第5話:でいだらの巫女
あの夏の夜。
黒い海。
浜辺に置かれた背の低い焚き火台を前にし、汐はミッカの足の間に座り込みながら、従姉妹を見上げて尋ねる。
「……私のハンバーグ、おいしくなかった?」
「不味いも美味いもない、私では」
ミッカは汐の頭をそっと撫でる。
「母さん達はキヨコの作ったものを褒めてた。だからつまり、あれはちゃんと美味しかったんだ……熱くない?」
「平気。ミッカは熱くない?」
「熱いも寒いもない、私には」
ミッカが焚き火に手を突っ込む。白い手を平然と。
火に包まれるが傷ひとつ負わない。逆に火が弱まっていく。汐はにっこり笑い、
「ミッカは無敵だね」
「同居人の力だけれど」
「さんがむりや」
「そうだった」
「天使の名前だよ。かっこいいでしょ?」
「かっこいい。キヨコのつけた名前だから」
えへへ、と汐はミッカに体をこすりつける。
パチッと薪が小さく爆ぜる。
**** ****
「和幣川さん、この間自転車に轢かれそうになったって本当?」
「小学生の子かばったんだって?」
最後の授業が終わり、片付けをする汐の机に、同級生の女子2人が集まってくる。
いきなりの言葉に汐は戸惑い、
「え、誰から聞いたの?」
「その子、うちの妹の友達だからさ」
「ねえねえその自転車こいでたの誰? 和幣川さんだって分かってたの?」
「ごめん、そっちはよく憶えてない。女の子が無事かどうかしか考えてなかったから」
汐の言葉に同級生ら顔を見合わせ、
「「かっこいい~!」」
汐はひたすら困惑するが、同級生たちは意に介さず、
「でもさ、和幣川さんが怒ったとこ見たことないよね」
「そうそう、春にこっち転入したときとか色々あったでしょ? 転校生って珍しいから、みんな茶々入れてたし」
「空手部にリンチされかけたんでしょ?」
「え、隣の学校のレディースに絡まれたんじゃないの?」
口々に出てくる話題に、思わず汐は苦笑する。
「空手部のは退部したかった男の子がいじめられてたから助けただけだし、暴走族に追われたのは本当だけど、ちょっとした崖を飛び降りて見せたらそれで終わり」
「なにそれすごい」
「でもやっぱり和幣川さんが怒ってるの見たことないし、逆に我慢してるって感じもないし」
「そうそう、全然暗くないんだよね」
「よく憶えてないだけだよ。さっきの話も、言われて思い出したし」
「いや普通そんなことあったら忘れないって!」
「大物か」
「でいだら神社に雷落ちて和幣川さん入院したじゃん、あのときあそこにいたから。あれ以来だよね、変な絡まれ方しなくなったの」
「境内あちこち壊れてたんでしょ? 怖くなかった?」
「入院したけど、やっぱり大した怪我じゃないよ。だから、別に大したことじゃないよ」
「雷に打たれたのに!?」
「和幣川さん強すぎ」
さらっとした汐の言葉に、同級生達は大袈裟なリアクションで反応する。汐は苦笑したまま通学鞄を取って席を立ち、
「じゃ、私神社の手伝いに行くから」
「あ、ごめんね邪魔して」
「ううん、また明日」
教室を去る汐。同級生らはそれを見送り、
「……良い子だなあ」
「なんであんな良い子が、"でいだら"の巫女なんだろうね」
**** ****
汐は学校から直接でいだら神社の稽古場に来ていた。
ジャージに着替え、先に来ていた衛士とスポーツチャンバラを始める。
一年後のでいだら祭りまで、何かしらの争い事で巫女を鍛える決まりなのだ。
「お前、自転車で轢かれかけたって?」
汐と同じ中学一年生にして175cmという巨漢の徳俵衛士が、スポーツチャンバラ用の長刀を振り回す。汐はそれを躱し、やはり苦笑。
