第二章
喫茶店で純平の話を聞いたアイはひどく驚き、心配して自分も一緒に行くと言い出したが純平はそれを断った。一人で行くと約束してしまったし、アキラは仮にも肉親で、マリが純平を助けてくれたのも事実だったからだ。
そんなわけで純平は一人でアキラの住む超高級マンションへと向かい、約束の時間の五分ほど前にその部屋の前に着いた。聞きたいことは山ほどあった。マリの正体、マリはウィスキー八なのか、なぜ純平のクラスに転校してきたのか、アキラとの関係は何なのか、今日自分を襲ってきたのは何者なのか。
部屋の呼び鈴を鳴らすとマリが扉を開けた。一度家に帰ったのだろうか、彼女は私服だった。その部屋はこの町で最高級とされるマンションの最上階で、室内は清潔でよく整理整頓されており、だだっ広かった。純平は彼女に案内されてリビングのソファーに腰を下ろした。
テーブルを挟んで対面に当たるソファーには真田明(さなだあきら=アキラ)が深めに座りこんでなにやら書類を読んでいた。そしてあまり興味がなさそうにちらりと純平のほうを見て、小さく「おお来たか」とだけ言ったかと思うと、また書類に戻っていった。
しばらくしてマリが三人分のお茶を淹れて持ってきた。その仕草はまるでメイドか何かのようだった。
(一体この二人はどういう関係なんだろう?)
アキラはこの数か月の間に急に身なりに気を使うようになり、体型もスリムになっていた。そして今や自称キモオタどころか、この高級マンションのイケメンオーナーとしての風格すら漂わせるようになっていた。それはマリと何か関係があるのだろうか?
そして彼のマンションでメイドのように振舞う十六~十七歳の美少女。う~む、健康な男子高校生としてはどうしても妄想が膨らんでしまう。
マリはお茶をそれぞれの前に配り終えると、「よいしょっと」という感じで純平の対面、アキラの隣に座った。無防備でパンツが見えそうなその仕草は少なくともメイドというより年相応の女子高生っぽかったので純平は少し安心した。
「それで、私から説明したほうがいい? それとも時任君のほうから質問してもらってそれに答える形のほうがいい?」
純平は待ちきれない、という感じで身を乗り出して言った。
「質問いいか?」
「どうぞ」
「今日のパンツの色は?」
マリは唖然としていた。
アキラが本から顔を上げて笑った。
純平はニヤリとしながらアキラに小さくウィンクをしてみせた。
悲しいことに純平は、それはアキラのようなスケベオヤジの基準ではなんてことない先制攻撃ジョークであっても、普通の高校生の基準では、男子が女子に向かって気軽に言うようなジョークではないことに気づいていなかった。そのくらいアキラの精神汚染を受けてしまっていたのだ。
「冗談だ、気にするな」
「やっぱりあたしから説明する?」
マリは顔を引きつらせながら言った。
「まず、キミはウィスキー八なのか?」
純平は無視して続けた。
「うん」
「いつから俺のことを知っていた?」
「CoBで最初に対戦したときから」
やはり彼女は計画的に純平に近づいてきたようだった。
「俺に近づいてきた理由は?」
「調査ね。あなたの能力の」
「能力?」
「ちょっとだけ未来を予知する能力」
「……」
「まあまだあなたが持ってるかどうかは確信がないんだけどね」
答えようがなかった。前から自分は何かがおかしいと感じていたが、具体的に何がどういうことなのかまではイマイチ理解していなかった。魔法や予知能力にしてはしょぼすぎるし、おかしいのは本当に自分のほうなのかということすら疑問を感じていた。
もしかしたらおかしいのはこの世界のほうで、この世界は実はCoBの世界のようにバーチャルな世界でマトリックスで、俺がデジャヴを感じたりラグだと思っていた現象は実はこの世界に改変が加えられたことに俺が気づいてしまっただけで、いつかブラックのごついグラサンブラザーが現れて俺をネオとか呼んで不思議の国にようこそとか言って俺は救世主になって弾丸を避けて空を飛んで世界を救って色気むんむんのビューリホーグラサンチャンネーとイチャイチャしてああ! いやん! ラブラブ※△○#$!
