彩の国
彩の国
空は雲が厚くかかり、北に見える山々は薄白く、そこからは冷たい風が地面に吹きつけ季節が変わったことを知らせている。この国は北から西にかけて高い山々が連なり、冬になるとこの大陸で最初に雪が降る。
小さな雪がまばらになって飛んでいる中で、一枚の欠けた木の葉が舞っていた。だんだんと風の勢いが弱まってくると、少しずつ地面に向かって落ちていく。
落ちて行く先には一人の男が馬を引き、女が馬に乗りゆっくりと移動している。風が止むと、木の葉はユラユラと揺れながら落ちていき、女の肩に落ちていった。しばらくの間離れずにいたのだが、女が頭に被せている笠を右手で少し上げて、北の山々を見上げるとハラリと落ちた。
結月は目的の場所である、彩の国の本城がある鳳仙城の城下町にようやくたどり着いた。
彼女は北平の国の国民であるのだが、昨年の春に一度この国に来ており、薬師になるための試験を受けたのだった。そして、見事合格してこの彩の国にやって来た。
他国では、特に資格などは必要なく現役の薬師の下で見習いとして働きながら薬草の種類と知識、調合などを覚えて一人前になっていくのが一般的である。だが一人前になるのには、かなりの年月がかかり、長い見習い期間あいだの給与は低く、生活していくのがやっとなのだった。
この彩の国では、月芽で初めて薬師の資格制度を設けた。まず、非常に難関な試験に合格出来れば、国が設立した薬草研究所に入所でき、高額な給与を貰いながら、薬師になるための勉学ができるのだ。勉学と言っても座学だけで無く、現役の薬師の助手として働きながら学ぶことになる。そして、最後の難関である資格試験に合格できれば、晴れて薬師として活動でき、国の大臣級の非常に高額な給与を与えられるのだ。
月芽の北の位置にある彩の国は山々に囲まれ、土地も痩せていてあまり多くの作物が採れない地域なのである。なので、昔は他国との交易もほとんどできず貧しい国だった。それを今から三代前の国王である犬養都木麻呂が国内にしか生息していない植物が豊富にある事に着目して、それを薬に使えないか家臣達に命じたのが始まりで、数々の新しい薬が作られると、それを交易の商品として他国に流し、ようやく国庫が潤いはじめたのだった。そして、今や月芽の中で薬の一大生産地にまでなったのである。それから、歴代の王達が優秀な人材を集めて薬師に育て上げ、新種の薬を次々と誕生させている。現在でも多額の給与目的で他国からも優秀な人材が集まってきていた。
結月は研究機関に務めている者が住む宿舎にたどり着き、中にいる関係者に自分の到着を告げた。ごくわずかの手荷物を持って二階に案内され、個室を与えられた。部屋は十畳ほどの広さで、着物などを収納する調度品や卓が置かれている。
「個室なんて待遇が良いわね、やっぱり彩の国の薬師に対する扱いは他国とは別各だわ」
待遇の良さに気分を良くした結月は、卓の上に風呂敷を広げて椅子の上に座り、整理を始めた。荷物と言っても大したものは無く、身の回りの物を持って来ただけだった。すると、入り口の戸を叩く音が聞こえて、結月は返事をすると戸に近づき引いた。
「こんにちは、あなたが結月さんね。私はとなりの部屋にいる安登です。あなたが慣れるまで、この町やあなたが働く研究施設の案内を上の方から頼まれているの、よろしくね」
年齢的に四十は超えている位に見える安登は、背は低く百五十くらいの身長で、割と小太りであるが、愛想の良い顔でニコリと笑って結月を見上げている。
「そうなんですか、よろしくお願いします。この町のことは何も分からないので正直助かります」
「じゃあ、身の回りの物に必要な物や書道具なんかはまだ揃えてないわね? だったら今から一緒に買いに行きましょうよ」
安登は部屋の様子を見て提案した。
「あ、でも、まだお金が少ないので買いには……」
せっかく案内を買って出てきてくれたのだが、結月は申し訳なさそうな顔で安登を見た。
「あら、聞いてないの? これからここで暮らすのに必要な者は全て国が払ってくれるのよ。勿論何でも良いわけでは無いけど、生活に必要な衣服類とそれを収納する棚、薬師になるための書籍や書道具なんかも払ってくれるわね」
「え! そんな物まで大丈夫なんですか?」
「最初は皆驚くのよねー、毎回、私その顔を見るのが楽しいわ。まあ、それだけあなたは難しい試験を突破してここに来たってことね。今回合格したのはあなた一人だけだし、合格者が無しって年もあるぐらいだから、それぐらいの待遇は当たり前じゃないかしらね」
あまりの待遇の良さに結月は唖然とした。話には聞いていたが、まさかここまでの好待遇とは知らなかったのだ。
「と言うことで、今から出かけましょう」
そう言って安登は結月を外に連れ出すと、町の商業施設が集まっている区域に結月を連れて行った。そこには生活に必要な物が売られており、先ほど安登が話していた衣服類や書道具を購入した。銭はその場で払うのでは無く、安登は持っていた研究施設の身分証を提示する。店の者が持っている帳簿に買っていく商品を記載すると、安登に本人の名前を記載させると了承されるのだ。商品は後から店の物が持って来てくれるので手ぶらのまま買い物は終わった。
しばらく安登は町の中を歩き、結月を案内した。町の中は北平の国と同じ物があり得これと言って珍しいものはなかったが、薬問屋は多くあり結月を驚かせた。
そこには薬師も働いているのだが、彩の国の資格を取得していない一般の薬師であり、研究施設で働く我々とは違うのだと安登は言っていた。
町を一回りして、露天で甘い菓子を買って宿舎に戻ると、結月は安登の部屋に通されて茶をいれてもらった。
「ここで働いている薬師候補の方ってどれ位の人数がいらっしゃるのですか?」
結月は茶をフーフーと息を吹きかけて一口飲んだ。
「あなたを入れて二十人だから、多くは無いわよね。年齢も三十代から私と同じ四十代がほとんどで、若い人はあなたが初めてよ。皆この試験に合格するために何年も費やしている人ばかりだから」
「じゃあ、薬師の方は?」
結月が尋ねると、安登は右手で茶を飲みながら、左手を広げた。
