第7話:見えない血
その日、いつも通り学校帰りにアソビガへやってきた汐は、太田楼前通りの燐香の屋台に顔を出した。
が、屋台は無人だった。
「あれ?」
汐は屋台の奥を見る。火こそ切っているが鍋には湯気が立ち、シチューの匂いがした。野菜の食材もきちんと切り揃えられている。
小さなテーブルの客席には誰もいない。妖者も人間も。店の主も。
「燐香さん?」
怪訝に辺りを見回す汐。
そんな彼女の耳に、絹を裂くような叫び声が刺さった。
―――悲鳴だ。路地裏から。
「っ!?」
セーラー服と千早を翻し、汐は料亭と食堂の間にある狭い路地裏へ駆け込む。
建物と建物の隙間、配水管と自転車でひどく狭いその空間で汐は見た。
………黒ずくめの妖者に押し倒されている、燐香の姿を。
その妖者は体から無数の笹の枝葉を出し、組み伏せた燐香の全身を舐めていた。
遊銀貨を彼女の傍らに落としながら。
床には零れ落ちたシチューとプラスチック容器。
「燐香さんッ!」
汐は叫び、跳ぶ。
予備動作なしの瞬間的な跳躍からの跳び蹴り。人間の子供ほどしかない妖者は容易く蹴飛ばされた。
笹の葉の枷から燐香が解放される。
「燐香さん、大丈夫?」
汐は腰を下げて燐香を支える。
エプロンとブラウス、プリーツスカートという学校帰りの格好をした燐香には、完全に血の気が無かった。蒼白な顔を全身ごと小刻みに震えていた。視線もひどく混乱状態にあった。
「大丈夫、私だよ、汐だよ。もう大丈夫」
呼びかける汐は、しかしチリンという涼しげな音を聞く。
振り向くと、汐に蹴り飛ばされた妖者が地面へ何かを落としていた。
遊銀貨だ。
「……なに?」
汐がさらに深く訝しむも、妖者は何も応えないまま音もなく去った。
訳が分からないまま、汐は燐香へ手を貸し、彼女を立たせようとした。が、燐香はずっと体を弱々しく震わせるばかりで、自力で動けない。まるで子供のようだった。
汐は仕方なく燐香の体を横向きにさせ、背中と膝裏を両腕で抱き上げる。
「……"でいだら"、お願い」
汐の両腕と両足に、半透明の茶色い肉が顕現する。"でいだら"の肉。
人外の肉が膨れ上がり、10cm近く背の高い燐香を軽々と持ち上げた。
授けられたその剛力で、汐は燐香をそっとホテルへ運ぶ。
密着した燐香から、強くはっきりとした甘い匂いがした。
太田楼の最上階スイートルームのリビングで、汐はソファに座る燐香へジャスミンティーを煎れた。
「落ち着いた?」
「……あまり」
真っ青な顔のまま、燐香はカップを受け取る。その指先は震え、カップを落としかけた。汐が掴んで支える。
「妖者が人を襲うなんて、あんなの初めて」
汐は燐香からエプロンを脱がし、代わりにブランケットを肩にかけてやる。
「妖者が人間と遊ぶときは、アソビガにある遊具を使って遊ぶんだ。あんな風に直接手を出すの、見たことない。しかも遊銀を置いてった。まるで」
おもちゃ扱い、の言葉を汐は飲み込む。
燐香は汐の方を見ず、カップのお茶も飲まない。カップの温度に縋るように、ただじっとしていた。
汐もそれを見守った。片手を耳に当て、通話器のようにホテルの主に連絡しながら。
「……手招きしてたの、あの狭い道に」
ふと燐香がぼそっ、とこぼす。
「シチュー作ってたから、欲しがってるんだと思って」
視線は定まっていない。
ウェーブのかかった茶髪が額の汗に張り付いている。
「食べたいんだって、思ったの。でも、違くて。そうじゃなくて。食べたかったのはシチューじゃなくて―――……ッ」
燐香は目を見開き、ゴホゴホと咳き込んだ。カップを力なく落とす。踝まで埋まる絨毯に茶がこぼれた。
汐はブランケットの上から燐香の背中をさする。
そして、その手で触れたときに気付く。
……燐香の皮膚の下に、何かがいる。
五感以外の感覚で、汐は燐香の中に潜むものの存在を感知した。
(やっぱり何かと同居してる。何なのか、全然分からないけど)
燐香と遊びに出かけると、こうして距離を近くすることがあった。そのたびに汐はこの何者かの気配を感じ取っていた。
燐香に棲むそれの気配は、かなり薄い。汐でも目に力を込めなければ視ることができない。
そしてその霊感を強くしようとすると、嗅覚では嗅ぎ取れないあの甘い匂いが猛烈に汐へ浴びせられる。
まるで他人の秘部に鼻を突っ込んだような激しい羞恥心が、汐にそれ以上視るのをやめた。
だから今まで、汐は燐香のことを強く視ようとはしなかった。
だが今、汐の眼は、燐香の鎖骨の下、豊かに膨らんだ胸の付け根あたりから滲み出る、霞や靄のような何かを捉えていた。
「私は……そんなに、食べたくなるの?」
