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かぎろい

作者: 朱里 由布

 ジリジリッ─と照付ける。

 時刻は夕方へと向かっている筈だが、気温と日差しは一向に緩む気配が無い。お盆を過ぎたと云うのに、夏は依然頑に居座っている。だが――少し気を付けて辺りを見回していると、其処彼処に秋の気配が感じられる。

 自然の中では季節の訪れを、都会よりも人は敏感に感知するのだろう――私は人気の無い山路で辺りを見渡し、ふっと思った。



 ――あれから一年……。

 私は今朝からこの言葉を反芻していた。

 この数ヶ月、あの事件の事は忘れようとしていた。忘れられぬ事は解っている。だが考えても、どうしようも無い事のように思っていた。


 だから……


 だから、あの日から私の時間は止まってしまったのだろう。それで良いのだと思っている。否、良いと思って頑に目を背けていた。


 だが――あの手紙。


 其は、あの時の彼からだった。

 あの日――


 そう、私の時間が止まったあの日。目の前の彼は真っ直ぐに事実と向かい合っていた。私が背き続けている現実に――私は彼の顔を思い出す。だが、浮かぶのは悲しげな光を湛えたあの瞳だけだった。もしかしたら、彼は泣いていたのかも知れない。今になってそんな事を思う。


 ─此方に戻られては如何でしょうか。

 貴方の人生をこのまま留め置く必要はありません。 あの人も、貴方の事を大変気に掛けていましたよ。


 時候の挨拶と共に添えられた、たった三行の文。私は逃れた筈の呪縛に捕われた。


 あの人――そう、あの女性。彼女の人生を破滅へと向かわせる一部分を担ったのは、紛れもなく私だろう。だからこそ全てを置き去りにして此処まで逃げてきたのだ。


今さら戻れる筈がない。今さら戻る場所も、そして……度胸も無い。私は弱い人間だ!だから此処に来たんじゃないか!!実を云うとこの世からも逃げたかった。だが私は、其すらも実行に移す度胸は無かった。そして当ても無くこの地に留まっているのだ。



『だから、何を無くしたと言うのですか?』

 トボトボと山路を歩いていると、突然前方から若い男の声が聴こえてきた。その声へと視線を向ける。声の主は派出所の警官―羽山だった。どうやら向かいの女性に対して発っせられた言葉らしい。どうにも頼りがいの無い若い警官は、それでも真剣に女性の話を聴いているようである。


 私はこの様子を遠巻きに眺めていた。この女性は一体、こんな場所で何をしているのか?と思う。どうも土地の者ではないらしいと一目で察しが付く。土地の者ではまず見る事の無い色白の肌――それは遠目からだと本当に透けてしまうのではと思う程である。そしてその身体には、これまた肌にも負けず透明感のあるワンピースをふわりと纏っている。よく見るとこの女性は何も持っていなかった。

旅行なら大きなカバンを持っていてもよさそうなものだろうに、彼女は手ぶらである。と云うことは近辺の宿屋に宿泊しているのか――将又親戚でもいるのか――などと、その二人の様子を眺めながら考えていた。



突如、私の視界に女の顔が映り込んできた。気付いた時には彼女の目線と私の目線は合致してしまっていた。正しく、してしまったと云う表現が心情を表している。慌てて地面へと顔ごと反らす。どきどきと心臓が大袈裟に鼓動する。

『先生じゃないですか。センセイ。』

 彼女の視線の先に居る私に気付いた羽山が此方に呼び掛ける。

 嗚呼、どうも――と、私は挨拶にならない言葉をやっとの思いで吐き出した。 センセイ――この呼び掛けは私にはとてつもなく厭な言葉である。以前より再三訂正してはいるが、羽山は一向に改めてくれない。だって先生だったのだから良いじゃないですか。とまで云ってくる。

 私は――私は確かに教師だった。否、教師だ――が正しいのか……一応は現在進行形ではある。だが、この一年教壇に立ってはいない。学園にも行っていない。名目上は体調不良による長期休職となっているが、多分二度とあの場所へは戻れない事は解っていた。