「……たった、五人ですか。難しいとは聞いていたけど相当難関なのですね」
結月は苦い顔をしてうつむいた。
「そりゃあそうよ、国の大臣級の給与が約束されるのだから超難関よ。私も一度受けてみたけど、その後しばらく受けようとは思わないわね」
「ちなみに、どんな内容なのですか?」
「残念ながら教えられない規則になっているのよ。勿論問題は毎年変わるみたいだけれど、人から教えられて、そこだけ覚えても意味がないじゃない? 薬師になるのには薬の知識だけでないく、業務全般の事も覚えていかないといけないから偏った知識を頭の中に入れさせてくないみたいね」
「なるほど。では、私はどなたの薬師さんの下で働くのですかね?」
結月がその質問をした途端に、安登は気まずそうな顔をした。
「う~ん、まあ、明日になれば分かることだし話しても良いけど……」
「何ですかその反応。……大きく嫌な予感がするのですが」
「いや、別に変な人ってわけじゃないのよ。ただ、好き嫌いが激しいと言うか、何と言うか」
安登はなおも言うのをためらっている。
「はっきりと言って頂いた方が覚悟ができますので、お願いします!」
結月が必死な顔をして、安登に頼んでいる。
「あなたが来るまでは十九名の候補生がいるでしょ? 薬師が五名だから、一人につき、三人から四人の候補生の助手が付くのが普通よね」
「そうですよね、均等に分けるとそうなります」
「最初はそうだったのよ。ところが、一月もたたずに全員の候補生を追い出してしまってね、今はその人一人で業務をこなしているのよ」
「候補生の人達が何かしたのですか?」
「聞いた話だと、薬草同士の調合などで指示を出しても、候補生の業務速度が遅いと言って結構怒られたと言っていたわね。まあ、非常に優秀な人だし、私達みたいな普通の人間を見ているとイライラするのかしらね?」
ただでさえ入るのが難しい薬師候補生を普通の人間と言うのもおかしな話なのだが、そんな人間を叱れる優秀な人とはどんな人物なのか、結月は不安になった。
「それでね、追い出された候補生が他の薬師の先生方のところに行ったものだから、人数が増えて作業部屋が狭くなったのよ、薬師の先生方が上に文句を言ったらしいのよ」
「まあ、そうなってしまいますよね」
「そうしたら、上の人達はなぜか例の先生には文句を言えないらしくて結局そのままで今もこうして業務をしているのよ」
「……明日不安になってきました」
「まあ、追い出されたらそれでいいじゃない? そうしたら私の先生の所にいらっしゃいよ」
安登は笑いながら気楽に言った。
「でも、一人で業務をこなすのは大変ではないですかね。新しい薬を作るのにも支障が起きて時間も掛かりそうですが」
「それがね、薬草の名前や調合の種類って膨大な数があるでしょ? 私の先生でも書物を見ながらやるのだけれど、その先生は全て頭の中に入っていて一切書物は見ないそうよ」
「ええ! それって凄くないですか?」
「凄いどころじゃないわよ、更に去年の新薬の成功数も過去最多でやってしまったのよ。もう、天才を越えてるわね」
「そんな凄い先生の下で働くのか、自信ないですよわたし」
「まあ、やるだけやってみなさいよ。頑張ってね」
安登はあくまでも他人事のように気休めの言葉を結月に掛けた。結月は結局その後不安な気分のままその日を過ごすこととなった。
翌日、あまり眠れなかったこともあり、目を真っ赤にしながら緊張状態で結月は出勤をした。 薬草研究施設の中に入り、関係者に挨拶を済ませると、一人の職員が結月の職場へ案内をしてくれた。部屋の前に到着すると、結月は戸を叩いて中にいるであろう薬師に声を掛けた。
「あの、今日からお世話になります、結月と申します」
「……」
返事が無かったので、恐る恐る戸を引くと、中の様子をうかがった。部屋の中には誰もおらず、結月は今まで緊張で呼吸が浅かったこともあり、大きく息を吸うと勢いよく吐いた。
「誰もいないじゃない、緊張して損したわ。それにしても……」
結月は部屋の中を見回した。正方形の部屋の壁に沿って棚ががグルッと置かれており、その棚には大量の薬草が置かれている。部屋の真ん中には薬草を調合する器具が四角い卓の上に置かれているが、容器の中には何も入ってはいない。全て綺麗に整頓されているこの部屋は薬草のにおいがしている。興味をそそられて棚にある薬草を一つ取り出すとしげしげと眺めた。
「これはなんの薬草かしら? ……見たことがないわね」
「それは目隠し草と言って月芽の中でもこの国にしか生息していない薬草ですわ」
「へ~、それじゃあ珍しい薬草なのね。何に効果があるのかしら、……ってあれ?」
突然、部屋の入り口から声がして、結月はそちらを振り返った。するとそこには少女が立っていて、両手を腰において結月を見ている。
「それ単体だと、咳止めに使われるわね。でも、それに扇子の葉と合わせてすりつぶし、そこから出る液体は血流を良くする薬になるわ」
「え~と、あなたは?」
見た目十三か十四の年くらいに見えるその少女は、長い髪を後ろで一つに縛り、白い医療用の作務衣を着てこちらを見ている。
「あなたが結月さんね? 初めまして、わたくしが薬師の雅ですわ」
「え? 薬師? ……あれ?」
自分より十ほど年下であろう少女の口から、よりにもよって薬師の言葉が出てきて結月は混乱した」
「随分と混乱しているわね。まあ、所見でわたくしを薬師と思う人は今まで見たことが無いから別に良いですけど、一応あなたの上司になる人間から挨拶をしたのだから返してくれてもいいのではないかしら?」
雅は肩をすくめると、中央にある卓に来て何やら作業を始めた。
「あ、失礼しました! まさかそんなお若い薬師の先生がいらっしゃると思わなくて、結月と申します、よろしくお願いします雅先生」
結月は焦りながら自己紹介をしたが、雅からはそれに対しての返事は無く、テキパキと器具の準備をしている。
「あの~、せんせい?」
結月は無視を決め込んでいる雅に恐る恐る近づいて、様子をうかがった。
「今から言う薬草を、この部屋の中から持って来て欲しいのだけれど」