……何の話をしていたんだっけ?
「何か思い当たるフシでもある?」
「うん」
純平は正直に答えた。
要するにおかしいのは自分なのかこの世界なのか、確信がなかったのだ。でも今確信したのだが、やっぱりおかしいのは自分のほうなのだろう。色んな意味で。
本当はもっと聞きたいことがあったのだが、自分でも確信のなかったことを他人からあっさり指摘されたせいで一気に頭が混乱してしまった。
「悪い、ちょっと時間くれるか?」
「うん。ゆっくりお茶でも飲んで」
マリは微笑んだ。
お茶請けとお茶を味わいながら、純平は必死に頭の中を整理していた。しばらくすると落ち着き、自然に次の質問が口をついて出た。
「今日俺を襲った連中は?」
「わからない。調査中だけど、日本人じゃないわね。日本語話して日本人の振りしてたけど独特のなまりがあったから」
「なんで俺を襲う?」
「それもわからない。私はあなたを尾行してただけで誰かに襲われるなんて想定外だったし。あなた自身は心当たりはないの?」
「ない」
学校裏サイトで殺害予告されるナンバー1であることは黙っておいた。いくらなんでも外人が学校裏サイトに殺害予告を書き込むことはないだろう。
「というか尾行? 俺を?」
「うん。だって逃げるように学校から帰ってったじゃない。かなり挙動不審だったわよ。だから何かあったのかと思って心配になって後をつけたの」
「なるほど」
「なんであんなに慌てて帰ったの?」
キミのせいで学校中の男が自分を狙うゾンビの群れにしか見えなくなったからだ、とはさすがに答えなかった。ただ、これだけはどうしても聞いておきたかった質問をした。
「なんでいきなりキスしたの?」
アキラがピクリと反応して本から顔を上げた。
「え、あんなのただの挨拶よ? ずっとCoBで一緒にプレーしてたんだし、せっかくリアルで会えたんだから頬にキスくらいしてもいいかなって。でもこの時代の日本で、しかも高校生だとちょっと驚かせちゃったかもしれないわね。だとしたらゴメンなさい」
「いや、別に謝ってもらわなくても……」
あまりにも素直に謝られたせいで純平は拍子抜けしてしまった。いや、むしろキスされて感動しました! そう言いそうになって慌てて話題を変えた。
「俺のクラスに転校してきたのは偶然?」
「いえ、必然よ。CoBであなたがアキラと同じ能力を持ってる可能性が高いことがわかったので、直接会って確認するために近づいたの。ちょうど同じ学年だったし、あたしもこの世界で女子高生やってみたかったし。同じクラスになるための賄賂はアキラが出してくれたわ」
マリはいたずらっぽく笑った。
なるほど、そういうことか。しかし彼女は今「アキラ」と呼び捨てにした。それが少し気になった。
「アキラとはどういう関係なの?」
「う~ん……パパかな?」
「ぶっ」
本を読みながらお茶を飲んでいたアキラがお茶を噴き出す。
純平は返答に困ってしまった。
「冗談よ。さっきのお返し」
マリはニヤリとしている。
正直冗談とは思えなかった。純平が反応に困っていると急にマリは慌て始めた。
「やだ、もしかして信じちゃった? 別に隠す必要もないから言うけど、私はアキラの義理の孫で、アキラは私の義理のおじいちゃんよ?」
「いや、それフォローになってないし。というか余計イミフだし」
「あははは、確かに」
笑うところかそこ? 純平が呆れたような顔をしてるとマリは急に真顔になり言った。
「本当の話よ。私はこの世界とは別の世界の未来からやってきたの。さっき見たでしょう、私が姿消してたの」
純平は少し考えてから答えた。
「それは見てないけど、いきなり姿現したところなら見た」
「あはは、それもそうか。でもあれで私が未来から来たって言っても信じないわけにいかないでしょう?」
確かに今の時代にあんな完璧な光学迷彩が実現してるとは思えなかった。
「だから本当に私はアキラの孫なの。血のつながりはないけどね」
