1.要塞の贄と、狼竜遣いの将軍
聖ザーナノード暦825年。
国境近くの山脈にそびえたつ国内最大の防衛拠点、ホノアステン城。
人呼んで「天空要塞」。あるいは「渓谷の砦」。
その堅牢な城が、今、隣国からの襲撃を受けていた。
石造りの光塔から襲撃を示す鐘が響く。鬨の声と悲鳴が上がる。
組み上げられたばかりの投石器が、号令とともに大岩を打ち出す。強烈な衝撃に、どぉん、と城壁が大きく轟く。粉々に砕けた大岩が砂塵となって、周囲一帯にもうもうと舞い上がる。
――それを引き裂く、黒い影。
「魔獣だ!!」
城壁の上から、贄の誰かが叫んだ。
地上で交戦中の翼なき人間をあざ笑うかのように、その黒い生物は、拓けた空中で悠々と翼を広げた。城壁に沿って、速度を増しながら急上昇し――黒い化け物は、城壁の上に立ち並ぶ、簡素な長衣を着た痩せぎすの少年少女にまっすぐ向かっていく。人間の体温と動きに反応して見境なく襲いかかる魔獣。
一匹目が城壁の上まで辿りつき、並べられた餌に大口を開けてばくりと喰らいついた。かろうじて難を逃れた数人が、翼が起こす突風にあおられて、城壁から次々に落ちてゆく。
飢餓寸前の細い首にゆるく巻かれた、従属の紋が刻まれた飾り紐の先端がひらひらと揺れる。供物の証だ。彼らは、この要塞の最前線の守りを担う、最下層の被差別民。異形を城内に入れないための、時間稼ぎとしての、生贄だ。
強襲の打撃音に混じり、風に乗ってかすかに響く、彼らのか細い歌声。勝利を希う、力なき贄の声。
――迎撃の女神のご加護があらんことを。何卒、我らにお導きを。
古代ザーナノード語で紡がれる、そんな変哲もない歌詞だ。
……竜の姿はまだ、ない。
***
ごう、と猛烈な上昇気流。
突然の風に贄たちがよろめく。端から順に、次々と舞い上がる、鮮やかな紅い飾り紐。
待ちわびた『導きの風』に、彼らの強張りきっていた表情に安堵の色がにじむ。
空気を振るわせる咆哮。一足飛びで城壁を駆け上がってきた一匹の狼竜が、大きな翼をばさりと広げて空高く舞い上がる。その姿が城壁にぽつりと影を落とす。
「待たせたな」
その広い背中から、男の、芯のある静謐な声。濃紺の長衣が上昇気流に大きくはためく。
「ギンレークさま!」
頭上を見上げた贄たちが興奮気味に、その狼竜遣いの名を呼んだ。本来、暖機に相当な時間がかかるとされている狼竜を数分もかからぬうちに巧みに操り、いつもいの一番に駆けつけてくれる、その頼もしく強い、名将軍の名を。
下降してきた狼竜の鋭い咆哮。周囲の空気がびりびりと震え、それにひるんだ黒い魔獣が一瞬、動きを止める。
――それだけで、決着はついた。
二匹の獣がすれ違う。狼竜の鉤爪と牙が日の光に煌いた。
「――まず、一匹目」
男が低く呟き、片腕を振り上げる。
失神した黒い獣は、ぎいぎいと苦しげな悲鳴をあげながら、なすすべもなく谷底に落ちていく。
そうして戦場に踊り出た絶大な人気を誇る将軍ギンレークに、わっと目に見えて士気の上がる味方側と、酷くおののく敵陣。
一匹の狼竜は、その喧騒の上を、ただ悠然と滑空する。
2016/8/17 絵追加
作業BGM:SKY-HI(絵)




