1話 ロッカー
部室といえば聞こえはいいけど、実のところ忘れ去られた倉庫みたいなものだった。たくさん物が置いてあるわけでもなく、利用頻度は限りなく低い。ここに居着くようになってから二週間くらい経つけど、まだ誰にも見つかっていない。部室棟には空き部屋がいくつもあるから、一部屋くらい勝手に使っても気付かれないのだ。わたしたちのような不法侵入者にはもってこいの場所だった。まあ、普通は鍵がかかっていて入れないんだけど。
遥か遠くに聞こえる吹奏楽部の間の抜けたトランペットか何かの音や運動部の雄叫びが心地良い。
雨の日に、傘の裏側で雨音を聴くのと似ているなと思った。小さな聖域にちょっとした高揚感を覚えるというか。
外に出ればうんざりするのだろうけど、壁一枚隔てると、不思議なことに趣が出てくる。
それが適切な距離、ということなのかもしれない。
ただ、セミの鳴き声だけは無遠慮に聖域へと侵入してきていた。特殊な音波を出しているのか、森林がご近所なせいかは分からないけど、奴らの声量は凄まじい。もっと声を抑えれば長生きできるだろうに、命は燃やす為にあるとでも言うかのようにミンミンミンミンやっている。ロックな生き方をする連中だ。
……それにしても、あつい。七月にクーラー抜きはこたえる。
ちらり。
すでに読み終えてしまった本から視線をずらして、正面を覗き見る。
机を挟んだ先にいる水上は常に涼しげな雰囲気を纏っている。今は薄いノートみたいな本を読んでいるところだ。前髪が長めのミディアムボブで、ちょっと猫背なせいもあって目が隠れてしまっていた。読みにくくないのだろうか。
水上は普段からこの調子で、教室の中でも誰かと喋ったりというのを見たことがない。
その寡黙具合は、放課後の部室で二人きりになっても続いていた。
「…………?」
わたしに気付いたようで、視線が合う。水上はよく見ると、かなりの美人だ。氷を思わせるような凛とした目が印象的で、一度でも目を合わせれば、その顔を忘れることはないと思う。教室にいるときは、わたしを含めてみんなと交流を絶っているので、目と目が合うなんて機会はなかなか訪れないだろうけど。
猫背とか前髪とか、すぐにでも直せそうなものなのに。人付き合いが苦手なのは分かるけど、そのあたりだけでも直せば『クラスのなんか暗いヤツ』から『クラスの高嶺の花』くらいまでは評価を引き上げられそうだ。余計なお世話だろうか。
まあ、そう思うくらいには美人だった。
「……………………」
にらめっこは続く。
わたしは水上の目にどう映っているだろうか。髪は水上よりも長くて少し明るめに染めている。顔は……目に力を込めるとホラー漫画みたいな表情をつくることができる。うむ。それくらいしか取り柄がない。わたしは一般的な女子高生なのだ。
だんまり見つめ合っていても仕方がないので、大きく目を見開いてホラー漫画の表情をやってみた。カッ。「…………」にっこりと微笑んでみる。にこっ。「……………………」ノーコメントで読書に戻っていく水上。そういうところだぞ。
暑くて新しい本を読む気にもならず、ぼーっと視線をさまよわせる。
窓から差し込む夕陽のオレンジ色が、室内に舞う埃をキラキラと輝かやかせていた。その光の柱を一度でも意識してしまうと、決まって鼻の奥がムズムズしてくる。どういう原理かしらないけど、わたしの身体はそういう風にできていた。
「ふ……ふわ…………わっしょい!」
思わずくしゃみが出る。中途半端に我慢したせいで気合の入った掛け声みたいになった。声もバカみたいに大きくなってしまい、一般的な女子高生というよりオッサンのやるやつだった。
ビクッと肩を震わせた水上が、目を丸くしてこちらを見た。「今の何?」といったところか。