「みんな耳が早いなあ」
「"でいだら"からご指名された奴に手を出すとか、命知らずだな」
「え、呪いとかある感じなの?」
「町内会がカンカンだ」
「あ、そっちね」
汐はスポンジで出来た小太刀を衛士の手へ振り下ろすが、衛士は後ろへ素早く下がって回避。衛士は胴体も手足も太い巨体の割りに素早かった。流石は元空手部、と汐は感心する。
衛士の家は神社に奉納するでいだら人形を作っていた。神社関係者たちとは家族ぐるみで付き合いがある。
その衛士がぞんざいな口調で、
「でいだら祭りは毎年やってるけど、巫女が指名されるなんて百年以上前の話だ。みんなぴりぴりしてんのさ」
「大変だねえ」
「なんだそのすっげえ他人事感。言っとくけどお前が一番やべえんだからな」
「まぁそうだよね」
汐は笑う。
「一年後のでいだら祭りで、私は頭おかしくなって死んじゃうかもしれないからね」
衛士は顔をぴくりとひくつかせ、乱雑に踏み入り長刀を振り下ろす。
汐は完全に見切った動きで横に躱す。
逃がさず衛士が連続で面打ち。汐はその全てを回避し、前へ踏み込む。衛士と交錯。彼の胴体を薙ぐ。
「一本」
残身しながら汐は熱なく告げる。衛士は苦虫を噛み潰したような顔で汐に振り向いた。
「……あんなの言い伝えだ。そう言われてるだけで、本当かどうかは分からない」
「みんなはそう思ってないでしょ?」
「俺は」
「うん。本当じゃなければいいってみんなが思ってるのも知ってる」
衛士の声を遮って、汐は笑う。
そんな汐に、衛士は厳つい顔をさらに厳しく張り詰め、拳を強く握りしめる。
「……お前には借りがある。俺に出来ることなら、なんでも言ってくれ。妹と違って霊感がないから、あまり助けにならないが」
「大袈裟だなあ。大したことしてないし、されてもなかったでしょ?」
あっけらかんとした汐の声に、衛士は目を見開き、眉間に皺を寄せる。
「……お前が空手部の連中にサンドバッグにされたことが、大したことじゃない?」
「ちゃんとガードしてたし、向こうも腕しか殴らなかったよ」
だが汐は彼の低い声に動じず、苦笑。
そんな汐に、衛士はさらに語気を強める。
「俺を助けたこともか?」
「私が殴られ続けてれば、衛士はちゃんと退部できて妹ちゃんのお世話とか出来るし、良いことずくめじゃない?」
汐は微笑む。
「深い考えとかなくやったことだから、深く考えないでよ」
……瞬間。
「―――ッ!」
衛士が一瞬で間合いを詰める。踏み込みの轟音。
片手一閃。
渾身の力を込めて長刀が振り下ろされた。
が。
「うん」
汐は反応。身体を捻る。回避。紙一重で。目の前を高速で一撃が通り過ぎた。風圧で汐の髪が跳ねる。
躱した汐、小太刀を薙いだ。
衛士の胸に先端が届く。
「一本」
衛士は小太刀を見ていない。振り下ろした姿勢のまま、20cm下にある汐の茶色の双眸を睨み付ける。
「今のが、俺の怒りだ」
「うん」
「お前はなんなんだ? 空手部の連中に笑われながら殴られても、顔色ひとつ変えなかった。お前にとって大したことあるものは、なんなんだ?」
衛士は問いかける。
「お前の怒りは、どこにある?」
その問いかけに。
「……それはね」
汐は、微笑んで応えた。
穏やかな笑み方。
けれど。
「っ」
衛士が息を呑む。汐の瞳の中に、油のようにべったりとしたぎらつきがあった。
「"でいだら"が教えてくれるよ」
結局その日は様子を見に来た宮司に「てめえらヘッドガードつけろッつってんだろがッ!」と怒られるまで、2人は打ち合いを続けた。