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束の間、二人の間に言葉はなかった。
グレンとは長い付き合いのフィリアだが、とっさに返せる言葉がなかったとも言える。
グレンが幼い頃からフィリアを守ろうとしてくれていた事は知っている。
子どもの頃のグレンはどちらかというと大人しいというか、相手に譲ってしまうところのある子だったが、フィリアが本当に危険な目にあいそうになると、小さな身体で精一杯庇ってくれていた。
腕白な子どもだったフィリアの後をついて歩く姿は過保護な弟のようだった。
過保護な弟というとおかしな言い回しだが、兄というには頼りなかったので、弟という他ない。
フィリアも、グレンがいるなら大丈夫、という安心感があった。
グレンと婚約する事になって、一生一緒にいられると聞いた時は、すごく嬉しかった。
この先なにがあっても、グレンと一緒なら大丈夫だと思えた。
幸せな未来が消えてなくなってしまうなんて、思ってもいなかった。
聖女になったフィリアにも、グレンは付いてきてくれた。
王宮に召し出され、知らない大人たちばかりで不安がるフィリアの手を、ずっと握ってくれていた。
それでも、子どもの時代は終わる。
グレンが勇者に選ばれた時、離れていても、絶対にフィリアを守ると約束してくれた。フィリアは無邪気にそれを信じた。
その約束が、グレンの身を危険にさらすとは思ってもいなかった。
旅に出てから、勇者の噂はよく聞いた。
虐げられている人々を助けた、魔族を倒した、街を解放した、などなど。
さすがグレンだと思った。誇らしかった。
それでも時折、勇者が怪我をしたとか、勇者が死んだという噂を聞いた。
心臓が止まってしまうかと思った。
グレンだって不死身ではない。フィリアとの約束が、グレンを殺してしまうのではないかと思うと、とても恐ろしかった。
フィリアは、グレンに頼ってはいけなかったのだ。
勇者が死んだという噂を聞いて、一晩中慟哭したフィリアは、一人で立つ事を決めた。
無謀でも、溢れ続ける瘴気を全て浄化しよう。
そして、今度はフィリアがグレンの力になるのだ。
不思議と、フィリアはグレンが生きていることを確信していた。
その確信は当たり、数日後には勇者の無事が伝わってきた。
一人で立つ事を決めたフィリアだが、浄化の旅は過酷だった。
なにせ、代わりがいないのだ。
仲間達はフィリアを気遣い、助けてくれたが、誰も彼女の代わりは出来ない。
力を使いすぎ、疲れ果てても、溢れ続ける瘴気はフィリアの回復を待ってはくれなかった。
来る日も来る日も、瘴気の影響で奇形となった人々の遺体を弔い、凶暴化した魔物と戦い、終わりのない浄化を続ける日々は、辛く、何度も心が折れそうになった。
どんどん心が空虚になっていった。
空っぽになっていく心の中で、グレンだけが唯一の光だった。
でも、そんな日々はもう終わったのだ。
他ならぬ、グレンが終わらせてくれた。
ここは安全で、グレンが心配するような危険はない。
旅の仲間の事も。グレンが心配するような事はなにもないのだ。
だがそれを指摘しても、いまのグレンは聞き入れないだろう。
昔からそういうところがあった。自分が正しいと思うと人の話を聞かないのだ、彼は。
グレンの言い分は目を覆うほど身勝手なものだった。
しかしこれはいい機会だとも、フィリアは思った。
彼に旅の仲間と別れて欲しい。
旅が終わり、フィリアに旅の仲間が必要ないように、グレンの旅も終わっているのだから。
「グレン様。私の旅の仲間に言う前に、貴方の旅の仲間におっしゃってください」
「なにをだ」
「お別れを。旅の仲間はもう必要ないのでしょう」
もう危険はないのだからと、心を込めて言ったつもりだったが、案の定、グレンには伝わらなかった。
「フィリアのことは俺が守るんだから、彼らと別れるのは当たり前だろう。俺の仲間達とは違う」
なにが違うのだろう。
「違うと、思いたいだけではありませんか」
「どういう意味だ」
違わないのなら、グレンも旅の仲間と別れるしかない。
違うという事にすれば別れずにすむ。
つまりグレンは、婚約者としてのフィリアを束縛しながら、自分を甘やかしてくれる女達も手放したくないのだろう。
これではらちがあかない。
フィリアは爆弾を投げつける事にした。
「グレン様。彼女達と私のどちらが大切ですか」
「どちらも大切に決まっている。フィリアは守るべき存在だし、彼女達は共に戦う相手だ」
「ではどちらかを選べと言われたらどうします」
「選べるはずがない。愛情の種類が違うんだ」
「それでも選ばなければならないとしたら」
「どちらも選ぶ。大切なものを守る覚悟はしている」
「それは、貴方の我侭です」
フィリアはあきれ果ててため息をついた。
グレンを嫌いになりそうだった。
「貴方がおっしゃる事は、貴族として褒められた言葉ではありません。勇者だから、ご自分が特別だと自惚れているのではありませんか?