血のつながりがないというのがひっかかったが、これ以上そこを追及するのはやめた。今日会ったばかりの自分に、これ以上彼女のプライベートを詮索する資格があるとは思えなかったからだ。
「キミの目的は?」
「アキラを私の世界に招待すること」
「招待?」
「うん。アキラの能力が私の世界ではどうしても必要なの。あなたが同じ能力を持ってるならあなたでもいいんだけど」
「どうしても?」
「うん」
「それって手段を選ばないってこと?」
「いいえ。あくまで平和的な手段で相手の同意を得て同行してもらうことが条件」
「なるほど」
「でもその条件さえ満たされるなら、その説得のための手段は問われないわ」
純平はその意味をちょっと考えてみた。
「それってつまり、色仕掛けとかもするってこと?」
するとマリとアキラが顔を見合わせ、笑い始めた。
「してほしいの?」
マリはニヤニヤしながら純平に尋ねた。
「なんで笑う?」
「お前俺とおんなじこと聞いてんぞ」
アキラが笑いながら言った。
「う……」
やってしまった。こんなスケベオヤジと同じ発想をしてしまったことがショックだった。しかし純平は質問を続けた。次から次へと疑問が沸いて、頭が混乱していた。もはや何から聞くべきかもきちんと整理ができずに、とにかく思いついたことから質問していた。
「俺を調査してたってことは、アキラは招待を断ったの?」
これはアキラに対する質問でもあった。
「いえ、まだ交渉中。帰ってこられる保証もないのに違う世界に行くなんて、簡単に決められることじゃないしね。骨を埋める覚悟が必要だから、じっくり考えてもらってるの。あなたはあくまで保険よ」
「保険?」
「アキラが決心してくれれば問題ないけど、一応保険」
「随分悠長だね」
「うん。だって交渉のための時間はいくらでもあるもの」
「へ?」
「だって帰りはタイムトラベルで帰るのよ? こっちでいくら時間がかかったとしても、帰る時刻は自由に設定できるし」
考えてみればそれもそうだった。だからわざわざ同じ高校に転入してきたり、呑気なことをやってるのか。純平はそんなことを思った。
「そもそも俺たち、というか俺はまだわかんないけど、アキラの能力ってなんなの?」
「そうね、たとえて言うなら、数秒先を決定論的に知り得るというラプラスの悪魔ってあるでしょ? あれとは原理は違うけど結果的には同じ能力。一言で言えば、アキラはラプラスの悪魔なの」
「ラブプ――なんだって?」
聞きなれない単語に純平は思わず聞き返した。
「ラブじゃなくてラプラスの悪魔」
マリはもう一度言った。
「じゃあ、あなたの大好きなFPSゲームで説明するわね。オンラインゲームには『ラグ』が付き物だけど、アキラはリアルでそれを引き起こしてしまう、いわばリアルチーター(リアルバグ使い)なの」
「自分だって好きなくせに。マークスマンのプレイスタイルに対するこだわり方とかハンパねかったぞ?」
「うんうん、純平の調査のためとか言いながらどう見てもハマってたな」
アキラも突っ込む。
「うおっほん!」
大げさに咳払いをしてマリは続けた。
「たとえばCoBの場合、サーバーがアメリカにあるために日本人プレイヤーが感じるタイムラグは本人にとって不利な場合がほとんどよね? これはアメリカのプレイヤーはラグがほとんどない状態でサーバー内の情報が自分のモニターに表示されているのに対し、日本のプレイヤーはラグがあるためにサーバー内の情報が若干遅く自分のモニターに表示されているからなの。したがって、日本のプレイヤーが自分のモニター上では敵より先に発砲したつもりでも、それは実はラグでコンマ何秒か前の姿の敵に発砲しただけで、サーバー内では相手のほうが先に発砲したと処理されてしまう、というワケ」
「うん、それは知ってる」
「とにかく、アキラはそのような不利なラグではなく、有利なラグ、たとえばアキラだけがサーバーがある国のプレイヤーで、他のすべてのプレイヤーがラグのある遠くの国のプレイヤーであるかのような状況にしてしまう能力があるの」
