第三章
* 約三か月前 *
ある、スナイパーライフルのスコープ越しと思われる視線が、三十代半ばと思われる一人の男性の姿を追っていた。ビニール袋を片手にぶら下げコンビニから出てきたところである。黒ぶちのダッサダサの眼鏡をかけており、無精ひげをたくわえている。風呂に入っていないのだろうか、その顔面は脂ぎっており、ボサボサに伸びて後ろで乱暴に縛ってある頭髪もテカテカと異様な輝きを放っていた。
男はそのまま住宅街を徒歩で歩き続け、とあるボロアパートの階段を上り、二階のある一室の玄関ドアの前で立ち止まった。そしてズボンのポケットから鍵を取り出すと、ドアを開け中に入っていった。しかし男は気づかなかった。ドアが閉まる直前に、一本の糸状のマイクロカメラがドアとドア枠の隙間に挿入されていたことに。
男の名前は真田アキラ。純平の母親の実弟、つまり母方の叔父である。
アパート内の間取りは2DKになっており、彼は玄関ドアを開けてすぐのダイニングキッチンにあるテーブルの上にコンビニの袋を放り投げ、その中からタバコの箱を二つほど取り出すと、片方の居室に入っていった。そしてその室内にあるパソコンのモニターの載ったデスクの前に座りヘッドセットを装着した。
その後しばらくして、玄関ドアのロックが小さくカチャリと音を立てて解除された。ヘッドセットをしていたためか、彼がその音に気づくことはなかった。そのドアはひっそりと開けられ、数秒ほど開け放たれたあと、再びひっそりと閉じられた。この間、ドア以外に人間に視認できる動く物体は存在しなかった。たとえ近隣の住人が彼の部屋の玄関ドアが開くのを見ていたとしても、単に彼が内側からちょっと開けてまた閉めた、くらいにしか思わなかっただろう。
彼はオンラインFPSゲームに興じていた。「コール・オブ・バトルフィールド」――通称CoB――である。昼間だというのにカーテンが締め切られた部屋は薄暗く、中にいる人間に時間の感覚を失わせるには十分だった。
彼が向かっているデスクに載せられた26インチほどの液晶ワイドモニターの画面には中東らしき戦場の模様が映し出されており、モニターの乗っているデスクの上にはたばこの吸殻であふれた灰皿が三つも並んでいた。彼はヘッドセットのマイクに向けて常に何かぶつぶつと呟いており、その目は一心不乱に画面に見入っていた。
やがて彼はだんだんと奇声を発するようになった。ゲーム内での戦況が思わしくないらしい。奇声とともにいらだったようなセリフを喚きはじめ、やがてモニターの画面が戦場の様子からスコアボードのようなものに切り替わったとき、彼はヘッドセットを床に叩きつけ、椅子から立ち上がって吐き捨てるように言った。
「ムッキー!」
そして何を思ったか、「ムッキキムッキ♪ ムッキキムッキ♪ ムキッキムッキ♪ ムキッキムッキ♪」と歌いながら奇妙な踊りをし始めた。その奇怪さは見ている者を激しく混乱させるほどの十分な破壊力を持っていた。彼はその踊りを続けたままダイニングキッチンの脇にあるトイレのドアを開け、中に入っていった。
そのとき、パソコンのデスクとは対極にある部屋の隅の何もない空間から、ある少女が姿を現した。それはタイトに体にフィットした隠密行動用スーツ――衣擦れの音を極限まで抑えた無音服――に身を包んだ仙道マリだった。
その表情は唖然としており、状況を把握できずに混乱している様子で、呟いた。
「ム……ムッキキ?」
彼女の脳細胞は彼の生活ぶりや奇妙な踊りによって激しく揺さぶられており、自分の頭上に『ステータス・こんらん』の文字が浮かんで回転している錯覚に陥っていた。
アキラがトイレから戻ってきて再びパソコンデスクの椅子に座ったが、パソコンの位置から対極に当たる位置に立っていたマリに気づくことはなかった。
彼女は彼の背後にそっと近づき、なるべく驚かさないようにその肩に手をかけようとした。
「え!?」
しかし、肩に手が触れるよりも一秒ほど早く、アキラが驚いた様子で振り向いた。
「え!?」
手が肩に触れる前に振り向かれたマリも驚いた。
「ええ!?」
アキラは椅子の背もたれにのけぞって大袈裟に驚いた。
「ええ!?」
彼が今度は何に驚いているのかわからなかったマリは混乱し、驚き返した。
「えええええ!?」
アキラは椅子から跳ね上がり、更に声を荒らげて驚いた。
「えええええ!?」
マリは今や彼の驚きぶりに驚いていた。
「うぎゃあああああ!」
アキラはそう叫びながら、近くにあったティッシュの箱を手に取り部屋の隅に逃げた。
「うぎゃあああああ!」
マリも混乱し、近くにあった静電気ホコリ取りを手に取り彼の反対側に逃げた。
そしてほぼ同時に叫んだ。
「誰なんだあああああふじこ!」(←アキラ)
「何なんだああああああああ!」(←マリ)
その頃そのアパートの前の路上では、近所でもかわいいと評判で、最近ではネットでもアイドル犬として有名になっている散歩中の柴犬モモが、飼い主とともに不思議そうにその部屋の窓を見上げていた。
のどかな住宅街には相応しくない、まさに阿鼻叫喚の図であった。
お互いティッシュの箱とか静電気ホコリ取りとか変な物を武器にして身構えつつ睨み合っていた二人。どう考えても素手で殴ったほうが攻撃力がありそうだ。
「失礼いたしました。予想外のタイミングで振り向かれたので、思わず驚いてしまいました」
マリは身構えるのをやめ、なるべく落ち着きを取り戻しながら言った。
いっぽうアキラと言えば、彼はまだティッシュの箱を一刀流の日本刀のように右肩上で構えつつ、無言で彼女を見つめていた。しかし、実は彼女の美しさに見とれていたのだ。
マリはじっとアキラの様子を観察していたが唐突に尋ねた。
「もしかして、既に目覚めているんですか?」
「寝てるように見えるか?」
「いえ、そういう意味ではなくて」
再び沈黙。
「なるほど、驚いたふりを続けつつ私の次の動きを予知しようとしてますね?」
アキラはティッシュの箱を構えるのをやめて言った。
「何を知ってる?」
「まず、本当は驚いていないのは最後の『ふじこ』でわかりました」
「聞こえてたか」
「はい」
「だが正確に言うと、あんたの驚きぶりにつきあっただけだ」
驚きぶりにつきあっただけ? マリは早くも彼の言ってることが分からなくなってきた。
「私はあなたが妙なタイミングで驚いたから驚いたのですが。まあ、一秒先が見える人と私のどちらが先に驚いたのかなんて『卵が先か鶏が先か』という議論になってしまいますね。私が驚くのを予見したために私より先に驚いたんですね?」
「それはそうだが、大げさなリアクションはあんたの反応が見たくてやってみただけだ。で二回目以降はあんたの反応のでかさに素でびびった」
