第4話:巡洋戦艦と燐香の部屋
目の前に広がるのは、巨大な湖だ。
護岸された遊歩道やリゾートめいたビーチ、無数のボートが停泊された港もある。
どこからかもたらされた水を溜める、人工湖だ。
「ぅわっ、おっきい」
燐香が声を上げる。
……燐香が目を向けていたのは、湖に浮かぶ巨大な軍艦だった。
全長214メートルの巡洋戦艦である。
目を引くのは3本の煙突と、70メートル以上ある長大な2本の三脚マスト。
武装は角張った4基の14インチ連装砲が前部と後部の甲板に2基ずつ背負い式で配置され、船体に埋め込まれたケースメイト式6インチ副砲が両舷に8門ずつある。
マストと煙突を前後で挟んでいる艦橋は、屋根のない露天式。
歴史の教科書でしか見られないような、第一次世界大戦前の超ド級戦艦だった。
「あれで湖を渡って、扉駅まで行くから」
「あれ、フェリーなの? 大砲あるけど」
「討伐イベントのときも使えるよ。普段は地下鉄の方が安いから滅多に乗らないけど、今日は討伐のと燐香さん助けたので2万枚もらったから」
桟橋から斜めにかけられた連絡橋で、2人は甲板に上がる。汐は船員帽子を被った黒頭巾の船員に夕銀貨を支払い、燐香を艦橋へ誘った。
「イベント?」
燐香が汐に尋ねる。
艦橋は手摺りに囲まれた展望台のようだった。
羅針儀や測距儀、伝声管などがある。200メートルを超す巨大な軍艦にしては簡素で、しかし水面上20メートルの高さから見る景色はとても見晴らしが良かった。
「ときどき強いのが暴れ出すイベント。場長主催だから報酬がいいの。闘技用の街でしか戦わないから、今度見に来てよ」
「どうやって来ればいいの?」
「? 鍵とか貰わなかった? こういうの」
汐は麻袋の中から鍵を取り出し、燐香に見せる。金と銀が混ざったような金属の鍵。
燐香が首を横に振る。
「私は、あれから逃げて自分の部屋を開けただけだから……鍵って誰から貰うの?」
「このパークに招待した神様だよ。お姉さん、誰に招待してもらったの?」
「……分かんない。慌てて部屋の扉を開けたことは、憶えてるんだけど」
大きな汽笛の音。
巡洋戦艦が出航する。煙突から黒い煙が吐き出され、6万4000馬力の蒸気タービンが唸りを上げる。
「そっか。でも大丈夫、扉駅に行けば帰りたい場所に帰れるから」
「うん、ありがとう。ごめんね、なんのお礼も出来なくて」
「全然気にしなくていいよ。私なんか、報酬が増えてラッキーって思っちゃったんだからさ」
「汐って中学生?」
「うん。中一。燐香さんは?」
「高校生。まだ一年だけど。学校どのへん? 私のとこに近いかな?」
燐香は住所を教える。南関東の海に近い街。
汐はその住所に表情を強張らせたが、自分は北関東だと応える。
「そっかあ、遠いねえ」
「だから気にしないでいいって」
汐は艦のマストを見上げる。Tの字を何個も縦に連ならせたような長大なマストだ。半ばの所に見張り台と探照灯がある。
「燐香さんの住んでるとこの近くに、これより小さいけど、船のある公園がない?」
「近くはないけど、電車で40分くらいのところにあるよ」
「昔、連れてってもらったことがある。2年前、夏に」
「2年前かぁ」
燐香の顔色がやや曇る。
汐は気付かないふりをした。
人工湖の空には飛行船。その上に青い天井画。動く龍の絵。
蒸気機関の駆動音と、27.5ノット(時速51km)の作る風の音が、艦橋を支配する。
「……あれは、もう襲ってこないかな」
エンジン音と風の音にかき消されそうな声で、不安げに燐香は言う。
汐は少し考え、
「私と"でいだら"がここで焼き払ったから、少なくても人間の世界には戻れないと思う」
「そっかぁ。いいなあ、みんな力があって」
「燐香さんは、その、ああいうのが視える人?」
「ううん。友達は視えるけど、私は全然」
「なのによく気付いて、逃げられたね」
「……まぁね。いつもはその友達が守ってくれるんだけど、今日は会えなかったから」
燐香は困ったように少し微笑み、それから寂しく目元を細める。
「私も、自分の身を守れるくらいの力が欲しいなあ」
「……」
艦首の向こうに、扉駅が見えた。
********
扉駅は純和風の木造平屋建てだ。出雲の大社駅によく似ている。
吹き抜けになった駅舎内で、汐は奥の無人改札を指さす。
「改札抜けたら、自分のところに戻れるはずだから」
「ありがとう。本当に」
「気にしないで。もしうちの方に来るときがあったら、でいだら神社に寄って。いいお守りあるから」
「うん、きっと会いに行く」
「でいだら神社の宮司さん家とは友達だから、連絡くれればすぐに行くよ」
「本当? 嬉しい」
燐香は屈託なく笑った。
汐はその笑顔に息を呑む。