「ふむふむ」
「もちろんこれはわかりやすくするためのたとえで、実際には他の人間にプラスのラグが発生するのではなく、アキラのほうにマイナスのラグが発生するの。マイナスのラグというのは、実体とその観測との間にマイナスの時差がある、つまり、未来を観測してしまうということね」
アキラは今や鼻をほじりながらぼけーっと聞いていた。
「まじめに聞いてる?」
「だって俺もうその話何度も聞いたじゃん」
「でも時任君がまじめに聞いてるんだから、一緒に聞いてあげてよ」
「へえへえ」
純平はなんだかこの二人の関係性がよくわからなくなってきた。よくできた姉とダメな弟のようにも見える。
「なるほど、俺がCoBで感じてたのはそれだったのか」
「感じてたの?」
「うん」
「なるほど。それなら回線的に不利な日本人なのに世界ランク二位なのも説明が付くわね……」
純平はふと、あることに気づいた。
「もしかして世界ランク一位の日本人て?」
「ああ、俺だよ」
アキラはなんでもないように答える。
「そうだったのか……」
アキラもCoBをやっていたことは知っていた。そもそも純平がCoBを始めたのはアキラの影響だったからだ。
「最近はやってないの?」
「ああ、どうもこのマンションだと雰囲気が出なくてね。お前のアパートにいるときくらいしかやってない」
よくわからない理由だったが純平はなんとなく納得した。
しかしそんな純平の感想を表情から察したのだろうか、アキラは続けた。
「こんなだだっ広くて清潔で明るいマンションの部屋じゃ戦場のカオスな気分に浸れなくてね。やっぱFPSはボロアパートで部屋真っ暗にしてタバコプカプカ、酒をガブガブやりながら退廃的な気分でやるのが一番だろ」
なおさらよくわからない理由だった。多分共感してくれる人は少数派ではないだろうか? もっとも純平はボロアパート暮らしの経験しかないのでわからなかったが。
いずれにせよ、アキラが純平のアパートでしかCoBをやらないなら、自分がアキラと対戦したことがないことの説明がついた。
「しっかし、何も知らなかったんだな俺……」
純平は少し落ち込んだ。
「まあ別に知らなくてもいいようなことだからな」
「話を戻していい?」
「ああ、どうぞ」
「この能力は記録で確認できている限りでは、アキラの祖母に当たる人の血筋にたまに現れる能力で、遺伝することもわかっているの。でもこの能力の覚醒には臨死体験又は走馬灯体験が必要らしいの。アキラは、え~と……」
マリは言いづらそうに口ごもる。
「いいよいいよ。自殺未遂でしょ。やりましたよ」
「はい……ごめんなさい。でもそれも覚醒のきっかけの一つだと思うの。時任君は何か心当たりある?」
「う~ん、十歳のときに溺れかけたことかな? 助けられたけど」
「十歳と言うと、小学四年か五年くらい?」
「五年だね」
「そのときに臨死体験はした?」
「それはわからないけど走馬灯っぽいのは見た。海の中で死にそうなのにまるで一晩寝て起きたくらいの時間が流れたような気がして、その間にそれまでの人生を振り返る余裕があった」
「なるほど。普通の走馬灯ね。でも、普通は一瞬にして何年にも渡る過去の人生経験をフラッシュバックするのが走馬灯なんだけど、あなたたちの場合はそこに少しだけ未来を含んでしまうらしいの。それはほんの一秒程度なんだけど。そしてそのときに見える未来は『自分がそのときの状態を維持したら起こり得る未来』なの」
「ふむふむ」
「そしてそれはタイムトラベルで未来を観測して一つの未来を確定してしまうのとは違い、世界の分岐を引き起こさずに自由に変更できる未来なの」
純平のオツムのレベルではなんだか難しい話になってきたが、マリは続けた。