反応が見たくてやっただけ? マリのステータスは『何言ってんだろうこの人?』と、更に『こんらん』の度合いを深めていった。
「で、あんた誰?」
アキラが真顔で尋ねる。
お互いの心の読みあいが続く。
「素人」対「謎の美少女」
しかし彼はただの素人ではなかった。マリが語ったように、彼は一秒強のごく僅かであるが未来を予知できる特殊な能力の持ち主だったのだ。なので正確にはこうだ。
「変態」対「謎の美少女」
「変態とか言うな!」
部屋の天井の隅を見つめてアキラが言う。
「誰と話してるんですか?」
「四次元存在」
なんか変な電波受信してる! マリは恐怖すら覚え始めた。これ以上マトモに相手をしていると自分のほうがおかしくなってしまいそうだった。
「あ!?」
と、アキラが突然ドアのほうを見て呟く。
「あ!?」
マリも思わずドアのほうを見る。
「ああ!?」
アキラはドアのほうを指差しさらに叫ぶ。
「ああ!?」
マリも続いて叫ぶ。
「あああああ!」(←アキラ)
「あああああ!」(←マリ)
アキラは何事もなかったように平然とマリのほうに向きなおし、
「言ってみただけ~」
「はあはあはあ」
マリは憔悴しきってアキラを睨み呼吸を整える。おかしい、突然登場した謎の美少女であるはずの自分が、こんなキモオヤジになぜかペースを握られている。自分の部屋に突然誰かが現れたら普通は恐怖を感じると思うのだが、こいつはそういう感覚が麻痺してるんだろうか?
「あ!?」
アキラは再びドアを指差し言う。
「しつこい!」
マリ、すでに半ギレモード。
「いや、今度はマジ」
「?」
「甥が――」
「来るんですか?」
そのとき、ドアに鍵が差し込まれる音がする。
「階段の足音で誰が来たか大体わかるんだよね」
「早く言ってください!」
慌てて手首の光学迷彩の装置を操作しようとするマリ。
「ごめん、もっと早く気づいてたんだけど、ふざけてたら来ちゃったみたい」
言いつつアキラは装置を操作しようとしていたマリの手を取り、トイレの方向に引っ張る。
「よくわかんないけど姿見られちゃまずいんでしょ?」
手を引っ張られたマリはそのまま勢いに乗せられてトイレに連れ込まれてしまった。
玄関ドアの前では高一当時の純平がドアに鍵を差し込んで首を傾げていた。鍵がすでに開いていたのだ。そして、部屋の中からはアキラが何ごとか話してる声が聞こえてきた。
「やばいやばい思ってたけど、ついに独り言始めたか……」
純平は呆れたように呟いた。
そして、純平はドアをノックした。アキラと純平との間の取り決めで、ドアにロックが掛かっていない場合は開ける前にノックすることになっていたのだ。
「アキラ~、入るよ?」
「あいよ~!」
アキラが室内から返事を返す。
純平はドアを開け、玄関で靴を脱ぎ室内に入っていった。アキラはトイレで独り言を言ってたようだった。相変わらずの変人だ。
その頃、マリとアキラはトイレの中で息を潜めていた。マリは純平がトイレの前を通過し居室に入ったのを確認すると、小声でアキラに抗議した。
「なぜ私まで? 私は姿を消せるので――」
するとアキラに口を押さえられた。
「シッ!」
「ちょ、やめてください!」
マリは抵抗して暴れて物音をたてた。その音が聞こえたのだろうか? 純平が突然こう言った。
「おー! 元気そうじゃん!」
アキラとマリは「え?」と不思議そうに一瞬顔を見合わせたが、アキラが咄嗟に答えた。
「元気元気。ハッハッハ」
「そっか~」
「うんうん」
「で、今何してるん?」
「え? 何って言われても……」
「あ~、まさかぁ?」
「まさかも何も、男がトイレにこもってすることっていったら一つしかねーだろが」
アキラは少しイライラした口調になりはじめた。
「うは! それってなんか恥ずかしいね!」
純平は笑いだした。
「人がトイレ入ってるくらいで何ネチネチ絡んでくんだよオメーは!? 小学生かコラ!」
アキラはキレ始めた。
「ちょっと俺には真似できね~わそれ。尊敬するわ」
更に声を上げて笑う純平。
「はあ? おめ~うんこしたことがねえとでも言うのかよ!?」
今やアキラは完全にキレた。
「え? 今何て言った? 後ろがうるさくてよく聞こえなかった。もっかい言って」
純平は語気を強めて言った。
今やアキラの怒りが有頂天になったのは確定的に明らかだった。
「うぜーよおめ~! うんこっつったんだよUNKO! ユーエヌケイオー! うんこだよ! うんこうんこうんこ! これで満足かよこのうんこやろう!」
アキラが絶叫したあと、永遠とも思えるような奇妙な静寂が訪れた。
やがて純平は、今までとは違う、トイレに向かって当て付けたような声でこう言った。
「ねえ、あとでかけ直していい? アホな親戚が変なこと叫んでてうるさいんだ」
アキラとマリは顔を見合わせた。ようやく状況を理解した二人。
それはまるで古典的ジョークのような展開だった。しかしジョークにしてもひどかったのは、アキラが実に八回も「うんこ」と叫んだことだった。しかも一回はローマ字スペルで。
アキラは急にマリから顔をそむけて鼻歌を歌い始めた。一方マリは――
「ユーエヌケイオー……」
そう呟きながら拳でトイレの壁を何度も静かに叩き、必死で笑いをこらえて身悶えていた。
ようやくマリの腹筋が落ち着きを取り戻し、震えまくっていた指がなんとか光学迷彩装置を起動できたあと、アキラはトイレを何気ない素振りで出て行った。
そのとき純平は再び外出するところだった。
「じゃあ、またちょっと出かけてくる。六時までには帰るから部屋空けといてよ?」
「おっけ~。六時ね」
言いながらアキラが玄関まで純平を見送る。
純平が去り、アキラが居室に戻ってくると、マリが再び虚空から姿を現す。
アキラはしげしげとその様子を眺め、
「で、あんた結局何者?」
「んぶ! 失礼。その前に一つ確認させてください。なんか心配にひひ、なってきました。あなたのお名前は何ですか?」
マリは思い出し笑いで腹筋が痙攣しそうになるのを必死にこらえながら尋ねた。どうやらツボに入ってしまったようだった。
「『んぶ!』とか『心配にひひ、なってきた』って何だよ? 全然心配そうに見えないけど? てかあんた『んぶ!』って人?」
「んぶ! や、やめてください。と、とりあえず名前をひひ」
「人の名前聞くならまず自分から名乗ろうよ」
マリは数回大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせるように胸に手を当てて、答えた。
「私の名前は仙道マリです。それ以上のことはあなたのお名前を確認させていただいたあとお話します」
「俺は真田うんこって者だけど?」
「んぶ!」
アキラのとどめの一撃!