それが心の底からの嬉しさなのだと、理解したからだ。
汐に会うことを嬉しがっている。
「絶対、会いに行くから」
燐香は汐の両手を取り、強く握りしめた。手が熱い。
「ほんと、気にしなくていいよ」
「気にする。私を助けてくれたから」
この上ない真剣な眼差し。見蕩れる。柔らかな掌。甘い匂い。どぎまぎする汐。
「じゃあね、汐」
「気をつけて、燐香さん」
燐香は名残惜しそうに手を離し、改札をくぐる。一度だけ振り返り、大きく何度も手を振った。何度も。
汐は微笑みながら手を振って応える。
改札の下が不自然に暗くなり、燐香の姿が見えなくなった。
「変なひと」
汐は握られていた手を無意識に嗅ぐ。
まごうこと無い、懐かしい匂い。
しかし何が懐かしいのか分からない。
「どこかで会ったかな……」
瞼の下に、あの開けっぴろげな笑顔が焼き付いている。
********
「よ、っと」
燐香はクローゼットを内側から開く。
部屋に戻ってきた。
壁掛け絨毯に囲まれた居間だ。壁紙ではなく、本物の絨毯が壁に飾られていた。
草花を表した模様のもの。現地の文字を絶妙なアレンジで模様にしたもの。摩訶不思議な図面。鳥や獣が縫われたもの。それらが壁という壁を覆っていた。
もちろん床も絨毯が敷かれている。叔父が言うには、踏めば踏むほど悪いものが落ちる魔除けの絨毯らしい。絨毯の上には敷き布があり、そこで食べ物を広げて飲み食いすることが出来た。
天井には見たことのない結び方をされた飾り紐。布で出来た小さな人形をいくつもぶら下げられている。小さいが邪気を追い払う強い人形だと聞かされて以来、燐香は中空にいる彼らが好きになった。
砂漠と荒野とオアシスの国々を旅した叔父の、青春時代が詰まった部屋。
「ただいま」
燐香は叔父の部屋に声をかける。部屋の誰かではなく、部屋そのものへ。
燐香はこの部屋を愛していた。
燐香が高校に合格した記念として、叔父からその部屋の合い鍵をもらった。
小型マンションの四階にある角部屋。手狭だが台所と風呂もあった。名義自体は叔父のままだが、月に一回は会って食事をする叔父がこの部屋にあがることはほとんどない。
叔父には大学に合格すれば正式に住み着いて良いと言われている。燐香の巣にしろ、と。
「ありがと。やっぱり、助けてくれたね」
部屋の明かりをつけながら、燐香は微笑む。
原因不明の衰弱のせいで失神や脱力を繰り返し、学校に行くこともままならなかった中学時代。
先は長くないな、と何もかも自暴自棄になったかつての自分。
そんな燐香を救ってくれたのが、この部屋だった。
学校の友達もこの部屋のことは知らない。苦しそうな行きずりの女性を部屋にあげたことはあるが、二度も招いたことはない。
燐香だけの部屋。
訪れることを許されているのは、家主である叔父を除けば、ただ1人だけ。
「………あ」
居間を抜けて小さな台所兼ダイニングに入った燐香は、明かりのついていないそこに誰かがいることに気付く。
驚くほど希薄な気配。外からの明かりが、その白い顔の少女を浮かび上がらせる。
燐香は輝かんばかりに顔を綻ばせ、
「―――――ミッカ!」
その名を呼ぶ。
ミッカの霊妙な白い肌が、薄暗い中ではっきり浮かぶ。
雪のように白い肌、というものが本当にあるのを、燐香はミッカと出会って初めて知った。
小さな細面に薄紅色の唇。繊細さをこれ以上なく詰め込んだ目鼻立ち。細長い睫毛に縁取られた大きめの瞳。一房だけ束ね、それ以外はまっすぐ下ろした黒髪は非常に長く、先端が太ももの位置まで届いている。射干玉の髪。
黒いブラウスに黒いガウチョパンツ、黒ずくめの美しい少女。
岩倉ミッカ。
「来てたの? 驚いた、言ってよもう。びっくりした」
胸の中がはしゃぐのを実感しながら、燐香はミッカに近寄ろうとする。
が、その前にミッカが音もなく燐香へ肉薄した。重みのないなめらかな動き。おもむろに両手で燐香を挟み、その唇を唇で奪う。
「……!!」
燐香は驚きに目を見開き、しかしすぐに表情が蕩けた。
整いすぎるほどに整った貌が間近にある。黒曜石のように澄み切ったミッカの黒瞳が、燐香の双眸を覗き込んだ。燐香は陶酔したままやや姿勢を低くし、自分より背の低いミッカを受け入れる。
――――燐香は自分の中に、何かが注ぎ込まれているのを感じ取る。目には見えない何か。
自分の中の、今日の襲来のせいで弱っていたものが復活する感覚。体と心を動かす力は劇的に回復し、細胞の隅々まで染み渡る。長きにわたって自分を苦しめていたものを払い去った、ミッカの加護。
燐香は幸福だった。
そしていつの間にか食卓の上に、金と銀を混ぜたような、1本の鍵が置かれていた。
登場した巡洋戦艦は実在の艦をモデルにしました。どれでしょう?