2話 宇宙人
「水上、ばいばい」
「うん。またね」
水上と別れて帰路に着く。
校門から伸びる長い坂を下りて、わたしは右に、水上は左に。ほとんど正反対の帰り道だった。
もう時間は遅いけど、駅前モールに寄ろうと思っていた。
近道をするために住宅街を横断する。わたしの住む町は山を切り崩したような土地ばかりなので、国道を外れると途端に坂道ばかりになる。
空は紫色で、ひぐらしの鳴き声がよく聞こえる。木も蚊も多くて、走っている車の音は少し遠くて、畑もちらほら。住宅はそこそこ。丘を上がって見晴らしの良い場所に出ると、そういった自然と人工物が混ざり合おうとして途中で諦めてしまったみたいな光景が一望できる。
商店街がある方は10年前と比べて、かなり廃れてしまっていた。
今年の4月1日に『終戦』が告げられた。そもそも『戦争』だなんて大げさだと思うけど、インパクトのある言葉で区切らないといけないのは、わたしでも理解していた。そうしないといけないくらい、戦っていることさえ忘れてしまうくらい、人は目に見えない敵と戦い続けていた。新種のウイルスとはそうしたものだった。
派手な病気ではなかったし、人間全体という規模で見れば、単なる風邪みたいなものだと思う。10年という期間も、人類史という単位で見れば、もっと大したものではなくて、たった一度のくしゃみくらいなものなのだろう。
ただ、そのくしゃみは一人一人の体験からすれば嵐のように強烈で、結果的に大勢の人を疲弊させた。
商店街の多くはシャッターで覆われてしまったし、わたしの父親も遠くに行ってしまった。
今から5年前のことだ。離婚ではなく単身赴任だと言っていたけど、同じようなものだと思っている。父が家を出ていく数日前に母と大喧嘩をしていたから。
戦争を乗り越えるスローガンの一つに『適切な距離を保とう』というものがあった。飛沫感染の対策に掲げられたものだ。父は会社に通わずに、家で仕事をすることが多くなった。それで外部との適切な距離は保てたのかもしれないけど、逆に家の中の適切な距離は狂ってしまっていた。
何が原因で喧嘩になったのかわからないし、それが父が遠くに行った本当の原因かどうかもわからない。わたしは父も母も妹も好きなので、問い詰めることはしなかった。そういう暗い話に蓋をしたかった。
週に一度顔を合わせる父にも、毎日顔を合わせる母にも、わたしは良い子であるように徹底した。そうすれば、二人が仲直りするかもしれないと思った。また同じ食卓を囲めるかもしれないと思った。それが小学5年生のわたしに出来る精一杯だった。
ふぅ、とため息をひとつ吐く。
わたしも高校生だ。こじれた関係の修復なんて早々上手くいかないし、時間が経てば経つほど難しくなるのも分かっている。さらに、良い子であれ、なんて的外れもいいところだ。二人の間で発生した問題なのだから、わたしがどうこうしたところで、何が解決するわけでもないのだ。
駅前モールで水上へのプレゼントを買って、帰宅する頃には20時をまわっていた。
「おかえり、お姉ちゃん」
「ただいもむし」
「どこ行ってたの?」
身体をくねくねとやる渾身のギャグ『ただいもむし』を無視する妹。中学二年生。
自分でも面白いとは思ってなかったので、別にいいけど。
「モール行ってた」
「ふぅん」
妹の狙いは分かっている。わたしのもっている紙袋の中身だ。コージーのシュークリームをひとつ渡すと「やったー」とお礼も言わずに自室へ走っていった。まあ別にいいけど。
妹は可愛い。父親代わりなんていうとおこがましいけど、家族にヒビが入っている分甘やかしてあげたかった。当時、ショックを受けて不安定になっていた妹を見て、わたしが頑張らねば! と気合を入れたのを今でも覚えいる。ただ、現状を鑑みるとちょっと甘やかしすぎてしまった感が否めない。学校には行くけど引きこもり、みたいな感じで、趣味嗜好の対象がひどく限定的なやつに育ってしまった。
