始まりは突然に
よく晴れた夏の日だった。
日本中でそれは突然始まった。テレビに、スマホに、パソコンに、自販機の液晶にまで画面という画面が一斉に真っ赤に染まりPOP書体の白文字が浮かび上がった。スピーカーからは最大音量で車のクラクションのような音が鳴り響く。
『今からゾンビが発生します。七日間生き延びれば助かります。がんばってね』
もちろん誰も信じなかった。何かの宣伝だろうとしか思わなかった。実際にその目でゾンビを見るまでは。光の粒子が空中でキラキラ光り、やがて人の形になった。光が輝きを失うと、そこにはゾンビがいた。皮膚はただれ眼球は溶けかけ骨も露わな異形の存在が、腐臭を撒き散らしながら人々へ襲いかかった。5メートルに一体くらいの間隔で自然発生したゾンビ達は、人々に喰らい付き肉を噛みちぎって咀嚼した。内臓を貪った。そして絶命した人は起き上がりゾンビとなってまた人を襲った。そんな悪夢の連鎖は瞬く間に広がり、日本中をパニックに陥れた。
「はぁ、今日も出ないなぁ」
タケルは便座に腰掛けたままため息をついた。便秘である。最後のお通じは3日前なので、そろそろお腹が張って気持ち悪い。
「それもこれも全部ゾンビのせいだよ」
昨日の昼便意を催して、食事していた牛丼屋のトイレに飛び込んだ。スーツのズボンとパンツを一気に下ろしていざ座ろうとしたところで、例のゾンビアラームが発生したのだ。無視してきばろうとしたが、けたたましい音に加えてすぐ目の前に光の粒子が発生した。ピンポイントでタケルが入った個室の中に、ゾンビが産まれたのだ。
「なんだお前!?え、ゾンビ?やばくない?」
全く意味がわからないままに水洗タンクの蓋を外して殴り倒したが、ズボンを上げる余裕はなかったので勢い余って飛び散るゾンビの脳漿の中に倒れてしまった。ドアで頭も強打した。ふらつく頭を抱えながら再び光の粒子へ帰るゾンビを見ながら、便意が去ったことを知った。幸いなことに脳漿も光になって消えたので服は汚れなかった。
「なんだったんだ……。」
手を洗ってトイレを出ると、店内は妙に静かだった。ただカウンターの奥の席から、何かを咀嚼するベチャベチャという音だけが聞こえてくる。見ると大柄な男が一心不乱に何かを食べているようだ。タケルがトイレへ行く時に入店してきたボサボサ頭でチェック柄のシャツをズボンにインしていた男のようだ。
「汚い食い方だなぁ。そんなに牛丼むさぼるなよ」
聞こえないよう小声で言ったつもりだったが、男の動きが止まった。怒ったか?絡んできたらめんどくさいなと思いながら見やると、目があった。男の目は白目が血走って真っ赤になり、瞳孔も開いている。口の周りは血だらけで、更には唇が裂けて乱杭歯が剥き出しになり、悲惨な状態だった。
「うわぁ。えぐいな」
机の上にあるのも牛丼ではなく、店の三角巾をつけた店員の女性の生首だった。片方の目玉と鼻が既に食された後で欠けている。今咀嚼されていたのは頬肉だったようで、めくれた皮が男の歯に挟まっていた。
「ぐぁ、が、ごがぁ」
「いやごめん、気にせずどうぞ続けて続けて……」
食べ方を貶されて怒ったわけではないだろうが、ゾンビ男は店員を食べるのをやめてタケルの方へ向かってきた。
「やっぱりか。お残しは良くないぞ」
近くの椅子を持ち上げようとしたが、床に固定されているタイプで持ち上がらなかった。
「マジかよ。勘弁してよ」
テーブル席の椅子を掴むと、今度は楽に持ち上げることができた。
「店員さんのかたきだ!」
全く思ってもいないことを口走りながら木製の椅子をゾンビ男の頭に叩きつけた。衝撃で椅子は壊れてバラバラになる。ゾンビ男は前のめりに倒れたが、まだ脳を破壊するには至っていないようで動いている。