「さらにたった一秒とはいえ、その力を機械で増幅出来たらどうなると思う? たとえばアキラが一秒先のアキラ自身と視覚を共有できたら? これを私の世界の科学者たちは "Opposite Mirrors Vision" ――オポジット・ミラーズ・ヴィジョン――略してOMV、日本語混じりの言い方では『合わせ鏡ヴィジョン』と名づけて研究していたの。私の世界の場合はアキラの息子で、私の義理のお父さんだったユウジという人が研究対象だったんだけど、ユウジお義父さんの脳が認識している映像をユウジお義父さんの眼前に映し出すモニター、これはOMVデバイスって呼ばれてたんだけど、それを使用することであたかも合わせ鏡のようにさらなる未来を観測できるようになったの」
「よくわかんないけど凄そうね」
ホントによくわかんなかったのは内緒である。
「ええ、未来を確定させずに観測する。それはタイムトラベルが当たり前になった時代でも『魔法』とか『人類のタブー』扱いされるほどの反則技よ。『三次元世界のセキュリティホールを悪用するウイルス』とも言えるわ。少なくとも私利私欲のために使ってはいけない力であることは確かね」
そのあとマリが純平に説明した話の内容は以下のようなものだった。
まず、彼女がやってきたのはこの世界とは別の世界の二〇五六年である。その世界は二〇〇五年に原因不明で世界が分岐してしまう前の「元の世界」であり、純平たちのいるこの世界は「分岐してできた新しい世界」だという。
その分岐する前のマリの世界をA世界、純平たちのいるこの世界をB世界とすると、A世界では、アキラには妻レイコと、息子のユウジがいたが、アキラ自身は二〇一五年、つまり今年に死亡していた。そしてその能力はユウジに遺伝しており、ユウジは後にマリの養父になった。
アキラやユウジが脳内の『鏡』を利用して素で予見できる時間は1秒強のごく短い時間である。それは正確には約1・3秒であることがわかっている。たとえ脳裏に複数の鏡が存在したとしても、人間の意識が一度に利用できる鏡はそのうちの一枚にすぎないからだ。これは目の前に複数のテレビがあったとしても、人間が意識を集中して見ることのできるテレビはそのうちの一つにすぎない、というのと同じである。
では、たったそれだけの力が『魔法』や『タブー』、あるいは『ウイルス扱いされるほどの反則技』になる過程はどのようなものなのか?
まず、OMVデバイスを能力者の眼前に設置した状態で、1・3秒後のデバイスの映像を脳裏の鏡に映し出す。すると、眼前のデバイスにも同様の映像が映しだされる。
つまり、デバイスの画面に、能力者が予見した未来のデバイスの姿が映し出される。
その映像のデバイスは1・3秒後のデバイスであるわけだが、ポイントはそのデバイスの画面にも、1・3秒後の能力者が予見したさらに1・3秒後が映し出されている、ということである。つまり、その画面に映っているのは1・3秒後のさらに1・3秒後、すなわち2・6秒後のデバイスということになる。
さて、現時点で2・6秒後のデバイスを見ているとすると、その状態を維持すれば、そのデバイスにはさらにその2・6秒後、つまり5・2秒後が映し出されることになる。
このように、まるで向かい合わせにしたカメラとモニターのように、『デバイスに映るデバイスの映像』を次々に見ていくことで、どんどんと更なる先の未来を見ていく技術、それがOMVだった。そしてその映像は未来になればなるほど、まるで合わせ鏡に映る映像のように少しずつ遠く、小さくなってしまうため、日本語では『合わせ鏡ヴィジョン』という意味に当たるOMVと名づけられた。
仮にx回分のOMVが成功したとすると、それは1・3秒に2のx乗を乗じただけの未来の映像になり、x=17のときに86400秒、つまり『1日』になることがわかっている。もともと素の状態の1・3秒というのは、地球の自転の平均所要時間の86400秒を17回半分にした長さにあたり、地球上の生命体であるアキラやユウジの能力も地球の自転の間隔に影響を受けていることが判明している。