くしゃみですと答えるのも面白くない(というか恥ずかしい)ので、「わっしょいわっしょい」と神輿を担ぐポーズで誤魔化していると、難しい顔をされた。何か言われるのかなと期待していたけど、すぐに読書に戻る。水上はマイペースな奴だった。
スマホを取り出して時間を確認すると、17時43分だった。水上が引き上げるのは決まって完全下校時間の30分前――つまり、18時30分なので、もう少し時間がある。
この部室の鍵は水上が持っているので、わたしはそれに合わせる必要があった。
今ではすっかり共犯者だけど、不法侵入の主犯格は水上だ。わたしが水上の悪事に乗ったのが二週間前で、水上はそれより前から悪いやつなのだ。鍵をどう手に入れたか聞いたことがあるけど「拾った」とだけ答えてくれた。そんなことあるのだろうか? 例えば、丁寧に保管されている場所から鍵を抜き取ってしまう行為も『拾った』に入ってしまったり。
もしそうだとしても、水上を糾弾するとか、そういうつもりはない。『拾った』鍵の用途がリスクに見合わないから。
誰の目にも留まらない場所で静かに本を読む。悪事と呼ぶには、ちょっと可愛らしすぎるというか。それを踏まえた上で『拾った』をイメージした時に浮かび上がる光景は、国民的ロールプレイングゲームの世界だった。具体的には、ゆうしゃ水上が学校ダンジョンを歩いていると、なんだか豪華な宝箱を発見する。開けてみたら、この部室の鍵が入っていた……といった感じ。うむ。どちらにせよ現実味が無いのであった。
水上がゆうしゃだとしたら、わたしは、せんしあたりだろうか? 頭も良くないし、癒し系でもないので、パワーでごり押しする感じ。得意技はまじんぎり。なんの話だっけ。
「小出」
「ん……」
「そろそろ出るから」
水上の声で我に帰った。微睡んでいたみたいだ。
「小出、寝てた?」
「寝てないとも。さあ、学校ダンジョンから脱出するぞ!」
えいえいおーと鞄を振り上げてみる。ゆうしゃ水上の「寝ぼけてるよね」といった言葉は聞き流しておいた。
水上とはだいぶコミュニケーションが取れるようになったなと感じる。はじめの頃は、わたしがここに押しかける形になったのもあって、あからさまに嫌われていた。「宇宙人みたい」なんて言葉を初対面で浴びせてくるのだから、もう間違いなく嫌われていた。わたしにはそれが、ちょっと面白かったのだけど。
高校生にもなると、本心を隠すのが巧妙な連中ばかりになるので、腹の探り合いにうんざりしていた。自分も含めての話だ。だからといって家で時間を潰すとなると、暇で仕方がない。人付き合いが億劫と思いつつ、人の居る場所を求めてしまう大変面倒くさいことになっていた。
そんな中で、わたしを嫌いと言いつつも、追い返したりしない水上が面白かった。あるいは「宇宙人みたい」が撃退の句であったのかもしれないけど、あいにく、わたしには逆効果となったのだった。
水上が荷物をまとめ終わり、ドア側に歩いていく。
気づけば、外から聞こえる音はひぐらしの鳴き声ばかりになっていた。遠くの空では夜の帳が下り始めている。
「あ……」
水上がドアノブに手をかけようとしたところで動きを止めていた。
「どしたの?」
水上は人差し指を口元にあてて「静かに」と耳をそばだてた。
わたしも同じようにして耳をすませると、二人分の話し声がこちらに近づいてくるのが分かった。部室棟は2階建てになっていて、ここは2階の角部屋だ。要するに、この部室に用がある誰かが近づいてきている。
「鍵はこっちが持ってるんだよね?」
「一本だけとは限らないよ」
それもそうだ。マスターキーとか、予備の鍵とか、可能性はいくらでも考えられる。となると、わたしたちの不法侵入が見つかるのは時間の問題なわけで「コツコツコツ」足音がどんどん近づいてくる。今飛び出しても結果は同じことだろう。
だというのに、水上が妙に落ち着いているのはなぜだろう?