「やっぱり頭潰すのが弱点?定番だなゾンビ君」
端が折れて尖った椅子の脚を逆手に持ち、ゾンビ男の脳天へ突き刺した。頭蓋骨に阻まれるかと思ったが、意外としっかり突き刺さった。
「映画とかだと簡単に頭潰してるから不思議だったけど、ゾンビになると骨が弱くなる説あり?それとも火事場のバカヂカラ?」
動かなくなったゾンビ男を前に考えたが、もちろん答えなどわからない。ただ今倒したゾンビ男は光になって消えることはなかった。
「光から生まれたゾンビは倒すと光に消える。ゾンビに噛まれてゾンビになった元人間は、消えずに残る。ってところかな?知らないけど」
その仮説にももちろん誰も答えはくれない。これから検証していくしかない。生き残ることができれば、の話だが。
そしてそれから丸一日生き延びて現在に至る。諦めて便座から立ち上がりパンツとズボンを履きながら、タケルは耳をすました。ここは牛丼屋の二階である。あれから店内にいた他のゾンビも全て始末し、入口にバリケードを築いて籠城している。自家発電でもないのに未だ電気は生きていた。つまり冷蔵庫も稼働している。水道から水も出る。飲食には困らない。一階には厨房の奥に元店員ゾンビが一体いたが倒した。正確には調理台と食器棚の間に挟まってもがいているところを、金槌で頭を砕いたのだ。金槌はなぜか冷蔵庫の上に置いてあった。持ち手まで金属で出来ているやつで、釘を打つところと反対は釘抜きになっている。釘打ちの方で5回くらい力任せに殴ったら、頭蓋骨が割れて脳みそが飛び散って動かなくなった。二階には光のゾンビが一体と元人間ゾンビが3体いた。音に反応すらるらしく、順番に階段へ来てもらって転がり落ちたところを叩き潰した。走らないゾンビ型だったので、さほど苦労はなかった。普通に腕が疲れるのと、光のゾンビ以外のゾンビは倒しても光の粒子にならないので残る。飛び散った血や脳味噌や謎の汁も残る。それが不快で処理が面倒であった。とにかくも店内の清掃を終えタケルは籠城したわけだが、入り口を机や棚でしっかり固めてしまうと暇になった。死体は二階の窓から前の路地へ投げ落とした。店がある通りはそんなに大きくはないが、いくつかの店が並んでいる。光のゾンビがどの位発生したのかはわからないが、牛丼屋の店内だけで3体生まれていたとしたら結構な数が世の中に解き放たれたはずである。一家に一体どころではないだろう。そいつらに襲われた人もゾンビになってまた襲って……ねずみ算のようにゾンビが繁殖している可能性がある。
「だ、誰かー!」
「助けてー」
「やめて!お母さん!痛い!」
窓を開けていると悲鳴が聞こえてくるので、閉めっぱなしにしておいた。外を覗くと阿鼻叫喚の地獄絵図に遭遇するかもしれないので、極力見ないようにした。するとあら不思議、平和で暇になってしまった。とりあえずご飯を食べて水を飲んでトイレでがんばる。まだ出ない。
「このまま七日間過ごせばどうにかなる、のか?」
ゾンビアラームが鳴った時には便意で忙しかったし、その後も光のゾンビが現れてスマホを見るどころではなかった。しかし画面はずっと変わらず赤地に白文字が表示されていたので、メッセージは受け取っている。信じるかどうかは別にして。
とりあえず一階に降りてネギ玉牛丼を作って食べた。ビールも飲んだ。スマホの画面はいくら操作しても変わらないので、諦めた。店に残った客や店員の荷物を漁ったら小説を見つけたので、それを読んで寝た。普段読まない推理小説だったが、意外と楽しんで読めた。フグの毒を手に入れるために釣りを始めたら楽しくなって、色々釣っていたらゴンズイの毒に苦しむことになった犯人には笑わせてもらった。きっと作者も苦しんだのだろう。
そうしてほろ酔いで二階のテーブル席のソファで寝た。夢は見なかった。