前に忘れてしまった「わたし」の呼び名……いや今はどうでもいい、暗闇での一人称など何の役に立つ……自由だ……「部屋」という檻を抜け出すために、「部屋」をつくったわたしは、結局、「部屋」に閉じ込められてしまった……あの、ポリオ患者たちのように……「純粋な金槌」に変わった右腕……わたしの身体ごと「部屋」そのものに……そう、この思考も、もうしばらくすれば……鐘の音とともに……それでなくても金属音がわたしの意思を吸い取っていく……もうなにも考えられない……また鐘の音がやってくる)


 哲学者の設計した時計塔は見事でした。


 「街」の人々は朝日の訪れとともに、完全な時間の音をその耳で聴いたのです。今までと全く変わらない、いやそれ以上に正確で、精緻で、堅牢で、完全な鐘の音を。


 「街」はまたいつものように、活動を始めました。そして、「部屋」は揺籠の唸りとともに、その目を覚まし、それに突き動かされた人間たちは、あの厭わしい煩わしさとともに目を覚ますのでした。まるで何かに動かされているのように、またそれがあまりに自然なことであるかのように。そしてそのことに何の意味があるかもわからずに。

 いつまでも、いつまでも「部屋」は、「街」は、時間は活動をし続けるのでした。

 黒く塗りつぶされた時計塔とともに、いつまでも、いつまでも……。





(しかしこの行為だけが唯一……おれの存在を確かめさせてくれる……この行為だけがおれに、おれが存在しているということを……この行為だけが唯一……)


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