 あれから一年……。


 センセイと呼ばれる度に、私の時間が止まったあの場所へと引き戻されそうになるのだ。

 先生どうしたのですか?呆然としている私に羽山は問掛ける。

 否、何でもないよ。現実世界に引き戻された私は動揺を隠す為に、どうしたんだい?と問い返した。

 それが――羽山は頼りない顔で眉間に皺を寄せ女へと目線を向ける。女は嗚呼と小さく声を発し首を縦に小刻みに振った。



『つまりこの人はその……なんだろう。ご自分の若さを盗まれた――と。』

 そう云うことですね?私は女に確認の問いをした。その問いに、そうです……だから取り返して下さいと必死な表情で迫る。私は失礼を承知でジロジロと女を観る。だが私が見る限り、この女性は二十歳を少し過ぎた、十代と云われればそうにも見える程に若い。だから私は有りの儘をこの女に云った。

『確かに私は二十一歳です。しかし良く観て下さいこの身体を……私はもう死する運命なのです!』

 あの男が私の若さを盗んで行ってしまった――視線を手元へ落とし悲壮感を湛えた表情をしている。私は羽山を見る。この若者も相当困っていたのだろう。情けない顔が余計情けなく変化している。私は羽山から顔を反らし、ため息を深々とつき女に視線を戻す。『その男とはいった――』

 云い掛けた私の腕を女は突然掴む。驚いた私は我が腕に食い込む女の白い手を凝視した。艶やかな手が力を込めている為に、関節が余計に白くなる。だが次の瞬間……女の手が……艶やかな手が――見る見るうちに醜い形相へと――


 嗚呼。老いて行く――


 私は驚き、畏れ戦く。そして視線を上げる。


 ――女の顔へ。

 其処には先程までの張りのある皮膚に覆われたあの若い女性の表情は無かった。其処には――


 アアアァァァァァァ。

 私は声にならない悲鳴を上げた。後退ろうとするが腕を掴まれて思う様に動けない。振り払おうともがくが、女の手は離れない。


『駄目じゃないですか。お離しなさい。』


 女の後方から、良く通る声が響いた。女は私を離し、声の方へ振り向く。私も釣られて声の方へと顔を動かす。『あっ。貴方……』

 其処には初老の男が佇んでいた。女は初老の男の羽織の襟元を掴み大声で喚く。


 返して!返してぇ!あれは嘘。嘘嘘嘘嘘嘘。悪い冗談だったのよぅ――お願いよぅと泣いて懇願している。

 初老の男は女の両手首をむんぎゅうと掴み蔑みの眼差しを向け冷酷に云った。

『私は云ったではありませんか。後戻りは出来ませよと。貴方は構わないと承諾しましたね。もう遅いのです。諦めなさい――』

 最後の一言は氷よりも冷たく、鉛よりも重く感じられた。その様子を間近で凝視していた私に気付いた初老の男は、ほんの僅かに唇の端を吊り上げ此方に鋭い視線を向けてきた。

『貴方は一体誰ですか?その女性に何をしたのです?』

『何故、そんな事に興味が?嗚呼、貴方も彼方に逝きたいのですか?』

 初老の男は愉しげに云った。私は酷く狼狽する。彼方の――とは彼岸のことか?なら、この男は死神なのか?

『いいえ。私は死神などではありませんよ。そんな大それた者では無い。』

 只、少しお手伝いをするだけです。私の心を見透かしているのだろうか。初老の男は更に言葉を続ける。

 簡単ですよ。同意さえすれば良い――初老の男の言葉に私はすっかり動揺する。


 そんなに簡単に彼岸へと……

 私は男に一歩近付く。

 と、強烈に逆方向へと引っ張られる感覚で咄嗟に私は後ろへ振り向く。其処には――


『辻本さん。』

 其処には、手紙をくれたあの彼が私の袖を掴みにこやかに私の名前を呼んでいた。

『辻本さん、お久しぶりですね。間に合って良かった。さあ、帰りましょう。』


 最後の言葉と共に、彼は一瞬私の背後に哀しみの籠った視線を投げ掛けた。

 間に合った?間に合ったとはどういう事か?私は何の事か解らず、あの女性――と言いながら振り返った。

 しかし……さっきまで居た筈の女も初老の男も居なかった。辺りを見渡すと、羽山がぽつねんと佇みいぶかしげに私を観ているだけだった。


 辻本さん――

 私は再度呼ばれ振り向く。にこやかに笑う彼――堂元が立っていた。さあ、貴方の時間を動かしましょう。

 こうして私は、一年前に居たあの場所へと戻る事となったのだった。


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