勇者 んぶ! の腹筋に999ダメージ!
勇者 んぶ! は死んだ……。
おお ゆうしゃ んぶ! よ、しんでしまうとはなさけない……
生来の笑い上戸であるマリは笑いの発作でそんなしょうーもない走馬灯(のような白昼夢)を見ていた。
そして完全に復活するまでにそれから実に五分以上かかった。
「もう一度聞きます。あなたの名前は何ですか?」
マリは今や拳銃(のような未来の武器)をアキラの眉間に突きつけながら質問していた。
「ごめんなさいぼくはただのさなだあきらですゆるしてください」
いっぽうのアキラは膝を突き、両手を挙げてひたすら謝っていた。
「やはり……」
彼女は絶句していた。
「むしゃくしゃしてやっただれでもよかったいまははんせいしている」
「どうしてこうなったんですか?」
「え、何が?」
アキラはそのセリフに反応して素に戻った。
「すべてです。あなたに一体何が起きたんですか?」
「何って言われても……なんでそんなこと聞くの?」
「いえ、ある程度予想はしていたのですが、その遥か斜め上を行く展開だったもので……」
「ああ、言いたいことはわかった。なんで俺がこんな『負け組みキモオタひきこもりニート独身童貞三十五歳魔法使いにクラスチェンジして五年目』かってことでしょ?」
「いえ何もそこまでは」
「いいよいいよ事実だし」
「事実なんですか?」
「ああ。ついでに俺はテロリストでペドフィリアでサイコパスのシリアルキラーですよ」
「なんか私、地雷踏んじゃいました?」
「そりゃ初対面のキミみたいな女の子に『どうしてこうなった?』とか言われたら誰だって傷つくわ」
「そうでしたか、それは謝ります。では事情を詳しくお話しますね。長くなりますがよろしいですか?」
「なんか強引にスルーされたような気がするけど、お願いするわ。でも六時になったらさっきの甥が帰ってくるよ?」
マリはちらりと部屋の時計に目をやって答えた。
「では要点だけお話します」
「おっけ。じゃお茶でも注ぐからとりあえず座って」
そう言って彼はキッチンのほうに消えていった。
「え? あ、はい」
マリはアキラの立ち直りの早さに感心しつつも、一体どんなお茶が出てくるのだろうかと少し不安に思いながら、部屋の中央にあった万年コタツの脇に腰を下ろした。
アキラは紙コップを二つとペットボトル入りの緑茶を持ってくると、それをコタツの上に載せ、注ぎはじめた。
「らしいですね」
見ながら苦笑するマリ。
「あ、ちゃんと急須から注ぐと思った?」
アキラも笑う。
マリはおもむろに首にかけたペンダントのロケットから指輪を取り出し、コタツの上に置いた
「これが何かわかりますか?」
アキラはそれを手に取るとしげしげと眺めていたが、その表情はすぐに強張っていった。
「これ、まさか……」
アキラは自分の左手の薬指にはめられた指輪とそれを交互に見比べる。
「俺の指輪?」
「そうです」
「なんであんたが……ていうか、なんでこれ二つあんの? ていうかあんた何者? ていうか――」
「ていうか落ち着いてください。今からお話しますから」
「……」
「そろそろお気づきと思いますが、私はこの時代、いえ、この世界の人間ではありません」
「……」
「私は別の世界の二〇五六年からあなたを招待するためにやってきました」
そのとき彼女の口から語られたことを要約すると次のようになる。
彼女が生まれたのは、この世界とは別の世界の二〇四〇年だった。その世界は二〇〇五年に何らかの理由で世界が分岐してしまう前の「元の世界」であり、アキラのいるこの世界は「分岐してできた新しい世界」だという。その分岐する前のマリの世界をA世界、アキラのいる分岐後の世界をB世界とすると、A世界では、アキラはエネルギー工学系の高名な科学者として歴史に名前を残していた。
その世界ではアキラには妻レイコと、二人の実の息子にあたるユウジがいたが、アキラは二〇一五年に三十五歳の若さ、今のアキラと同い年のときに世を去った。殺されたという説が有力らしい。また成長したユウジは遺伝子工学系の研究員になった。
マリはユウジの同僚の夫婦のもとに生まれたが、彼女が七歳のときに両親が事故で他界してしまい、レイコとユウジの親子、つまりアキラの妻子に引き取られた。そして以降レイコをおばあちゃん、ユウジをお義父さん(おとうさん)と呼んでよく懐いた。また二人からアキラの話もよく聞かされ、生前の映像もしばしば見せられたという。
しかしユウジもマリが十四歳のときに病死してしまった。マリがアキラの指輪を持っているのはアキラが死んだときにそれが形見としてユウジに渡り、さらにユウジが死んだときにマリに渡ったからだ。
A世界では二〇五一年に最初のタイムトラベルが成功しており、以降は未来へタイムトラベルして未来の技術を持ち帰ろうとする試みが盛んに行われた。最初は数年のタイムトラベルが限界だったが、一度成功するとそれ以降の発展は加速度的だった。なぜなら未来から競うように新しい技術がもたらされたからだ。
それらの技術は文字どおり飛躍的な技術革新をもたらす一方で、世界の国家間のパワーバランスを崩壊させるという深刻な問題を引き起こした。世界各地で未来技術を奪い合って国家間の紛争が絶えなくなり、あらゆる国が軍拡、軍国主義化を迫られ日本も例外ではなかった。
十五歳で大学を飛び級で卒業したマリもその風潮の中である使命を果たすために軍に入った。その使命とは、死亡してしまったアキラとユウジの代わりになる人物を、偶然によってA世界から分岐したこのB世界から招待するということだった。アキラとユウジは遺伝的に特殊な能力をもつ能力者であり、その能力は政治的・軍事的に極めて重要である上に、未来へのタイムトラベルを安全に行うためにも、A世界では必須とされていたのだ。
マリは語った。
「分岐した他の世界からの要人の強引なヘッドハンティング、まあ早い話が拉致ですが、それはその世界からの報復を招き、最悪の場合には時空間戦争に発展する可能性があります。そのためあくまであなた自身の意思で平和的に同行していただくために、招待役としてあなたの孫である私が選ばれたのです」
「全然わかんね。疑問だらけ。これ、確かに納得行く説明貰うまでは時間かかりそうね」
「はい。六時までにはまず終わりません。でもとりあえず要点はおわかりいただけたでしょうか?」
「要するに、俺にあんたの世界に来てほしい、ってことでオーケー?」
