118.ジェロムの治療
「おじさん、どうしたの?
怒ってる?」
不意にジェロムの後ろに金影が現れる。
影から白く細い腕が伸びて太い首に絡みつき、愛しの番になった。
「····がっ、あっ」
「遅くなってごめんね」
柔らかな微笑みとは対照的に、向かい合うジェロムが苦しそうに悶えるが、足元の影から金色の蔦が纏わりついて倒れる事は許さない。
「しばらく眠ってて」
小さな手の平が厳つい目を覆った途端、蔦に絡まった体からガクリと力が抜けた。
「おい、そこの人属!
これはお前の仕業か!
見つけたぞ!
今すぐ殺してやる!」
「不敬だぞ!
早く結界を解け!
この卑怯者の下賎な人属が!
今解くなら私の妾にしてやる!」
殺意が芽生える言葉を吐き捨てる2人に目をやれば、狭い透明な結界に閉じ込められている。
ラジェットが素手で結界を殴りつけるがびくともしない。
ペネドゥルは両手を結界の壁についているが、恐らく魔法を発動しようとしてできていないのだろう。
2人共異常ではないかと思うくらいに半狂乱で取り乱して叫び続けている。
思わず愛しい番を口汚く罵るその口を縫いつけてやりたくなる衝動に駆られるほどだ。
地面に降りた当のレンはチラリと目だけをやるが、無視してトビの方を向く。
「トビ君、いつもの私の薬と試薬品」
トビが魔法鞄から丸薬と透明な小瓶を出しながら結界を抜けて歩み寄り、手渡す。
レンは左手で小瓶を持ち、右手に乗せた丸薬を口に放り込む。
いつものように唸る事もせずに飲み下した。
俺も側に行きたいがレンが許可していないようで、抜け出せない。
「レンちゃん、何する気?
自分の事私とか、ちょっと雰囲気違うくない。
まさかとは思うけど、これ以上の無理したらホンマに死ぬで?」
「そうならないように祈ってて」
トビは小さい手を小瓶ごと握る。
その顔は普段と違って真剣で、どこか切実だった。
しかし対するレンは穏やかに微笑んで空いた手で大きな手を持ってそっと放させる。
ジェロムに向き直ると、小瓶の蓋が足元に落ちた。
右手の平を上に向けると中の透明な液体がその少し上に水溜まりを作る。
そう思った途端、レンの手首が動脈に沿ったように裂けて血が滴る。
しかし重力に逆らって浮き上がり、透明な液体と混ざり合う。
ふとレンが顔を上げてジェロムの右首筋あたりを見つめた。
シュルリと風が動き、その瞬間に鮮血が飛び散った。
「ジェロム!」
それまで息を飲みながら静観していたザガドが拳を結界に打ちつけたが、びくともしない。
「助けたいなら黙って見てなよ」
レンの淡々とした声だけが響く。
いつの間にか向こうで閉じ込められた2人も黙って事の成り行きを見ていた。
飛び散った血が元の持ち主のすぐ横で赤い水溜まりを作り始めた。
レンの右手の宙に集まる水溜まりが獣人が両手で持てるボール程度の大きさになった頃、ジェロムの横に溜まった水溜まりはその3倍の大きさになり、2つの傷口が金色の光と共に塞がった。
レンは1度気だるそうに深呼吸してからジェロムの右腕を蔦で持ち上げ、両目を凝らしながら胃の少し下を右手の細長い3本の指で何かを探すように撫でる。
「カンジョウミャク···これか」
聞いた事のない、恐らくそういう発音を拾う。
カンジョウミャクとは何だ?
どうでもいいが、俺以外の男の素肌に触れるとはどういうつもりだ。
不意に指の触れていた所がホワリと光り、浮かんでいたレンの血溜まりがゆっくりと光に吸い込まれ始めた。
レンは小さく息をつき、今度は少し体を浮かせる。
俯いた自分より大きな頭に両手を伸ばして側頭部を抱えると、目を閉じて····くそ!
可愛らしい小さな額をオッサンの汗ばんだ額に当てるとはどういう事だ?!
「あれは治療だ、あれは治療だ、あれは治療だ、あれは····」
何とか理性を保とうと治療の為だと言い聞かせるが、胸にもやもやとした黒い何かが渦巻く。
ザガドの微妙な視線を気にしている場合ではない。
「····ぅ····あ····」
小さく呻いたかと思うと、険しかったジェロムの表情が穏やかになっていく。
時間にすれば10分程度だったが、俺には数時間に感じた。
鱗が剥がれ落ち、人の肌に戻る
2人の額が離れ、愛しい黒目が開く。
ジェロムの顔色とは対照的に血の気を失くして青白く、心配だ。
レンの血溜まりは無くなり、金色の蔦が消えてドサリと大きな体が地に沈んだ。
そうして今度はジェロムを振り返る事なく閉じ込めた2人の元へ歩く。
俺の方も全く見てくれない。
ジェロムの血溜まりがフヨフヨと後に続く。
進む先に目を向けて初めて気付いた。
ペネドゥルは両膝を地面につけ、結界の壁に握った両手をついていた。
ラジェットは左手を置いた左膝を立て、右手は地面について俯き、座り込んでいたがレンを確認するとガバッと立ち上がって結界を殴りつけた。
しかしそこで力尽きたように再びガクリと座り込む。
「随分叫んでたからサンソが無くなるの早かったみたいだね」
レンが彼らの前に立つと、鋭い2組の眼光が睨み付けた。
サンソ、とは何だろうか。
「ふふ、話す気力も無くなった?」
反対側にレンの声は穏やかだったのに、どこか寒気を感じさせた。