まあ、わたしみたいな無趣味になるよりはマシか。
母は入浴中だったので、残りのシュークリームは冷蔵庫に入れた。
食卓には一人分の夕食が丁寧にラッピングして置いてあった。この日のメニューはわたしの大好きな唐揚げがあった。まだ温かさの残るそれを食べていると、胸の奥がちくちくした。
翌朝。いつも通りに家を出た。母はわたしの帰る時間について、あまり深く言ってこなかった。「遅くなるようなら連絡して。合わせてご飯用意するから」と、優しい母だった。
むしろ妹の方が問題で「お姉ちゃんは不良になったよな」とからかってくる。元不登校児に言われたくねー。
われわれの学校は小高い丘の上に屹立している。時代が時代なら守りの要になったかもしれない程度には、良い立地だ。……この時代には過ぎたものである。
校門前の坂は勾配がきつめなのもあって、いつも登校の渋滞が起きている。船頭多くして船山に登るというやつだ。たぶん意味も用途も違うんだろうけど、この諺を聞いて真っ先に思い浮かぶ場面がこれだった。もちろん船なんかどこにもない。この坂があるせいで自転車通いもほとんどいなかった。
ともかく、みんなお喋りしながら歩くものだから中々前に進まない。直線の坂で見通しが良いこともあって、あっちこっちでグループが作られ始めるのだ。
わたしも例外ではなかった。
「小出おーい」
呼ばれて振り返ると、クラスメイトがいた。濃いめの化粧にバキバキに明るい色の髪が特徴的なチョベリバだ。
山田か川村か森田みたいな、派手な見た目と一致しない量産タイプの名前だった気がする。日本人の名前というのはどれも似た寄ったりで中々覚えられないので、わたしの中でこっそりとあだ名を付けていた。ギャルを古代言語でチョベリバと呼ぶと雑誌で読んだ記憶があるので、このクラスメイトはチョベリバだった。
「どもー、小出オーイです」
「ん? ……ああ! ──小出陽奈おーい!」
わざわざ距離を開けて詰めて、と分かりづらいボケにボケを重ねてくるチョベリバ。ものすごくノリが良いやつで、底抜けに明るい。こいつに限っては裏表がない気がする。好きなタイプだけど、わたしにはちょっと眩しすぎた。水上くらいがちょうど良いのだ。
それから他にも5人くらいに名前を呼ばれた。わたしはみんなの顔を覚えていても、名前を覚えられないでいる。理由はよくわかっている。自分から相手の名前を呼ばないせいだ。
『終戦』はマスクの着用と適切な距離という、それぞれの義務を取り下げた。わたしもマスクは蒸して嫌だったので、それを心から喜んだ。
クラスメイトたちはお互いの名前を呼びあって、グループを作って、親睦を深めている。距離なんてものは近ければ近いほど良いに決まっているとでも言うように、一切の疑いなしに友達作りに勤しんでいるみたいだった。
正しいことだと思う。健全な高校生の姿なのだろうと思う。
それでも、わたしにはクラスメイトの名前を覚えることが出来ないでいた。距離を詰めすぎた先にある崩壊を知っているから。
だから、わたしは適切な距離を取り続けることにした。
バランスの良い関係を維持するために、バランスの良い笑顔を貼り付けて。良い子のする表情で彩って。
そうやって出来上がったわたしには『終戦』を経てもなお、嘘で作られたマスクがくっついている。くっついて、くっついて、取れないでいる。
父が離れてからの5年間。それは、マスクが肌に張り付いてしまうには十分すぎる時間で。たとえマスクを外すことができたとしても、空っぽの5年間があるだけなのだ。
その素顔はきっと無表情で、何を考えているか分からなくって、人として異質で……そう、宇宙人だ。このマスクの下には宇宙人がいるのだ。