「はい。私はA世界ではあなたの義理の孫にあたります。正確にはあなたの死亡後にあなたの息子であるユウジさんの義理の娘になっただけですが。仮にも親族である以上、悪いようには致しません」
「まさか今すぐ来いとかじゃないよね?」
「はい。タイムトラベルでの招待なので、あなたに考えていただく時間は十分にあります。A世界への帰還時刻は自由に設定できるので、こちらの世界で仮に十年以上過ごしたとしても、A世界には私の出発直後の時間に帰還することが可能です」
「なるほど」
「もちろんあなたは拒否することもできますし、その場合に無理強いすることはありません。ただし……」
そこでマリは少し言いよどんだ。
「?」
「あなたに嘘は通用しないことはわかっているので白状しますが、平和的手段で自発的に同行してもらえる限り説得の手段は不問とされています。具体的には、自発的という意味では詐欺・脅迫はダメですが、賄賂ならオーケーという感じです」
「ほうほう」
「そのくらいあなたの能力が私の世界では必要とされているのです」
ふと、アキラは思いついたようにしげしげとマリの体を眺め始めた。彼女の体にタイトにフィットした隠密行動用スーツは、その若々しくも艶かしい肢体の完璧なボディラインを惜しげもなく晒し出していた。
マリはその視線にとても居心地の悪いものを感じた。
「な、なんですか?」
「てことは、色仕掛けもあり?」
「それも賄賂の一種として許されている手段の一つです。もっとも私はそんな下劣な手段を使うつもりはありませんが」
「え?」
「え?」
「……」
「なんですかその間は? このような状況に陥ってるとはいえ、あなたの知性があれば時間をかけて説明すれば私の考えを十分理解・納得してもらえると確信しています」
「それはいいけど色仕掛けもするんだよね?」
「ですから私はそんな手段をとるつもりはありません。血のつながりも面識もないとはいえあなたは私の義理の祖父に当たる人ですから」
「え~」
「『え~』?」
「……」
「もしかして、色仕掛けしてほしいんですか?」
「うん」
アキラはあっさりと肯定した。
マリは唖然とした。
「色仕掛けのほうが楽なのに、わざわざ面倒くさい手段で説得するというのは君も大変じゃないのかね」
「いえ、そんなことはありません。ですが、説明するのは迷惑ですか?」
「迷惑じゃないけど、どっちかというと色仕掛けをするほうに大賛成」
「申し訳ありませんが、たまにあなたの言ってることが理解できないんですが」
「細かいことは気にするな」
「いずれにしても色仕掛けはさすがに……」
マリは動揺していた。軍人として任務の遂行が第一と考えてはいたものの、自分にとって憧れの人であり、しかも義理の祖父にあたるアキラからそのような提案をされるとは考えてもいなかったのだ。それ以前に、十五歳で飛び級で大学を卒業した彼女には異性とかかわってる暇がほとんどなかったため、恋愛経験も皆無に等しかったのだ。しかし軍人としてのマリの誇りが彼女に腹をくくらせた。
「いえ、今言ったことは忘れてください。この任務を受けた時点でどのような試練でも甘受する覚悟はできています。色仕掛け、やらせてください。私は何をすればいいですか?」
覚悟ができてるという割には明らかに緊張しているマリであった。
アキラはその様子を面白そうに観察していたが、彼女の緊張ぶりを見てさすがにやりすぎたと感じたのだろうか、いきなり慌てたような口調になり言った。
「ごめんジョークだよジョーク。ただのおやじのセクハラジョークだから気にしないで」
それが本音のようだったので、マリはほっと胸をなでおろした。
「てか、そもそも色仕掛けって宣言してからするもんじゃないから」
そう言ってアキラは笑った。
「それもそうですね」
マリも笑う。やはりこの人の笑顔は優しい、そんなことを思いながら。
「ところで先ほどから気になってたんですが、このアパートはあなたが住んでるんですよね?」
「いんや。住んでるのはさっき来た甥」
「あら? ではなぜあなたはここに?」
「昔はここに住んでたのよ。でもまとまった金ができたから今は駅前のマンション住まい。で、ここは甥に譲ったの。でもさ、たまに無性に懐かしくなるのよ、ボロアパートってのは。だからたまにあいつが学校に行ってる間に使わせて貰ってんの」
「なるほど。それで六時にその甥御さんが帰ってくるわけですね?」
「うん」
「その甥御さんの名前は?」
「時任純平」
マリはなにやら考え込んだ。
「どうした?」
「いえ、私の記憶違いかも知れませんが、あなたに甥はいなかったはずです。A世界での話ですが」
「ほう?」
「まあ、AとBが分岐したのは二〇〇五年であることは判明してるので、たぶんそれ以降のバタフライ効果で何かあったんでしょう。そもそもA世界ではあなたは今の年齢で亡くなっているわけですし」
「なるほど……でもさ、今思ったんだけど、タイムトラベルできるならわざわざこの世界に来なくても、A世界の過去にタイムトラベルして俺が死なないようにしてくれればいいだけなんじゃね?」
「はい、それはもっともな疑問だと思います。しかしその説明は長くなるのでまたの機会でよろしいでしょうか? 簡単に言うと、タイムトラベルでは過去の歴史は変えられません」
「え?」
「詳細はトゥ・ビー・コンティニュードです」
マリは部屋の時計を見ながらそう言った。
アキラも時計に目をやり、
「確かにそろそろ純平が帰ってくるな。んじゃ俺も帰るわ」
「あ、マンションに戻られるんですか?」
「うん」
「あの、ご一緒してもいいですか? これから色々説明に通う必要がありますし、場所の確認だけでも」
「え? ああ、それはかまわないけど……というか、君の上司はやり手だね」
「?」
「もしごつい兄ちゃんなんか送り込んできてたら、マンションに付いてくるなんて言い出したら速攻で断ってるわ」
「あははは、そういう意味ですか。でも、変な期待はしないでくださいね」
「わかってるよ」
アキラも笑う。
そして二人はアパートから徒歩数分の場所にある駐車場に留めてあったアキラの車まで歩き、一緒にマンションに向かった。
そのマンションは真鷹市にあるマンションの中では最高級のマンションで、アキラの部屋もその最上階にあった。そしてそのマンション全体のオーナーもアキラだった。マリはその日はマンションの場所だけ確認してすぐに帰ったが、それからしばらくはアキラをA世界へ招待するための事情説明と説得のため、そのマンションに通うことになった。