ちょっとした試験のつもりなのだろう、雅は意地悪な顔をして結月を見た。そして、三つの薬草の名を言って卓の上に置くように指示をした。
「あ、はい!」
結月は慌てて部屋の中を歩き回ると一分もしないうちに指示された薬草を取り出して卓の上に置いた。それを見た雅は、書物を見ず、あまりにも早く結月が持って来たので少し驚いた。
「一般的な薬草ではあるけど、随分と早く持って来られたわね。知っていたの?」
「はい、祖父が国で薬師をやっていたので、子供の頃から手伝っていました。なので自然と覚えていったのです」
「へ~、おじいさまが薬師をね、薬草の種類は数が多いから今のうちから覚えておくのはよいことよ、一つでも早く覚えなさい」
「分かりました。先生は全ての薬草を頭の中に入っていると聞きましたが、どうやって覚えた
のですか?」
「誰に聞いたの?」
雅は訝しげに結月を見た。
「あ、えっと、同じ宿舎の人です」
聞いてはいけなかったことを聞いたのかと思い、結月は思わず首を引っ込めた。
「雅でいいわ。そうね、その通りよ。その方が調合の時に役立つわ。新薬を作るのが薬師の重要な仕事の一つだしね。覚え方なんて特にないわ、見て覚えるしかないのじゃない?」
「分かりました。私もせんせ……、雅さんみたいに全て覚えられるようにします」
「そう、頑張ってね」
雅はやれるものならやってみろと言わんばかりに、冷ややかな顔して結月を見た。
こうして、結月は雅の下で働くこととなった。他の候補生が言っていた通り、雅の勤務中での態度は大変厳しく、思わずくじけそうになるくらいであった。
薬師の仕事量は多く、多忙を極めた。結月は一度覚えたことは決して忘れないことを心がけて働いていたが、その中で一回だけ結月が忘れてしまい、雅に聞いたことがあったのだが、その時、雅は冷ややかで突き刺すような視線を結月にして、突き放すように答えたことがあり、それを見た結月はもう二度と一度聞いたことは忘れまいと心に誓った。
勤務中に結月は不思議な様子の雅を見た。それは、彼女が仕事上の質問を雅にするために近づくと、必ず雅はビクッとして一歩下がってしまうのだ。最初は気のせいかと思っていたが、何回も同じようなことがあり結月は不思議に思っていたが、特にそのことに関して雅に質問することはしなかった。
勤務時間も夜遅くまであり、自分以外の候補生は薬師になるための勉学を勤務が終わってからになるので寝る暇がない。ただ、雅が他の薬師と違うのは勤務時間はきっちり夕刻に終わらせ、課題を結月に与えるとさっさと帰宅してしまう。更に何故か週に二日ほど研究施設を留守にすることがあり、留守の間は雅が指示した仕事をこなしているが、何処で何をしているかは知らなかった。ただ、ある日、雅の研究室に忘れ物をしたのを深夜の勉学中に思い出して取りに行った時である、部屋の戸を引こうとしたときに中から物音が聞こえた。
結月がちょっと戸を引いて中を覗き込むと、真剣な顔をした雅が薬草の調合を行なっているのが見えたのだ。恐らく家で用事を済ませて戻って来たのだろう。それは今日だけでなく毎日の事だろうと結月は思った。人がいないこの施設の中で一人研究をしている雅を見てただの天才ではなく努力を重ねて今まで成果を上げてきたのだと確信した。
そして、数日経ったある日のこと、いつものように研究施設で勤務をこなしている時、一人の見知らぬ男が部屋を訪れてきた。
「私は軍の医師をしております衣麻呂と申します。実は最近国内の北部に赤布党と言う野盗がおりまして、近隣の村々を襲って我が物顔で略奪を繰り返しております。そこで兵百名程を討伐に向かわしましたところ何とか全滅させることに成功したのですが、敵の抵抗も凄まじく、多くの兵が深手を受けております。医師の数が足らずに困っておりまして是非とも協力いただきたくお願いにあがったのですが……」
衣麻呂と名乗った医師は、申し訳無さそうに雅の前に来て頭を下げた。
「薬などは足りているのですか?」
「それが、傷を負っている兵があまりにも多く、足りていない状態なのです」
「分かりました。それでは急いでこの施設内で作らせますので、今はある分だけでも持って行きましょう。それと、一番深手を負っている兵の具合はどうなっていますか?」
「命を落としかねない状態の者が三名ほどいます」
「ちょっと待って下さい。雅さんは薬師ですよ? そんな状態の人を治す薬なんて聞いたことが━」
結月が言いかけているところへ、雅が左手の掌で結月の口を塞いだのでもごもご言っている。
「あなたは黙ってなさい! ……分かりました、これから準備をしますのでお待ち下さい」
雅はそう言って部屋を出ると、各薬師の所に走って行き、先ほどの話をして応援を頼んだ。 幸い薬草と人員はいるので、各薬師と候補生はすぐに行動に移り薬を作り始めた。
「結月さん、あなたは傷に効く軟膏をある分だけ持って一緒に来て下さい」
雅は部屋の入り口にある戸棚から色々な物を取り出して、木製の片手で持ち運べる大きさで、四段の引き出しがある箱の中にそれらを入れると衣麻呂と一緒に部屋を出た。
「ちょっと、待って下さい雅さん!」
結月は袋物の中に軟膏を入れ終えると慌てて二人の後を追った。
怪我をしている兵達がいるところは研究施設からは大分距離がある。町の入り口付近に軍関係の施設があり、その中に運ばれているようだった。外に出ると馬車が用意されていて三人はそれに乗り込んで出発した。
馬車が走り出すとかなり速い速度で動いていてかなり揺れていた。周りの人にぶつからないか心配になった結月は顔を出して辺りを見回すと、すでに多くの兵が通り道に出ていて馬車をすんなりと通れるように人々を抑えていた。その甲斐あって馬車は速く軍の施設に到着した。
中に入って、大きな部屋の室内訓練場に通されると、血だらけの兵士達が床に寝かされてうめいていた。
その中に医師と見られる男達が十名程いて兵の傷の手当てをしている。その側で看護の女達が医師の助手をしているのが目に入った。兵達の傷は様々で、おとなしく寝ている者もいれば、痛みで暴れ出し、医師や看護をしている者達に何とか抑えられている者までいる。