水上が言い当ててくれたのは嬉しかった。偶然に決まっているし、ただの悪口のつもりなんだろうけど、わたしにはそれが心地の良い言葉の棘で、よく刺さった。
昼休み。購買で惣菜パンを多く買ってから教室に戻る。
水上はいつも通り本を読んでいて、その机の上には透明な液体の入ったペットボトルが置かれている。他に食べ物の気配は無い。
聞くところによると、水上はお昼ごはんを食べないらしい。わたしはよく学食に行くから水上がどうしているのか分からなかったけど、学校にいる間中、水を飲むだけで生きているのだとか。植物か。
直接本人に聞いたわけではなくて、チョベリバからの情報だった。さすがにウソだろと思ったけど、昼休みになっても水上がそこから動く素振りを見せないので、証言は真実だったと言えるだろう。さらにさらに、チョベリバ含め何人かが昼食に誘ったことがあって、いずれもバッサリ斬り捨てるような断られ方をしたそうな。いわく『行かない』『食べない』『ほっといて』……取り付く島もないとはこの事だ。
そんな水上だけど、嫌われているわけではないらしい。みんなの水上像を総評すると根暗で高嶺の花子さんという具合だった。隠れ美人属性は合体事故を起こしていた。
さて、どう誘ったものかなと考えながら水上の前に立つ。が、気付かれない。真横に立ってみる。まだ気付かれない。わたしに気付いていて無視している風ではない。本にずっと集中していて、結構なペースでページをめくっている。
ふむ。向こうから話しかけてもらって誘い出す作戦はダメみたいだ。こんなに近くにいるのに気付かないのは無防備というか、寂しいというか。
それにしても、この文学少女は一体何の本を読んでいるのだろう。
当然の疑問が今さらのように湧いたので、今度は水上の真後ろに立って、薄い本の内容を観察してみる。猫背でよく見えないので、ぐぐぐっと、水上の肩から身を乗り出すように首を伸ばす。これで気付かれないのがなんだか面白い。
本は小説……というよりも、何かの脚本みたいだった。会話文の前に名前があって、すぐにト書きがあって、とあまり見慣れない形式だ。内容も、ロミジュリとかハムレツとか、少なくともわたしの知っている戯曲ではない。登場人物に心当たりが無かった。
それと読書ペースが合わないせいで内容に集中できない。最初の数行を読んだ程度で、ページが進んだり、戻ったり。
進むのは良いとして、戻るとはどういうことだ。変な読み方をするやつだと思った。
本への集中力が切れたところで、再び水上そのものに視線を戻す。どうしたものか。
なんだか、ここまでバレずにくっついていると、逆にもったいない気がしてくる。何がもったいないのかうまく言い表せないけど、ステルス技術を褒めてほしいというか何というか。
そういう諸々の心境が合わさり、感情の化学反応が起きて、わたしの人差し指がピンと立った。水上の弱点を探していた。
うなじ、肩、肩甲骨、背骨。腰、わき腹、レバー、肺。よだれが出てくる。
触れてもいないのに、ブラウス越しに水上の体温を感じるようだ。
さんざん迷った挙句、わき腹をつん。
「いっ!?」
水上がびくんと大きく跳ねて、跳ねた反動で思い切り椅子が押し出されて「ぐはっ」わたしのお腹を直撃したのだった。
「なっ、なに……? なんなの……?」
「ごめ……ちょっと……息……息」
みぞおちに入った。くるしい。
気付けば周囲の視線が集まっていて、チョベリバが爆笑していた。もしかしたら奇行を一部始終見られていたかもしれない。
水上にしてみれば、たまったものではないだろう。イジメとか思われてもおかしくない。
「水上……悪気はなかった……ちょっと離れない?」
呼吸を落ち着けながら提案すると、水上は素直についてきてくれた。
目がぐるぐるとなっている時の水上は従順というかなんというか、あっさりと流されてしまうのだ。