マリ自身が「時間は十分にある」と語ったとおり、それからのマリの任務遂行ぶりはアキラも拍子抜けするくらい、慎重でじっくりとしたものだった。あまりにも慎重でじっくりしていたために、当のアキラにさえ「任務にかこつけて金持ちの生活に寄生して、異世界バカンスを楽しんでるようにしか見えない」と言われてしまうくらいののんびりぶりだった。
また、マリはB世界での滞在場所として、近くに住んでいた自分の遠縁にあたる夫婦のもとを訪ね、ちゃっかり居ついていた。どのような説明をしたのかは謎だがかなり歓迎されているという。
そのことに関してマリはアキラに、自分は遺伝子選別されたデザイナーチャイルドだからかもしれない、と告白した。
A世界では二〇三〇年代より人間の遺伝子操作技術が発達しており、富裕層の間では子供が生まれるときに遺伝子を選別するのも一般的だった。倫理的な問題はもちろんあるが、敵性覇権主義国家の台頭による国際紛争の激化、そしてそれらに対応するための軍国主義化により、国の安全保障のためという名目でそれらの倫理的問題はとりあえず棚上げされてしまっていた。
「私が十五歳で大学を卒業できたのも、この重要な任務を与えられたのもたぶんそれが理由の一つです。というか――」
そこでニヤリと笑うマリ。
「というかやっぱり~、あたしみたいなかわいい女のコが未来の子孫です、なんて言って現れたらウソだと思ってても歓迎しちゃうんじゃない?」
にっこり笑ってぶりっこポーズ。
ちなみに『ぶりっこ』はA世界では二〇五〇年代でも死語ではないらしい。これに変わる適当な単語が発明されていないからだ。
アキラのもとに通う回数が増えるに連れて、徐々にマリはアキラに対して飾らない素の部分を曝け出すようになっていた。そしてそれはアキラにとっても悪い気のするものではなかった。
「キミ自信過剰じゃね? いくら遺伝子選別されたっつっても、顔の良し悪しまで選別できるとは思えないんだけど」
「え? ご存知なんですか?」
マリは急に真顔になって言った。
「有名な話だけど、十分なサンプルの数の一般人の顔をスキャンしてその平均を出すと、それが結構な美人顔になるって言うじゃん? つまり、こと美貌に関しては全くの平均顔が理想って説も成り立つわけで。そうだとしたら全くの平均顔を遺伝子的に選別することなんてできんの?」
「そう、そこなんですよ!」
マリの言葉に妙に気合が入る。
「?」
「遺伝子選別されて生まれたデザイナーチャイルドは私の生まれた時代には私以外にもたくさんいます。彼らが優れた遺伝子を持った天才と呼ばれているのは理解できるのですが、何の点で優れてるのか、少なくとも私の年齢ではほとんどわかりません」
「ほうほう」
「それどころか……余り言いたくはないのですが――」
「言いたくないなら言わなくていいよ」
アキラはニヤリと笑う
「いえ、アキラさんには聞いてほしいです」
アキラは苦笑して肩をすくめて先をうながす。
「余り、かっこいい人がいないんです!」(注・マリ調べ)
アキラは思わず吹き出した。
「というか、正直好きじゃない顔も多いんです!」(注・マリの主観)
「……」
「飛び級で大学に進学したせいで男性経験が皆無だった私を心配して、友人がよく異性を紹介してくれたんですが、天才だって言われて会ってみたら、エゴが強そうな顔、争いが好きそうな好戦的な顔、とにかく保身が得意そうな顔、ずるがしそうな顔、そんな人たちばっかりでした」(注・100%マリの好みの問題)
「……」
「そういうタイプだからこそ、生物としてはサバイバル能力に長けた、ある意味天才と言えるんでしょうが、そういう遺伝子ばかりを選別することが本当に優秀な子孫を残すということになるんでしょうか?」(注・あくまで……略)
アキラは答えなかった。
「顔だけで言えば、記録映像でしか見たことはなかったけど、ちょっと間抜けでお人よしそうなアキラさんのほうが私にとっては遥かに魅力的でした」
「それ褒め言葉になってねーから」
「私が単にダメ人間がタイプなだけかもしれませんが」
「誰がダメ人間だって?」
「自覚ないんですか?」
マリはニヤリと笑う。
「最近本性現してきたな」
アキラはため息をつく。
「あ、でもA世界のアキラさんは本当にかっこよかったですよ」
「はいはいはい『A世界の俺』ね」
「とにかく、デザイナーチャイルドが何に優れているにしても、それはもしかしたらとても方向性の間違った優れ方かもしれません。まるで人類を破滅に導きかねない優秀な兵器のような」
「……」
「もちろん人間には色んな人がいて当然だと思います。天才と言われる人たちは適材適所でふさわしい場所に収まれば華々しい活躍ができる人たちでしょう。でもそれは彼らがあくまで自然の確率で生まれて来た場合に、周りに彼らをサポートしてくれる『天才とは呼ばれない多くの無名の人たち』がいてくれるからではないでしょうか?」
アキラは今やじっと聞いていた。
「天才を戦闘機にたとえるなら、戦闘機だってそれを支援したり癒してくれて、進むべき方向を示してくれる空母や空港がいてくれなければ活躍できないし、間違った方向に進む可能性だってあります。それに空母だってさらにそれを癒してくれる港がなければ活躍できない。私が気になっているのはそういうことなんです」
「空母や空港はその他大勢の一般人てとこか?」
「そうです。いくら戦闘機がカッコイイからって、空母も空港も作らず戦闘機ばかり作ってしまったら、果たして戦闘機は活躍できるんでしょうか? 人間がその時代その時代の一時的な価値観で人間の優劣を判断して生まれてくる人間の種類や割合を操作するというのはそういうことなんじゃないでしょうか? わたしはそれが怖いんです」
「ふむ……」
「そして私もその一人です。だから私もいつか、何かとても間違ったことを圧倒的な力でやり遂げてしまうかもしれません。それが私がいちばん恐れていることです。だから少なくとも私は、自分を含めて遺伝子選別された人間が特別な存在だなんて思わないようにしています」
「……」
「それに、正直言って私は戦闘機より港のほうが好きなんです。虎や狼は確かにカッコイイけれど、ずっと一緒にいるなら私は普通のにゃんこやわんこのほうがいいです」
そう言ってマリはにっこりと笑った。
「……」