「重傷の兵の所へ案内して下さい」
雅が衣麻呂に告げると、こちらへ、と一番修羅場になっているところへ歩き出したので結月は思わずうなだれた。だが、兵の側に来るとそうも言っていられない状況に気づく。
刃物で切られた傷が、右肩から左の腰骨まで斜めに切られていて止めどなく血が流れている。
「結月さんはここにある布を傷口に押し当てて血が流れいるのを塞いでいて下さい」
結月は慌てて側に置いてある布を数枚取り出して震える手で傷口を塞ぎ始めた。兵士は相変わらず痛みで暴れているのを数人の看護をしている者達が必死で押さえている。
「雅さんはどうされるのですか? こんな傷を治せる薬などあるのですか?」
結月がおろおろとしながらも雅を見ると、雅は箱の中から何やら色々と取りだした。
「わたくしはこれから怪我人の治療に当たります」
そう言うと雅は乾燥した葉を手に取って、それを鉄製の香炉の中に入れて火を着けた。すると香炉から盛大に煙が出て来た。
「あなた達はこの煙を吸わないように口を布で覆いなさい」
雅は自分も布を鼻と口に覆って後ろ手に縛り、香炉の煙を兵士に嗅がせ始めた。何をしているのか理解できない結月は口をポカンと開けて見ていた。
「ほら!、手を止めないで!」
「あ、はい、すみません!」
すかさず、雅の檄が飛び慌てて結月は手を動かした。すると、先ほどまで暴れていた兵士が急におとなしくなった。顔を見ると目がうつろになり、体全体がだらりとしている。
「消毒の酒を!」
看護の者が酒瓶を手に持って傷口に流し始めた。すると、雅は先ほど持って来た軟膏薬を手に取って傷口にまんべんなく塗った後に箱から針と糸を取り出した。
「それで何をするんですか? まさか!」
結月は驚いて雅を見た。
「そのまさかよ!」
雅は針に糸を通すと傷口を縫いだしたのだった。そのような治療法を結月は知らなかったので目を丸くしてその様子を見ていた。他の看護の者達も驚いた様子で見ている。すると縫われた傷口が糸によって塞がれて血が滲む程度になり、やがてそれも固まりだして完全に塞がれたのだった。それを見た雅はすぐに他の重傷の兵にも同じ治療を施して終わらすと、次々と兵達の治療に当たった。一緒に動いていた結月は何か不思議な者を見る目で雅を見ていた。たった十四の少女が、大量の血や泣き叫ぶ兵士達を見ても怯むことも無く懸命に治療をしているのである、それも今まで見たことがない治療法をしているのだから驚きだ。
やがて、薬草研究施設から候補生の者達が現れて大量の軟膏薬と傷を化膿させない飲み薬を持って来て、それぞれ手分けして怪我人に飲ませると、ようやく治療が終わり医師と看護をしている者達が一息いれる時間が出来たのだった。
「お疲れさま、大変だったわね~」
結月の側に安登が来て肩に手を置いた。
「いや~、もう、何が何だか……」
結月は事の顛末を安登に話して、傷口を縫った兵士を見せた。兵士はそのまま眠っている。
「何よこれ! 糸で傷口を縫っちゃったの? 雅先生が? 何でそんなことをあの人がしているのよ?」
二人で騒いでいると、その様子を見て衣麻呂が側にやって来た。
「何か兵の様子に問題でもあるのですか?」
「あ、いえ、この傷口の治療法を見てびっくりしまして。……こんな事をして大丈夫なのですか?」
結月が衣麻呂に疑問を投げかけた。
「ああ、これですか。実はこれ自体は昔からありましてね、普通の糸で縫うと傷口が膿んでしまって使えなかったんですよ。なので今までこの治療は行なわれていませんでした。それを雅先生が糸と化膿止めの薬を昨年開発してくれましてね、今年から雅先生だけですが、この治療法を実践しているのですよ」
「え、雅先生って薬師ですよね。 なんでそんなことまで?」
結月と安登は首をかしげて衣麻呂に尋ねた。
「雅先生は薬師の資格もお持ちですが、医師の資格もお持ちなんですよ」
「ええ!」
二人は思わず大声を上げて驚いた。
「私も最初に会った時は驚きましたよ。あの若さで二つの難解な資格を取得してしまっているのですから。まあ、間違い無く建国以来最高の天才でしょうな、彼女はそれを鼻に掛けること無く精力的に仕事をされている。週に二日は看護の者を伴って近隣の村々に行って診断を行なっているのですよ。しかも国の上層部に貧しい人達には無料で診断と治療が出来るように掛け合ってくれましてね、全く大したものです」
衣麻呂はそのまま感心した様子でうんうんと頷きながら歩いて行った。
「何それ、凄いのだけれど雅先生!」
「安登さんも知らなかったんですか?」
「私だけじゃなくて、薬草研究所の人は一人も知らないはずよ。診療所にいればすぐに分かるけど、そこにはいなかったのよ。……近隣の村々に行っていたのか。週に二日ほど出勤してこないのはそういう事だったのね」
二人はふと、雅の姿を探した。雅は糸と針を持って他の医師と何やら話し合っている様子だった。結月は改めて雅のすごさを実感したのだった。
やがて、怪我人の治療も看護の者だけで看ることになり、薬草研究所の候補生や医師達も自分達の職場に戻って行った。
「結月さん、私達も戻りましょう」
「あ、はい。これ私が持ちますよ」
結月は雅の持っていた医療用の箱を持つために雅に近づいて彼女の手をとった。その時、何故か雅はピクリとして動きが止まり、結月の顔を数秒間見つめていた。何か自分の内側を見られているような感じを結月は受けた。
「雅さん?」
「あ、何でもないですわ。行きましょう」
雅は慌てて首を横に振ると出口に向かって歩き出した。すると出口から、刀を腰に差した武人が数人引き連れてこちらにやって来た。そして、雅の前に来ると跪いて頭を下げた。
「本日は部下達の治療をしていただきまして、ありがとうございました。雅様の治療が無ければ命を落としかねない状態の者も数人いたと聞いております。部下達にはこれからの忠誠を一層高きものとするよう伝えたいと存じます」
いきなりのことで、結月は驚いて跪いている男達を見た。
「え? 雅様? あれ? 雅さん?