何か考えがあるのか聞こうとして「ふぅ」大きく息を吐いたのを見て、悟った。
「自首か!」
「うん」
どうやら謝り倒す気らしい。今ちょうど鍵を拾ったところなんです~といったところか。実際、部室内の物を盗んだりガラスを叩き割るような悪事を働いたわけではないので、素直に言えば許してもらえると思う。
ただ、わたしは水上の意向には反対だった。
そして、それを説明するには時間が足りない。
──コツ。
ドアの前で足音が止まると同時に、水上の腕をがしっと掴む。腕ほっそ。
「えっ?」
水上が動揺した表情を見せる。本日二度目の顔。なかなかレアだ。
いやいや、そんな悠長なことを考えている場合じゃなかった。ドアの向こう側から、じゃらじゃらと鍵束がぶつかりあうような音が聞こえている。
説明は後だ、という顔をして(多分通じてないけど)わたしは水上の腕を三度引っ張った。「えっ? えっ?」と水上の目がぐるぐる回り始めたところで、奥にある大きなロッカーを指差す。もう一度腕を引くと、多少の混乱は残しつつロッカーまで歩いてきてくれた。
部室のドアに鍵が差し込まれる音と引き抜かれる音が何度も繰り返されている。どうやら向こうの人が持っているのはマスターキーではないらしい。
不安そうな顔をしている水上をロッカーに押し込んで、あんまり隙間は無かったけど自分も中に飛び込んだ。ロッカーの中は埃っぽくて、壊れたほうきが一本だけ入っていた。
ロッカーの扉を閉めると、真っ暗になった。
「……なんで?」
水上が責めるような口調で問いただしてくる。当たり前だけど、声が近い。扉の上部についている小さな通気孔みたいなところから、かすかに光が漏れて、水上の顔を照らしている。夕焼けのスポットライトみたいだった。
「居心地がよいので」
部室はわたしにとっての聖域なのだ。それは誰か他の人に見つかった時点で終わってしまう。たとえ鍵を没収されなかったとしても、ここに自分がいると知られた時点で聖域としての価値はなくなる。
納得してもらえそうな説明が上手くできなくて「まだ離れたくない」とだけ手短に伝えた。
水上の返事の前に、ロッカーの外で音が鳴った。二人の男性職員がドアを開けて入ってきたのだ。こちらはもう喋ったり音をたてることはできない。
今、わたしの正面には水上が居て、ぐいっと奥に押し付けるような形になっている。どちらかが少しでも身体を動かせば、観音開きのロッカーはわたしのお尻を伝って勢いよく開いてしまうだろう。
職員が重たい荷物を下ろしたのか、どすんと大きな音がしてロッカー内にまで響いた。
びくっと、身体が震える。お互い密着しているから、どちらが発生源かはわからない。わたしができることは、その震えが外側に向かないようロッカーの奥──水上側へと自分の身体を押し付けることだけだ。ごめん水上。
まだそれほど経っていないというのに、暑さと息苦しさで頭の中がふわふわしてくる。水上の方も体温がかなり上がっていて、荒い息が「はぁはぁ」とロッカー内に反響していた。
少し心配になってきたところで、ようやく職員が部室から出ていった。
入り口の施錠の音を聞いてから、お尻で蹴破るような勢いでロッカーから飛び出す。
「ぷはぁっ。水上、もう大丈夫みたい」
「…………ハァ、ハァ」
遅れて水上もよろよろと出てきた。息も絶え絶えで、顔がトマトのように真っ赤になっている。
「うわ……大丈夫?」
「……この、宇宙人」
また言われてしまった。だけどわたしが宇宙人なら、今の水上はトマト星人だ。とか、そんな事言ったら本当に嫌われてしまうので口をつぐんでおく。
「ポカリ買ってこようか?」
「要らない……さっさと帰ろう」
それから校門で別れるまで、水上はいつも以上にだんまりになってしまった。
いくら謝ってもムスッとしていたので、明日は誠意を見せる必要がありそうだ。
とんでもなく失礼なことだけど、それはそれで、明日がちょっと楽しみになるかもしれないと思った。