登るひと
おとこは今日も鉄塔に登る。
地上56メートル。時刻は夜の10時半。
東京の端に位置するこの街の夜景は、うるさすぎず、寂しすぎない。おとこにとってはなんだかちょうど良い塩梅であった。
この時間になると外を出歩く人はほとんどいないが、それでも駅に電車が到着するたびに幾人かが外へと吐き出されていく。その人影はあまりに小さくたよりなく見え、『これがあの人間なのか』と思わずにはいられなかった。
人影は駅を中心にばらけていき、やがてそれぞれの家に入る。「家」と呼ばれる無機質な箱に入ってしまえば、もう彼らの姿を捉えることはできない。
(有機的な人間だって、箱に入ってしまえば金網やこの鉄塔と同じ無機物だ。 )
そう考えると、今まで以上に自分の足元の錆びたスチールが温かく感じられた。 そうしてしばらくして、おとこは満足して鉄塔を降りて行った。
---
一週間後、おとこはまた鉄塔を登っていた。
一番高い金網の足場まで登り切ると、そのままその上に仰向けになり夜の空を見上げた。心なしか地上で見る時より星が近くにあるように思える。
(いや、この鉄塔の高さの分だけ、おれは確かに星に近づいたんだ。)
そんな馬鹿げたことを、おとこはふと思いついた。ほんの微かな距離でしかないが、確かに近づいている。近づこうとする意思が、ベクトルが、存在している。 おとこはそのことについて少し不思議な気持ちで考えを巡らせた。
天体観測にも飽きて、おとこは起き上がろうとしたが、足下の感覚がいつもと違うことに気づく。
足を動かすことができない。ぴくりともしない。それ以前に感覚が全くない。
月明かりに照らされた自らの足下を見てみると、足の膝から下が冷たい鉄骨と繋がっているではないか。
恐る恐る手を伸ばしてみると、かつて膝下であった部分からは固く冷たいサラサラとしたスチールの触感がする。おとこはその異様な状態から一旦視線を外して、慌てて考えを整理してみる。
鉄塔と同化してしまっている。おとこは直感でそう理解した。
いつかこうなってもおかしくないというような気持ちが、どういうわけかおとこの心の片隅にあったのかもしれない。足が同化してしまっている以上、無論その場から移動することはできそうもない。おとこは途方に暮れつつ、起きてしまったこの出来事について思考を続ける。
無機物と同化してしまう、無機物になる、ということは一体どういうことだろう。無機物は熱を発しない。呼吸をしない。食事をしない。喋らない。 感情がない。思考しない。
(それって、これまでの人生と大差ないのかもしれないな。)
少し笑みをこぼした後、そんな悠長なことを考えている場合ではないとすぐに考え直す。
今は足のみだが、このまま体全体が同化してしまったら一体どうなってしまうのだろう。この素晴らしい景色だって、いつまでも眺めていたらどうしたって飽きてしまう。
(例えば、もし完全に、体全体がこの鉄骨と同化をしたら、『無機物の中を自由に行動することができる』と仮定するのはどうだろう。)
おとこは、急に思い浮かんだこの考えの虜になった。それは実際とても魅惑的だった。
自由に、ということは電線をつたって移動できるということである。おとこは振り返り、後方の山々に視線を移す。近代文明栄えるこの世の中では、電線がすべての場所をつないでいる。
電線をつたえばこの山の向こうの街にも行ける。見当もつかないような遠い、遠い街にも行くことができる。そしてもちろん、君の街にだってこの電線は繋がっている。
おとこは急に寂しさが吹き飛んでしまった。
(なんて素敵なことだろう。おれはもうあの寂しさに苦しめられることはないんだ。)
あの寂しさ?ふとおとこは突然浮かんだこの思いに意識を移す。
おとこには友人も多くいたし、愛する人もいた。それでも、どこかでずっと寂しさを抱えていたように思えた。
なにかと一つになりたかった。拙い思考が優しく包み込まれて、霧となり消えていってしまうような、そんなものを空想していた。
あの寂しさはなんだったのだろう。
地上56メートル、おとこは目を覚ました。慌てて足元に視線を移すが、彼の足は宙にぶらぶらと浮いている。
こんなところで寝てしまった自分にあきれつつ、彼は自分が見た夢のことを考えてみた。そして後方の山々に視線を移す。
(この電線は、君の街にまで繋がっている。)
おとこは少しの寂しさを感じて、しかしどこか満ち足りた気持ちで、鉄塔を降りて行った。