結月は男と雅を交互に見て慌てている。
「もう、ここではその言い方は止めなさい。皆が変な目で見てるでしょ! 大体あなたは将軍なのだから一介の医師に跪くのは止めなさい!」
雅も慌てた様子でその将軍を立たせようとしているが、将軍はぴくりともせずに頭を下げ続けている。
「一介の医師などと。ご自分を卑下なさるのはお止め下さい。姫はこの国でも大変貴重な存在なのですぞ」
「え? 姫? え~!」
結月は再び驚いて雅を見ると、彼女は頭を下げて右手の掌で顔を覆い、しまった、という表情をしている。
「ど、ど、ど、どういうことなんでしょうか?」
結月は引きつった顔で目の前にいる将軍を見た。
「何だ、お前雅様の下僕なのに知らんのか。雅様はこの彩の国の姫君であらせらるのだ、本来ならお前達一般の者には目に出来ない所をわざわざ降りてこられて、この国のために尽くしておられるのだぞ、光栄に━」
将軍が言い終わる前に、雅の両手は将軍の口を押さえた。
「いい加減にしなさい、これ以上言ったら許しませんわよ! お前達もいつまでも跪いていないで立ちなさい。どうするのよ、お前のせいでこの人にばれてしまってではないの!」
雅は真っ赤な顔をしてドスドスと音を立てて出て行ってしまった。結月はすぐに後を追った。
外に出ると、雅は馬車に乗らず通り過ぎて行き、尚も歩いて軍の施設から出て行ってしまった。
「あの、雅様!」
結月が先を行ってしまう雅に声を掛けた。雅はピクリとして歩みを止めた。
「結月さん。これから先、わたくしの事を姫と呼んだら……」
雅は向こうを向いたまま話している。
「……呼んだら?」
結月はちょっと嫌な予感が頭の上をよぎる。
「この国から追い出しますわよ! それと、このことは誰にも口外しては駄目よ!」
「え~! それはかなり困ってしまいます~。……あ、それじゃあこうしましょう!」
結月はニコリと笑うと雅の前に立った。雅は何を要求されるのか怪訝な表情で見ている。
「黙っているかわりに、私が薬師の資格を取るまで、ずーっと先生の部屋で働かせて下さいね」
結月の思わぬ要求に雅は呆気にとられていたが、やがて噴き出すと腹を抱えて笑い出した。
「あなた変わっているわね、年下である私の研究室で働きたいなんて。他の候補生はみんな嫌がっていたのに」
「おかしくないですよ~、先生みたいに優秀な人の下で働きたいと思うのは当然です!」
結月はちょっと膨れて雅を見た。
「……大丈夫よ、それはさっき分かったから」
雅はボソッと呟いた。
「へ? 何です?」
「分かったと言ったのよ。それよりも覚悟なさい、明日からもっと厳しく教えて行くからそのつもりでね」
「分かりました、何が何でもしがみついてやります!」
結月が返事をすると、二人で笑い出して研究施設までゆっくりと歩いて行った。空は赤く茜色に染まり少し寒い風が吹いていた。
後日、結月はいつものように雅の研究室で勤務をしている。いつもは厳しい顔の雅だが、今日は時折笑みがこぼれている。何か良いことでもあったのかと結月は聞いたのだが、その言葉に反応した雅は嬉しそうな顔をした。
「そう言えば、まだ言ってなかったわね。わたくし、三日後からしばらくお休みをもらうからよろしくね」
「え? しばらくって、どれ位休まれるのですか?」
「まだはっきりと分からないのだけれど、休むと言っても、この部屋には顔を出すと思うから。それにあなたにはたっぷりと課題を渡しておくから心配しなくても大丈夫よ」
「は、はあ」
嬉しそうに笑いながら、雅が言うのを、結月は不思議な顔をして返事をした。そして、その後も雅は時折笑みをこぼし業務をこなした。
そして、それは二日後に分かることとなる。
北平の国と彩の国の国境から西へしばらく行った所で、二人の武人がそれぞれ武器を携えて馬に乗り込みゆっくりと進んでいた。
「やっぱりこっちは風が冷たいな、外套を持って来て良かった。俺はいらんと言ったのだが、梶尚がうるさく言っていたのを素直に聞いて良かった」
阿縣刀良は一度鼻を啜ると顔を空に向けた。
「……これは何の毛なのだ、刀良」
いらないと言った後に「素直に聞いた」と矛盾している言葉に少し戸惑いながらも、千脇武彦は自分の体を覆っている毛皮を撫でながら刀良を見た。
「ん? ああ、これは熊の毛皮だ。あいつらが冬眠する前に随分と試し斬りをさせてもらったからな、いくつか作ってもらったんだ。お前は南の方で育っているから分からんだろうが、月芽の北側は結構寒いんだよ。真冬になると北平の国と、この彩の国は雪が降って移動が困難になる。だから、今のうちに此所と白羽の国の国王に挨拶に行くのだがな。しかし、助かったぜ、お前が白羽の国の国王と面識があって。俺一人ではいくら王族でもなかなか会ってはもらえないだろうぜ」
「武上の国と白羽の国は国王同士の仲が良くてな。俺もその時は第三王子だったので向こうとは良く行き来していたのだ」
北平の国は、隣の彩の国と十年前から同盟を結んでいた。彩の国には、数年前から刀良が梶尚を連れて毎年挨拶に出向いていた。その際の土産品は先に届けられて、後に刀良達が出向いている。
今回は武上の国が白羽の国へ突然攻め込んだと梟から報告が入り、それを聞いた武彦が、国王である真桑に手を組むように進言したのが始まりだった。白羽の国は月芽の中でも、経済や穀物の収穫などで一番豊かな国である。昔から中立の立場を取り、他国に攻め込む事はせず、交易を盛んにする政策をとっていた。その甲斐あって、切っても切れぬ関係を他国と結んでいる。