燐香が暗い瞳を細め、呟く。
「私から何かが零れて流れ出てるって、友達が言ってた。それが好きな生き物、目には見えない生き物がいるって、その子が言っていた」
燐香の言葉に汐は怪訝に目を細め、はっと気付く。
『人間には、目に見えない血が流れてる』
**** ****
鉄塔の上で、ミッカはそう言った。
「目に見える赤い血の他に、見えない血が流れてる。この生き物たちの中には、それを好む生き物もいる」
高さ80メートルの送電鉄塔に腰掛けるミッカ。彼女のガウチョパンツの裾からは、動物の内臓と木の根を合成させたような触腕が数本、伸びていた。
粘液を垂らすそれが鉄塔内部にぎゅうぎゅうに詰め込まれ、一体の異形を包み込んでいる。
甲殻類のハサミをウニのように全身から生やす、レインボーカラーのアメフラシだ。色鮮やかなそれはしかし、ミッカの触腕からの消化液でどろどろに溶けている。
「吸血コウモリみたいに?」
ミッカの膝の上に座る汐が、ミッカへ尋ねる。
「そう。けれどその血はそう簡単には手に入らない。見えない血を守る、見えない皮膚がある。だから食べたくても食べられない」
「"さんがむりや"も、その血を欲しがるの?」
「そう。私は同居人に血を与える。同居人は血の対価を払う。私達は合意の上でこの取引をしてる。けれど」
ミッカ、アメフラシめいた異形を完全に溶融し、触腕で吸収する。
汐を襲いミッカに蹂躙された不可視の生物は、影も形も残らない。
「まだ誰も居着いていない体なら、無理矢理に入り込んで血を吸うことも出来る。これみたいに」
「だからこの生き物は、私を襲うとしたの?」
「そう。強引に棲み着かれ、見えない皮膚を手ひどく傷つけられ、そこから見えない血が流れて止まらず弱っていく。そんな人を見たことがある」
ミッカは汐の頭を撫でる。優しい手つき。ぴくりともしない表情。
「キヨコをそんな目には遭わせない」
「"さんがむりや"は無敵だものね」
汐はこそばゆそうに笑う。
ミッカ、撫で続ける。
**** ****
「大丈夫。大丈夫だから」
汐は一度部屋の外に行き、ホテルのボーイから"それ"を受け取って部屋へ戻ると、燐香の前に腰を下ろした。
そして"それ"―――――どの地域のものとも似ていない字が刺繍された、リボン状の札を燐香へ差し出した。
「ここは"でいだら"の区域だから、これを付けてればここでは襲われないから」
「これは?」
「でいだらの巫女の印が入ったお札。これが貼ってあるものは巫女のものだから、誰も手出しできない」
「でいだらの巫女って、だれ?」
「私」
そういえば話したことがなかった、と汐は今更ながら思い当たる。あれほど一緒に遊んだのに。
大太市なら当たり前に話題にされることを、燐香とはしたことがない。ただの友達のようにしていたから。
その燐香は汐の差し出した札を眺めると、
「……じゃあ、私は汐のもの?」
少しだけ、声の温度を下げる。
燐香の口から聞いたことのない声音が出て、汐は慌てる。
「もちろんそんな大げさなことじゃないよ。危なくないようにするだけのやつだから、そんな深刻な話じゃなくて」
「うん、ありがとう」
ゆっくり。
殊更ゆっくりと、燐香は微笑む。
そしてひどく優しい手つきで、汐の頭を撫でた。
たおやかな手。
汐は息を呑む。
「私のためにしてくれてるんだよね。分かる。助けてくれてるのも。分かるよ。けど、でもね」
燐香は自分の胸に片方の手を当てる。
泣きぼくろのある瞳を伏せ、
「私は、あの子のものだから」
告げた。
「……だれの?」
「友達」
「あの、視えるひと?」
燐香、頷く。
そのときの燐香の瞳は、もう震えていなかった。
むしろ熱を帯びている。誰かのことを想い、心の熱量を上げている。そんな眼差し。
汐には向けられいない眼差し。
「……私も、視えるよ?」
「汐?」
「っ」
汐は自分の声がかすれていることに、自分で驚く。
何を言ったのか、自分でも理解できない。
喉が熱い。理由のわからなさが冷静さを奪い取る。
その熱を誤魔化すように、汐はわざと明るく軽い口調で燐香へ言う。
「そんなに大げさなことじゃないよ。そんなに深く考えなくてもいいんだって。ね?」
「うん、そうかも」
燐香は、しかし微笑みを崩さず、
「ごめんね」
その首を横に振った。
「……」
喉の熱が冷めていくのを、汐は覚えた。
同時に、頭蓋骨の裏側の血管に灼熱が通う感覚もあった。
冷たく熱い、そんな瞳で、汐は燐香を見据える。
「……さっきみたいなことになったら、どうするの?」
「……」
燐香は俯き、それ以上何も言わなかった。
その日から、燐香は遊び場に姿を現さなくなった。