私は、聖女としての務めを終えたら、伯爵令嬢のフィリアに戻るつもりです。ただの伯爵令嬢に勇者は必要ありません」
「なにを言っているんだ」
「貴方が我侭を通せる勇者でいたいというなら、私には必要ありません」
話しかけないで。
お別れしましょう。
貴方は必要ありません。
話す度にフィリアの態度が頑なになっていく理由が、グレンにはわからなかった。
グレンはただ、フィリアに自分以外の男と親しくしないで欲しいと言いたかっただけなのだ。
困り果てたグレンは、フィリアを抱きしめた。
女は怒りっぽいが、こうすれば怒りをおさめてくれる。
旅の途中でも仲間と喧嘩をする度、こうして仲直りしていた。
言葉にしがたい衝撃が股間に走り、グレンはフィリアを放して悶絶した。
「グレン。貴方が馬鹿なのはもう仕方ありません。私の目につかないところで生きてください」
「フィリア。待ってくれ」
股間を押さえて床に這い蹲りながらも、グレンは痛みを堪えてフィリアを縋るように見た。
「貴方との婚約を解消します。二度と姿を見せないで!」
フィリアはグレンに対して好き放題言っているようでも、これまで我慢してきた。
でも我慢にも限界がある。
女を束縛して男の我侭ばかり押し付けようとするグレンの全てが許せなかった。
かつてのフィリアなら、貴族の娘として夫に従うように躾けられた少女だったら、諦めてグレンと結婚したかもしれない。
しかしこの二年、フィリアに求められたのは唯々諾々と運命に従うのではなく、運命を切り開く力だった。
そしてフィリアの側には、彼女を尊重してくれる仲間達がいた。
さらに聖女として帰還したフィリアには、いくつもの選択肢がある。
我侭ばかり押し付けてくるグレンは、フィリアにとってゴミのような存在になっていた。
捨てることに戸惑いはない。
そう思わなければ、怒りとその他諸々のぐちゃぐちゃした感情が溢れ、泣きそうになる自分を止める事が出来なかった。
この王宮でそんな醜態を晒せば、権力者達の思惑に、グレンもフィリアも飲み込まれてしまう。
グレンの馬鹿!
グレンよりいい男はいないかもしれないけれど、グレンより素敵な人はたくさんいるんだから。
グレンなんか、大っ嫌い!!
帰国してから我慢を重ねていたフィリアは、ついに爆発した。
それを、物陰から見ていた人物が二人いた。
言わずもがな、隣国の姫であるエリスと、北の神殿の神官ナルスである。
「いやぁ。清清しい暴走っぷりですね。
彼には出来る限り走り続けて貰えると、助かりますね」
女なら誰もが見惚れるような優しい笑顔を浮かべているナルスの横で、エリスはさすがに引いている。
「貴方、聖女様の味方じゃないの」
「勿論、彼女のことは大事に思っています。だからこそ、彼は彼女には相応しくないと思いませんか」
まぁ、客観的に見て、グレンがしている事は、エリスでも当事者になれば付き合いきれないかもしれないと思うような暴走っぷりだった。
「姫も、その方が都合がいいのではありませんか」
「それはそうだけど」
勿論、グレンが婚約者と別れてこの国も出てくれる方がエリスとしては都合がいいのだが。
好きな女に嫌われ、あそこまで情けない姿を晒すグレンを見ると、さすがに喜ぶより同情してしまうエリスだった。