例えば、他国に対しての銭の貸し借りが上げられる。月芽では共通の銭が存在していて、それで交易を行なっている。むろん、金や銀なども取引の材料として使われてはいるが、希少性が高いためにあまり頻繁には使われてはいない。あまり作物の取れない北側の国では銭で南側の国から必要な作物を買い付ける、その際に白羽の国から一時借り受けて買い付けるケースがあるのだった。逆に北には馬の一大生産地があり、南には馬はほとんどいないので買い付ける際にやはり白羽の国から銭を借り受けて馬を買い付けるケースがある。
今回の武上の国の侵攻は恐らくその借金を反故にするために動いたのかもしれないと武彦は考えていた。一方的に攻撃を受けている白羽の国に手を差し伸べれば、後々北平の国に有利にはたらくはずであることを武彦は進言し、刀良と共に旅に出たのである。
前方に集落が見えてきた。古无呂村という。この村は宿が多く旅人の休息地となっている。この国には、多くの温泉郷があるので、他国から湯治に訪れる人も多く、その収益の金額も莫大なものになっている。薬と温泉のおかげでこの彩の国はかなり豊かな国に生まれ変わったのだ。 宿に到着した二人は旅の疲れを癒やすために、のんびりと湯に浸かっていた。
湯船は十畳ほどの大きさで、床の部分は滑らかな一枚岩を敷き。周りは様々な大きさの石を湯が漏れないように組上げられている。
「どうだ、初めての温泉は。なかなか気持ちの良い物だろう?」
刀良は一旦湯から出て、湯船の周りにある石に腰掛けた。
「この気温だからな、体が温まって気分的に良いな。南では逆に暑くて長くは入れん」
武彦は浸かっている湯を手ですくって顔を洗った。
「そうだろうな。俺は南側には行ったことがないが、夏などはどうなんだ?」
「蒸し暑いな。ジッとしているだけでも汗が噴き出てくる。調練などをしていると兵の何人かは必ず倒れる奴が出てくるほどだ」
「それは辛いな、俺は暑いのが苦手なんだ。南の攻略はお前に任せるかな」
刀良は苦い顔をして肩をすくめた。
「仮に白羽の国と盟約を結んだとして、最初の石門の国を制したら残りは南側の二国だ。お前がいないと話にならん」
「分かっているさ、言ってみただけだ。雪が溶けたら本格的に行動開始だ、頼むぜ武彦」
「ああ、幸い預かっている騎馬隊の調練は一通り終わっているし問題無いだろう。武上の国にいたときの騎馬隊よりもこちらの方の出来が良いほどだ」
「ほう、何が違うんだ武彦?」
「まず、馬の質が南側とは大きく違う。こちらは体は大きくて、走る速さも持久力も上だ。さすがだな、昔から月芽以外の国の馬を仕入れて、こちらの馬と掛け合わせただけのことはある。それと、北平の国の民は、子供の頃から馬に乗り慣れ親しんで来ている。南側は階級の上の者達を騎馬隊に編成しているからそもそもの始まりから違うのだ。これはかなりの差だぞ」
「その割には、お前の騎馬術はなかなかのものだぞ。俺達との差は全く感じない」
「俺は王族だったからな。子供の頃から乗っていたし、師匠が良かった」
「ああ、例の総司令官の男か。軍事面は全てその男から教わったのか?」
刀良は肌寒さを感じて再び湯の中に入った。
「いや、もう一人いたんだ。強烈な人物だった、剣術もほとんどその人の影響が大きかったし、軍学もあの男以上だった」
武彦は湯に浸かったまま後ろに下がると、背中に当たった石組に寄りかかって頭を上げた。空には多くの星々が光を放っている。
「そいつ、すげえじゃねえか。今でも武上の国にいるのか?」
「いや、あそこからは出て行った」
「もったいねえな、俺だったら放っておかないぞ」
「女性だったのだ。軍には入れんし、あの男とはソリが合わせなかった」
「なるほどな。ソリが合わんと言ったが、その男とは何か関係があったのか?」
「兄妹だったのだ。兄が軍で頭角を現すと仲が悪くなって出て行ったのだ」
「今は何をしているんだ?」
「全く分かっていない、消息不明だな」
「そうか、そう言う人材こそ、うちに欲しいのだがな」
「いない人間の話をしても仕方ない、そろそろ出よう刀良」
二人は湯から出ると体を拭き、脱いでいた着物を着ると宿の中に入った。通路を通り、客が出入りする玄関を抜けると自室に戻った。
翌日の早朝に二人は宿を後にして、目的地の鳳仙城を目指し出発した。風がやみ、比較的温かい日になっていた。少し馬の速度を上げて進んだ二人は夕刻になって鳳仙城に到着したのだった。
刀良は自分の名を名乗った。話が通っていたのか門番の兵は頭を下げて二人を案内し始めて城の門をくぐった。
「刀良様!」
抑揚のある大きな声で、一人の少女が刀良に駆け寄り、勢いよく抱きついた。
「おおっと! 久しぶりだな雅。相変わらず小さいな」
刀良は雅という少女の肩に両手を置いて笑った。
「もう。刀良様が大きすぎるのです! これでも昨年よりは伸びたのですよ」
雅は頬を膨らませて上目づかいで刀良を睨んだ。
「そうなのか、まあ許せ。それよりも俺達が到着したのが良く分かったな」
「勿論です。数日前から兵を配置させて見張らしていたのです。刀良様のことは逐一報告させていたので丸分かりでした」