「私がこの任務を受けたのも、ずっとアキラさんに自分の考えを聞いてほしいと思っていたからかもしれません。小さい頃からおばあちゃんやお義父さんからアキラさんの話を聞いて育ったから、アキラさんと直接会って話してみたかったんです」
「なるほどね」
「すみません一方的にしゃべってしまって」
「いや、でもそれが君の特別さじゃないかな?」
マリは首を傾げる。
「特別になるように作られたのに、特別だとは思わないようにしてるところとか」
「……」
「その美しさだけは天然で、偶然の産物かもしれないね」
「そんな……」
照れるマリ。
「いっや~かっわいいな~、迎えに来たのが君みたいなコでおじさん嬉しい!」
アキラは伸びた鼻の下を隠そうともせず喜んだ。さすが自称キモオタだ。
* * *
そのような雰囲気の中、マリがアキラのもとに通う日々が始まった。
マリは自分がやってきた更に詳細な理由をアキラに説明した。
彼女が「あくまでA世界の未来における通説を前提とした話」と断った上で語った内容、その要点は次のようになる。
「タイムトラベルではA世界でアキラさんが死去した過去は変えられません。仮にアキラさんが死ぬ直前にタイムトラベルしてアキラさんを救ったとしても、それは世界を分岐させて『アキラさんが死ななかった新しい世界』を作ってしまうだけだからです。その世界でタイムトラベルした人だけは生きていくことはできますが、タイムトラベラーを送り出した元の世界の人間にはなんの変化もメリットもありません。その意味ではタイムパラドックスも存在しません。私がやってきた世界はアキラさんが死去したことを前提になりたっている世界ですから」
「そのため、ほかの方法でアキラさんやユウジお義父さんを復活させる方法はないかが議論されました。ある科学者は、アキラさんが死亡する直前に、分岐を起こすような影響を可能な限り減らした状態で救出したらどうかと提案しました。しかしアキラさんが病院に搬送され、医師によって死亡が確認され埋葬される、この過程を変えることはできないし、仮に変えたとしたら世界はやはり分岐してしまう、そのような理由からその案は却下されました」
「そういった議論の過程で生み出された恐ろしい手段の一つが『世界養殖』です」
「要するにただの開き直りです。分岐上等、過去にタイムトラベルし世界を意図的に分岐させ新世界を生み出し、つまり『世界を養殖』し、その世界から自分たちが欲しいものを調達するという手段です。『すでに自分たちの世界から分岐してしまった世界をどういじくろうと自分たちの世界には影響がない』ことを逆手に取った極めてエゴイスティックな方法です」
「当然それは道義上の問題がある上に、貴重な人材や資源を強奪された被害者側の世界から報復される可能性が高く、それがエスカレートして時空間戦争に発展する危険性も指摘されました。これは今の時代に当てはめてみても容易に想像できることです。自分の国の人間が他国に拉致されたら、その国に対して報復感情が湧き上がるのは当然のことです」
「ちなみに強奪被害自体はその世界では確定した事実のため、その歴史を改変することは不可能です。したがって、その被害者側の世界がそれを取り戻すためにさらに前の時代にタイムトラベルして新たな『世界養殖』をし、新たな被害者世界を創り出す可能性もあります。それはまるで『急な雨の日の傘窃盗の連鎖』のように、最初の一人が傘を盗むことによってその被害者が更に他人の傘を盗む、というような負の連鎖です。なので、それを防ぐために、基本的にはそもそもの最初の犯人の時代に乗り込んで報復、あるいは奪われたものの奪還をすることになりますが、それがこじれて報復合戦になってしまったものが時空間戦争です」
「そのような事態になることを防ぐために、『世界養殖』という手段を使わず、既に偶然生まれてしまった世界の中で、アキラさんの評価が最も低い世界を探して、その世界のアキラさんを平和的に招待することになりました。それがあなたです」
「つまりアレか? 俺はこの世界では不用品だから、この世界から連れ去っても問題ないと?」
「語弊はありますが、ありていに言えばそういうことです」
「しょぼ~ん」
落ち込むアキラ。
* 約二か月前 *
そのようにしていつしか一か月が経過した。
いまやマリのほうも、アキラが「どうしてこうなった?」のか、その理由をおおかた理解していた。
彼は自称「最強負け組みキモオタニート引きこもり三十五歳独身童貞ロリコン紳士」で、「三〇歳で魔法使いにクラスチェンジしてはや五年」だった。さらに後に「四〇歳になったら妖精になりたいな」が加わった。しかしこれらの称号はコロコロ変わる上に、明らかにウソも含まれていた。もしかしたら全部ウソかもしれない。
要するに彼は単に「安易なレッテル貼り」が嫌いな人だったのだ。そしてそのようなレッテルを貼られている人たちと同じ立場に立つために、自らに様々なレッテルを貼っていたのだ。嫌いと言いつつそれを自分でやってる時点で微妙に矛盾しているのだがそこはあまり突っ込まないであげてほしい。彼は自分自身に真偽不明のレッテルを敢えて貼ることで、安易なレッテル貼りに対する警鐘を鳴らそうとしていたのだ。
まず、彼には過去に婚約者がいた。これは考えてみれば当然のことだった。A世界とB世界は二〇〇五年までは歴史を共有しており、A世界でアキラがレイコ――後の彼の妻でありマリの義祖母――と婚約したのは二〇〇三年のことだったからだ。マリが持っていた形見の指輪も、もともとはこの二〇〇三年に婚約指輪のお返しとしてレイコからアキラに送られた指輪だった。二人は婚約後は同じアパートで同棲しており、童貞というのはさすがにウソだと考えられた。
それどころか実は、マリが義祖母のレイコから聞いた話によれば、アキラはレイコと婚約するまでは「美人ほど簡単に落とすピンポイント狩人」として名を馳せたイケメンだった。研究一筋で無愛想だったために誰からもモテるというわけではなかったが、一度腹を割って話しあい、理解しあった相手からは男女問わず圧倒的に支持される、そしてそれが女性の場合はなぜか超のつく美人が多い、そんな世の男性の皆さんの憧れであり、かつ最大の敵のような男だったらしい。
そして一途だった。これは彼の長所でもあり、そして致命的な短所でもあった。
このB世界において、レイコは二〇〇六年に事故で死亡していた。これは二〇〇五年に起きたAとBの世界分岐に端を発したバタフライ効果と考えてよさそうだった。
