1:梅雨が終わり 、 【6月29日 朝】
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考えてみればあの日が、一見すると何もなかったようなあの朝が、この大きな奇跡の始まりなのでしょう。前日に降った梅雨の雨が濡らしたアスファルトが、陽に照らされて、独特な匂いを放していたのを覚えています。思わず地面を見ると、水溜りに映る私が見えました。
「ごきげんですね、きせきちゃん」
雲1つない青空を背景に微笑む私に、私は言いました。こんなに空が青いのはいつぶりだろう、と思わず空を見上げました。太陽が目に入る。眩しい。思わず手をかざして目を閉じます。ああ、この、ちょっと蒸し暑いけど爽やかなこの感じ。そうです。夏が来たのです。
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この辺りで自己紹介をしておきましょうか。私の名前はきせきです。平仮名3文字、き、せ、き。覚えやすいでしょう?でもこの年…14歳にもなって奇跡なんてないんじゃないかな、と思い始めました。ジャンケンにはよく負けるし、勉強しなければ赤点はとるし、病気で弱っていたお母さんは死んじゃうし、お父さんが生き返ることもありません。世界中を探しても、奇跡なんて存在しないのではないでしょうか。それなのになぜ、お父さんとお母さんは私に、こんな名前をつけたんでしょう。小さい頃に一度聞きましたが、忘れてしまいました。今となっては永遠にわかりません。残念。
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私は夏が好きです。なんでかはわかりませんが、とっても好きです。だから、今日はとっても上機嫌です。いつもよりさらに軽い足取りで、通学路を進み、校門をくぐり、靴を履き替えて階段を登り、廊下を曲がって教室のドアを開きます。居るのは夏希だけだったので、大きな声で言います。
「おっはよーっ、元気ー?」
「おはようきせきちゃん、ごきげんですね」
中から夏希が言います。私は思わず吹き出します。
「え?なんでよ?うち変なこと言った?」
夏希が怪訝そうな顔をします。
「ちょっとね、デジャブでね。」
「なんの話だか…。きせきちゃんは元気ね。こっちは暑くてしょうがないってのに…」
夏希は椅子に座りながら、机の上のノートで大げさに自分のことを仰ぎ始めました。
「ちょっとなっちゃん、ずるい。」
「なにそれ」
「私のことも仰いでよ」
「なんでそんなことしなきゃならんのよ」
「私も暑い」
「うちも暑い」
「私の方が暑い」
「はいはい」
「わかればいいのよ、わかれば」
私は教室に入ろうとしますが、後ろから声がします。
「あっちいぃー」
私は振り返って答えます。
「どっち?」
声でわかっていましたが、そこにいたのはみことでした。
「あ?」
「い?」
みことは私の前も、私の渾身のギャグも通り過ぎて教室に入ります。
「おっすみこと、おはよ」
「お…はよ」
みことの声が裏返ったのを、私は聞き逃しません。
席に座ったみことに私は近づき、
「みことちゃんって、なっちゃんのこと好きでしょ。」
「はあ?」
「はあ?」
夏希とみことが同時に言います。
私はいいます。
「冗談。」
「だよな」
「だよね」
またしても同時。
「二回連続でハモるなんて、アッツアツなカップルさんですねぇ。暑くて火傷しそう。アッチッ」
「どっち。」
「どっち。」
降参です。