私情で兵士達を使ったことに何の迷いも無く雅は笑っている。
「おい、おい。相変わらず無茶なことをさせるな。兵士をそんな風に使っては駄目だと言っただろ」
刀良は苦笑いを浮かべて雅を見ている。
「仕方ありませんわ。他ならぬ刀良様のことなのですから、許嫁として心配をするのは当然のことですわ。……あら、ご一緒に来られた方は梶尚ではないのね?」
雅が不思議そうな顔をして武彦に近づいた。すると、雅は右手を出し、武彦の頬に軽く触れて武彦の目をのぞき込んでいる。突然の雅の行動に少し驚いた武彦は、どうすれば良いのか分からずに目だけを刀良に向けた。すると、刀良はニヤリと笑うと、右手を上げて、そのままでいろという仕草をした。
「……あら? あなた、名前が二つあるのね。武樋と武彦どっちなのかしら。それと、その顔の傷は自分でつけたのね。……大変な思いをしてきたのね」
雅の言葉を聞いた武彦は驚きのあまり動くことが出来なかった。
「どうだ、凄いだろう。その娘は犬養雅と言ってこの国の姫君だ。俺達とは四つ年下でな、特殊な能力を持っている。雅は触れた人間の考えていることが分かるんだよ。俺も最初はビックリしたぜ、ガキの頃初めて会った時に『わたくしは小さくなどありません』と思っていたことを言われてな」
雅は手を武彦から話すと再び刀良元に走り、抱きついた。
「わたくし、この人のこと気に入ったわ。だって、刀良様と同じで裏が無いのですもの」
雅はニッコリと笑いながら顔を上げると刀良を見た。
「そうだろう? 俺が認めた男だからな、雅も気に入ると思ったぞ」
「これは、驚いたな、そんなことが出来るお方だとは」
武彦はようやく言葉が出て、雅を見た。
「彼は本当に正直な人なのね、刀良様に隠し事を一切してないもの」
雅は刀良に触れて、武彦と刀良の心の中を比べたようだった。
「ああ、そうだろうな。こいつはそう言う奴だよ。……さて、早いとこ、岩由様に挨拶に行かないとな、行くぞ武彦」
刀良は雅を連れて城の謁見の間へ向かって歩き出した。雅は刀良の左隣を歩いている。その右手はしっかりと刀良の袖を握っていた。
城の内部に入ると、突き当たりまで歩き、扉の前で止まった。扉の前にいる二人の兵士が頭を下げて扉を開けた。部屋の奥にある椅子に一人の男が座っている。見たところ四十代の中頃に見える。
刀良はその男の前まで来ると頭を下げた。後ろにいる武彦は跪いて頭を下げている。そして、何故か刀良の隣にいる雅も、ニコニコしながら頭を下げている。
「お久しぶりぶりです、岩由様。お元気そうで何よりです」
「これ、雅。 ふざけていないでお前はこっち来て座っていなさい」
犬養岩由は、娘の行動に困り顔で雅を見ている。
「嫌です! 許嫁の私が偉そうに座ってなんか出来ません。わたくしの位置はここで良いのです、刀良様とお会いしたのは一年ぶりなのですよ、実に一年ぶりです! 大体、父上が悪いのですよ、会いに行きたいから出かけようとすると、危ないから駄目だと、いつも止めるのだから」
「わかった、わかった、そのままで良いから少し黙ってなさい」
岩由は娘の癇癪が始まる前に慌てて雅を止めた。その後咳払いを一つすると刀良を見た。
「久しいな刀良。真桑殿は息災か?」
「はい。丈夫だけが取り柄なものですから、病一つしていません」
「そうか、では相変わらず戦では、先頭に立っておられるのだな、そろそろ息子に任せればよいだろうに」
「俺や家臣共がうるさく言ってはいるのですが、なかなか頑固な性格でして首を縦に振りませんよ」
刀良が苦笑いをして右手で後頭部をポリポリと掻いた。雅は相変わらず嬉しそうな顔で刀良の腕に手を置いている。
「まだ、お若いのだな。羨ましいことだ。話は変わるが、しばらくの間こっちでゆっくりしていられるのだろう? これから雪が降って行軍はできんしな」
「それがですね……」
「えー! 明日には出られてしまわれるのですか!」
刀良が何か言いかける前にかぶして、雅が大きな声で叫んだ。
「あ!雅、俺の心を読むんじゃねえよ!」
刀良は驚いて、雅の手が置いてある左手を払った。
「だって、どれ位こっちにいられるのか知りたかったのですもの。それにしても明日出られるとは一体どういうことですの?」
「し、仕方ないんだよ、ちょっと事情があってさ」
刀良は雅に詰め寄られて困っている時、後ろから武彦が近寄って来て、手に持っているのを刀良に見せた。
「ああ、そうだった。岩由様、真桑からの親書を持って来ているのです、お読みいただけませんか」
刀良は後ろにいる武彦から書状を受け取るとそれを雅に渡した、
「何ですのこれ?」
雅は頬を膨らませながら渡された書状を見た。
「大事なことなんだ、岩由様と一緒に呼んでくれ」
少し納得出来ないと言う顔を雅はしたが、受け取った書状を持って父王の元に行き書状を渡した。
岩由は受け取るとすぐ書状を広げて読み始める。すると、すぐに緊張した表情に変わってしばらくの間黙って読んでいた。雅も真剣な顔になっている。
「……なるほどな。雪が溶けたらいよいよ、打って出られるのか」
「はい、こちらの準備は整い、後は進むだけです」
岩由が宙をしばらくの間睨んでいた。
「まあ、以前から真桑殿と話はしていたからな。問題はすぐ南にいる白羽の国だ、あそことは良い関係を続けてはいるが、こっちの戦力が減っていたら黙ってはいまい。それはどう考えてあるんだ?」