そしてその最愛の人を失ったとき、彼の心は壊れた。A世界では大学院を卒業し、エネルギー工学関係に強いコングロマリットの研究員として働き始めたはずの二〇〇七年、B世界の彼は自殺未遂を起こしていた。入院して一命は取り留めたが、退院してからの彼は就職もせずにアルコールに溺れ、レイコと同棲していたボロアパートでその思い出に浸りつつダラダラと自暴自棄の生活を送り始めた。本人は死ぬまで飲むつもりだったらしい。
しかしそのまま死ねないままいつしか数年が過ぎた。最初のうちは学生時代にバイトで貯めた貯金で生活していたが、もちろん途中で生活費はなくなった。そのため日雇いのバイト、短期のアルバイトを繰り返し、その日暮らしをするようになった。
仮にも働いており自活していた以上、ニートやひきこもりというのも当てはまらないだろう。しかしキモオタというのは当てはまるかもしれない。少なくともマリ自身、この世界のアキラに最初に会ったときはドン引きしたくらいだ。
A世界が彼を必要とする理由は彼が持つ「約1・3秒後の未来を、未来を確定させずに観測する」という特殊能力だった。その能力はA世界では軍事的に重要なことはもとより、タイムトラベルによる未来技術の持ち帰りを安全に行うためにも必須とされていた。
またその能力は、彼の祖母に当たる女性の血筋に代々伝わる能力であるという調査結果だ出ている。しかし彼の祖母、母ともにその能力を生かす機会のないままこの世を去った。自覚があったのかすら怪しい。なぜなら能力の覚醒には臨死体験が必須だったからだ。
アキラがいつどこで臨死体験をしたのかは記録には残っていない。そのためマリ自身、もしかしたらB世界のアキラは覚醒してないのではないかと思いつつこの世界にやってきた。
しかしアキラ本人によれば、小さい頃に家の屋根から落ちたことが何度かあったという。そして落ちる間、屋根から地上まで実際は数秒ほどなのだが、それがまるで一晩寝て起きたかのような長い時間に感じられてそれまでの人生の様々な場面を思い出したと言う。俗にいう走馬灯体験である。さらにB世界のアキラは自殺未遂も起こしている。能力が覚醒するには十分な機会があったと考えて差し支えない。
彼は三十歳を過ぎた頃、その能力を生かしてネットビジネスで巨富を築いていた。わずか一秒強とはいえ、未来を予知できることが決定的な違いを生むことは、ネット世界でのまさに一秒を争う迅速な取引で可能になった。本来ならスポーツでも生かせる能力だが、「予見」にはかなりの集中力を必要とするため頭痛やめまいを覚えることも多く、立って運動しながらでは困難を伴った。
巨富を築いた後の彼はしばらくはそれまでのボロアパートに住み続けていたが、甥の純平が近くの高校に入学したのを機にそのアパートを彼に譲り、今は高級マンション暮らしをしていた。そしてそのマンション全体のオーナーもアキラだった。そのマンションはミリタリーオタクの彼の趣味で要塞並みのセキュリティ装置が張り巡らされ、密かに設置された金庫室には彼が金に物を言わせてコレクションした在日米軍や自衛隊からの横流し品の武器まで揃っていた。
もっとも彼自身はミリタリーオタク以外にも、身近なものではPCオタ、ゲーオタ、アニオタ、スポーツオタ、そして実用的なものでは法律オタ、株オタ、果ては物理化学オタ、までありとあらゆるオタに精通しており、その財産のほとんどをそれらのオタ仲間の活動の援助に注ぎ込んでいた。いわばキング・オブ・オタである。
そのため彼は常人には理解できない変な友人やコネを豊富に持っており、武器のコレクションも軍上層部のオタク仲間から横流ししてもらったものだった。そしてそれが発見されそうになると、今度は警察幹部のオタク仲間に隠蔽してもらうという徹底ぶりだ。
「『オタク』はレッテルではなく敬称である」
「オタクと美人の笑顔が世界を救う」
それが彼の信条だった。
ちなみにオタクのジャンルは明らかに非人道的なものを除いて原則として不問で、美人というのも若い女性に限らず、老若男女問わず美しい人の意味らしい。Aあnー!
マリが彼のもとに現れたのはそんな時期だった。彼女の任務は彼を彼女の世界に、本人の同意を得た上で平和的に招待すること。
無数に分岐した世界に存在する様々なアキラの中でも「連れ去ることによるその世界への影響が最も少ないアキラ」、ひらたく言えば「いちばんしょぼいバージョンのアキラ」と推測されたのがこの世界の彼であり、この世界の彼を連れ去ったとしても、たぶんこの世界の未来の人間から文句は言われないだろうということだった。
「そこまでして俺を招待なり拉致しようとしなくても、俺とかユウジのクローン作ればいいんじゃね?」
ある日アキラは質問した。
「それは当然考えられました。しかしクローンにおけるテロメア(細胞分裂の回数券のようなもの)の問題はA世界の未来でも解決されていません。アキラさんやユウジお義父さんの遺品から回収されたDNAはもっとも若いときのものでも三十歳当時のものでした。人間は若いときほど細胞分裂が激しいので、寿命が八十歳だとしたら、四十歳の細胞からクローンを作ったら残り四十年生きられるというわけではなく、実際には四十までにその寿命の半分以上の細胞分裂が行われているので、そのDNAを元に新生児から生まれた場合はあっという間にその細胞分裂の回数券を使い果たしてしまう可能性があるのです。そのような生命を生み出すのは生命倫理上当然問題がありますし、少なくとも私たち家族もそんなことを許可するつもりはありませんでした」
「なるほど……」
* * *
A世界のアキラはマリの小さい頃からの憧れの人だった。だからB世界のアキラに初めて会ったとき、彼女はその落差に驚いた。しかし彼のマンションに通うようになって一か月が経過した頃、彼女は確信していた。A世界のアキラもB世界のアキラも本質は変わらない、自分の憧れていたアキラその人である、と。
加えてB世界のアキラの表面的なダメ人間ぶりが、単なる偶像だった頃のアキラにはなかった方法でマリの女心の「何か」を激しくくすぐっていた。自分がいなければこの人はもっとダメになる。そんなことすら考えはじめたマリが、アキラに特別な感情を抱くのに時間は掛からなかった。
一方アキラのほうも初対面のときのマリの「どうしてこうなった?」発言がひそかにショックだったようで、彼はそれから身なりに気を使うようになり、外見的にもA世界の記録映像でのアキラに近いものになっていった。もはや二人が恋に落ちるのは当然の成り行きとさえ言えた。