「それをこれから白羽の国へ赴いて話をするのです。あの国は現在、武上の国が国境を侵し始め少なからずも攻撃を受けています。そこで、岩由様の軍に動いて頂き、白羽の国と一緒に武上の国の軍を止めておいて頂きたいのです」
「そうか、その間に貴国は石門の国へ攻め入ろうと言うわけだな」
「白羽の国も単独で戦うよりは、貴国と結んで戦う方が良いはずです。それを、これから俺達が赴いて説得しに行くわけです」
「ん? 俺達だと? 後ろの男は何者なのだ?」
岩由が怪訝な表情をした。刀良が武彦の紹介をしようとしたのだが、その他の家臣達の目を気にして一瞬話すのを躊躇した。それは武彦が武上の国の間者ではないかと疑われるのを考えたからだった。しかしそれを見て、雅が父王の耳元で何か囁いた。
「……なるほど、あの村国の。そうか、そうか、それならば納得だ。分かった、ならば今すぐ向こうの国王宛てに親書を書こう。後は婿殿に任せるぞ」
岩由が納得した顔をして刀良と武彦を見た。
「ありがとうございます。明日、ここにいる武彦と一緒に説得しに行って参ります。説得が終わりましたら、報告に参りますのでよろしくお願いします」
刀良と武彦は同時に岩由に頭を下げた。
「いやですわ父上、婿殿なんて! まだ私は嫁いでないのですよ~」
雅は嬉しそうな顔をすると、頬に手を当てて一人で喜んでいる。
「分かった。では、こちらもいつでも出られるよう兵の準備を急がせよう」
岩由は家臣の一人を呼ぶと何か指示を出している。しばらくそのやりとりが続き、その間刀良と武彦は下がって様子を見ていた。すると、雅は小走りで刀良の側に来て嬉しそうに何か話をしている。
岩由が家臣達との話を終えると、二人は頭を下げて謁見の間から退出した。刀良と武彦はそれぞれの部屋を案内されて、しばらくの間部屋でのんびりと過ごした。
雅は刀良のいる部屋に入り、夕食から就寝まで刀良の側にくっついていた。その明るい声や笑い声は、隣にいる武彦の部屋まで聞こえるほどだった。
翌日の早朝、刀良と武彦は国王の岩由に出立の挨拶に出向いた。その際に岩由から白羽の国の国王に宛ての親書を手渡された。岩由は何故か少し気分が落ち込んでいる様に見えて、最後には『面倒かもしれんが、後は頼む』と言って二人を見送った。
二人は城にある厩に向い、それぞれの馬に荷物を載せると城の出口まで引いて歩いた。やがて出口付近が前方に見えてきた時に、何やら見覚えのある姿が見えてきた。外套を身につけて、何処から見ても城下町の町娘に見えるが、ニッコリと笑いこちらに向かって大きく手を振っているのはまごう事なき雅の姿であった。
「二人共遅いですわ! 女子を待たせるなんて失礼です」
雅は腕を組んで頬を膨らませると、二人をジッと上目遣いで睨み付けた。
「朝起きてから今まで、どうも姿が見えないから、どうしたのかと思っていたが、民が着る外套を身につけて、ここで何をやっているんだ雅?」
「何をではありません。驚かそうと思って、早くからここで待っていたのですよ」
「見送りならば、城の出口でも出来るだろう」
「見送りではありません、ほら、早く馬に乗せて下さい」
雅は当たり前の様な顔をして、両手を上げると馬の左横に移動した。
「なに? お前も行くつもりなのか?」
「当然です! 折角刀良様とお会いしたのに、一日だけで終わるなど私が納得できません。ならば、私も旅に同行すればその不満は解決いたしますわ」
雅は自信満々で刀良を見上げてニコリと笑った。両手は上げたままである。
「国の代表として俺達は行くのだ、遊びに行くのではないんだぞ。しかも、馬車や供の人達もいないじゃないか、これでは安全が保障できん、駄目だ!」
刀良は言葉を少し強めに話して雅を見た。
「嫌です! 父上の親書を、娘である私が直接向こうの国王に手渡せば、充分に国の代表としての役割となりますわ」
「だって、岩由様がそんなことを許すわけないだろう。黙って行くのは絶対に駄目だ!」
「あら? 父上には頼んだぞと言って頂きましたわ」
「なに! あの岩由様がそんなことを言ったのか、一体どう言うことなんだ?」
「簡単なことですわ。以前から父上にちょっと触れさえすれば、弱みの一つや二つ簡単に引き出せますわ! さあ、早く乗せて下さい刀良様」
雅はコロコロと笑うと、今だ両手を上げて、自分を持ち上げるように催促をした。
「面倒かもしれんが後は頼んだぞと、何やら意味深しげに言っておられたのは、このことだったのか。 ……うむむ、どうすっかな」
刀良は右手で顎のあたりを撫でながら黙ってしまった。
「良いではないか刀良。確かに国王の娘である雅殿がいてくれた方が親書も渡しやすいし、お前が雅殿と離れずにいれば問題無かろう」
武彦が二人のやり取りを見て、苦笑しながら雅に助け船を出した。
「まあ! さすがは武彦殿、刀良様は実に良い友をお持ちですわね。さ、さ、刀良様早う出かけねば日が暮れてしまいますわ」
「仕方ねえな~、雅は一度決めたら何を言っても動かないからな」
そう言って刀良は雅の両脇を手で添えると、上に持ち上げて馬の背に乗せた。雅は嬉しそうにニコニコしている。
「では、行くとするか!」
刀良と武彦は馬に乗り込んで南に向かって馬を並足で動かした。空は澄んでいて冷たい風が吹き抜けていたが、雅の明るい笑い声が辺りに響いていた。