しかしアキラのほうは冗談まじりにマリを口説こうとすることはあっても、決して本気ではマリに手をださなかった。
あるときマリはついにアキラに、自分には女としての魅力がないのか、と尋ねた。するとアキラはマリを押し倒しかけたが、それはマリの覚悟を試すためのただの演技だった。
女としてのプライドを傷つけられた彼女は、思わずアキラを「意気地なし」と罵った。
しかしアキラは哀しそうに微笑んでこう答えるだけだった。
「キミは確かに美人だ。しかし口ではなんと言っても、今より文明の進んだ時代に育ち、さらには遺伝子を選別されて生まれたデザイナーチャイルドであることに無意識にプライドを持ってる。そしてその『無意識の上から目線』がレイコとは決定的に違うんだ。彼女は遺伝子選別なんてされてなかったけど絶世の美人で思いやりがあって一途で真摯で――」
そして数分ほど、ほわわ~、と脳内タイムトリップなされた。レイコさんを思い出していらっしゃるのだろう。
マリがその不可思議な超時空生物を興味深そうにつついたり、くすぐったり、拳銃を突きつけたりしていると、しばらくして突然我に返り、こう言った。
「彼女はナチュラルな出生だからこそ、同じ人間には等しく誰にでも敬意を払い、その結果誰にでも愛されてた。そんな彼女が死んだとき、俺の中の男も死んだのさあああああああああああああああああああああああああああってなに拳銃突きつけてんだよお前は!」
そのあまりのキザぶりにマリは圧倒されて、何も言い返すことができなかった。
しかしそう思ったのも実はただの照れ隠しだったのかもしれない。
レイコおばあちゃんが大好きだった彼女は、レイコが死んでしまったB世界でもアキラがレイコをいつまでも忘れないでいてくれることが実は嬉しくてたまらなかったのだ。
「物思いにふける前に拳銃下ろせよ!」
彼はまだ何か叫んでいた。
* * *
そんなある日のこと、アキラのPCを借りていたマリは、何の変哲もないネーミングが施されたフォルダの中に、彼が削除し忘れたらしいテキストファイルがあるのを偶然見つけてしまった。
開いていいものかどうか迷ったが、結局好奇心に負けたマリはそれを開いた。そのテキストファイルには次のようなことが書いてあった。
二〇一三年 三月十五日 曇り
今日駅の近くのコンビニで、帰ったら100%ジュースで割ろうと思って200ml入りのウォッカを1本買ったんだ。
よく古い洋画とかでアル中のおっさんが胸や腰のポケットに携帯してるような平べったい瓶のやつね。
他に買うものもなかったのでそれだけ持ってぽんとレジに差し出した。
そしたらレジの兄ちゃんが「袋は要りますか?」と聞いてきた。
え? これをそのまま手に持って帰れと? オレは言いそうになった。
その兄ちゃんの顔はレジ袋削減のためというよりは、「すぐ飲みそうだし袋いらねんじゃね?」とでも言いたげな感じだった。
少しショックだった。
オレは歩きながら直接ウォッカを飲んだくれるようなオヤジに見えるのかな?
いや、見えるんだろうな。
帰り道に色々考えちゃったよ。
キミがオレの前から姿を消してからもう何年経つだろう。
それ以来、確かにオレはアルコールが恋人だった。
ひどいときには体重も十キロ近く増えちゃったよ。
最近はダイエットを頑張ってるけどね。
こうやって男はオヤジ化していくのかな。
今、キミがオレを見たら
「やばいよやばい、オヤジ化してるよ!」なんて言って笑うんだろうね。
年を取らない、いつまでも美しいままの天国のキミがオレを見たら。
マリは「黒歴史発見……」と呟きながらそのファイルをそっと閉じた。
* 約一か月前 *
お互いのキャラ的にそれっきり甘い雰囲気になることもなく、さらに一か月ほど過ぎたある日、マリはアキラに、彼の甥である純平の人となりについて質問した。
マリの世界には純平の成人以降の記録が残っておらず、成人前に死亡したことが推測された。しかしアキラの能力はその祖母の血筋に代々伝わる能力であるという調査結果が出ており、遺伝することもわかっている。つまり血縁的に純平も能力者である可能性があるのだ。
アキラは語った。
「自殺未遂起こしてあのアパートに引きこもるようになったら、友人はみんな離れてった。親戚の間でも俺は死んだに等しい扱いになった。親戚一同の恥扱いさ。それがネットビジネスで成功して、納税額が地元で一位になったとたんに、どっからともなく大勢の自称友人が現れて、親戚もなにかにつけて招待状送ってくるようになった。そんなもんさ」
「でも純平、奴は違うぜ。少なくともあいつは俺に金があるかないかで態度が全く変わらなかった。そもそも俺に金があるかどうかなんて興味ないんだろうな。そんな奴だから、自分の思い出の詰まったアパートを中身ごと丸投げできたのさ。ボロアパートだったけど、レイコとの時間を一緒に過ごした大切な空間だからな」
マリは純平の調査を開始した。具体的には、アキラが教えてくれた、純平が最近ハマっているというオンラインFPSゲームで彼に近づき、その動きや反応速度を観察することだった。
「光学迷彩で直接後ろから近づいて石でも投げてみれば?」などとアキラはとんでもないことを言っていたが、もし能力がなくて避けられなかったら悪いし、あったとしても本人が気を抜いてるときは物理的な反応を起こすタイミングが遅れるのであまり参考にならない。
その点ランキングのあるオンラインFPSゲーム中なら本人も集中してる可能性が高く、参考になると考えられた。それに未来の軍人であるマリはこの世界のオンラインFPSゲームに純粋な興味もあった。
そして彼女は一か月もしないうちにウィスキー八として純平のクランに迎え入れられた。彼女はずっとボイスチェンジャー機能で声を変え男性プレイヤーの振りをしていたが、たまに興奮したときに素の口調になってしまうため、純平の高校に転校する頃には完全にリアルオカマと思われていた。
そしてゲーム内での挙動を観察した結果、純平もアキラと同様の能力を持っている可能性が高いことがわかった。そのため直接会って確認・交渉するために、アキラに協力してもらい純平の学校に転入した。
もっとも、ゲームで同性として接することで純平の人柄に興味を持ったこと、そして単純にこの世界で女子高生をやってみたいという動機もあった。