もしあなたがある銘柄の未来の株価を知りたかったら、デバイスの画面の隅にでも現在時刻とリアルタイムの株価の数値を小さく表示しておけばいいのである。
もっとも、これはあくまで理論上可能であるというだけで、実際にはx=12の場合の90分程度の未来の予見が限界だった。なぜなら90分後の未来、つまり『45分後の自分が見ているさらに45分後の未来』を共視するためには、今から45分間ずっと未来を予見し続けることが必要だったからだ。それは疲労を考えるとさすがにそのくらいが限度だった。
そして素の状態でこの1・3秒後の予見ができるものをランク1の能力者と定義し、その半分の約650msがランク2、さらにその半分がランク3と定義された。ランク3以上が能力者と呼ばれるが、最低ランクの3の能力者ですら世界でも数えるほどしか存在しない、非常に貴重な能力だった。ちなみに純平はランク不明らしい。マリが語ったことによると、なぜならA世界の未来に純平は存在していないからだ。
OMVは機械の補助前提での理論上の産物にすぎなかったが、A世界では現実に可能になっていた。
彼らの素の能力自体はコンピューターで言うところの些細なバグであり、三次元世界では本来想定されていなかった魔法のようなものである。しかしわずか1・3秒後が見えるというのは、もし神がいるとすれば、その神すら「大したことではない」と見過ごしてしまったほどの小さなバグだった。そのバグから生じたセキュリティホールを突くことで、実用的なハッキング効果を発揮させるものがOMVだった。その結果、『三次元世界のセキュリティホールを悪用するウイルス』とまで呼ばれるに至ったのである。
ここまで聞いたところで、純平はなんだか頭が痛くなってきた。
「本当はもっと色々聞きたいことがあったんだけど、今日はもう俺の頭のキャパシティを超えちゃったみたいだ」
「慌てなくていいわ。さっきも言ったけど、時間はたっぷりあるんだから」
「未来の世界の事情とか、科学と魔法の違いとか、色々聞き始めたら一晩じゃ済まなそうだね」
「うん。そういうのはこれから時間があるときに少しずつ説明してくわ」
「とりあえず、今日の俺からの質問はこのくらいにしとくよ。まだ今日聞いたこともよく整理できてないし。キミのほうから俺にほかに言っとくことはある?」
「そうね……今日の黒装束の集団くらいかな。銃器の類は持ってなかったし、痛めつけといたからしばらくは平気って言っちゃったけど、考えてみたらほかにも仲間がいるかもしれないし、最初だから甘く考えて銃器を使わなかっただけかもしれない。またいつ襲ってくるかもしれないから気をつけてね」
「そうだね。襲われたらどうすればいい?」
「私が姿消して近くにいたこともばれちゃったから、その対策までされると厳しいわね……でもあなたの命が目的ではなさそうだったから、とにかく今後は人通りの少ない道を歩かないとか、そんなくらいしか思いつかないわね」
「というか、キミって格闘技でもやってたの?」
純平は今日の事件の様子を思い出して聞いた。
「私は軍人よ。あれはマーシャルアーツ。クラヴ・マガって知ってる?」
「知らない。というか軍人って……キミ何歳?」
純平は驚きを隠せなかった。
「さっき言ったとおり時任君と同い年よ。あと、これから長い付き合いになるかもしれないし、面倒だからマリって呼んでくれていいわよ。あたしも純平って呼び捨てでいい?」
「うん、それはかまわないけど、十六?」
「そ。まだ高二の一学期だし」
「で軍人!?」
「というか、あたし大学卒業してるの。A世界の未来では後期中等教育(高校教育)が終わったら本人の希望で成人資格も得られるから、十二歳で成人も済ませてるし」
「成人!?」
「まあそういう話はまた今度にしましょ。今日はもう疲れちゃったでしょ? お互い」
「う、うん……そうだね」
純平は同意した。正直、もう何が何だかわからなくなっていた。
純平は憔悴しきった気分でアキラの部屋をあとにした。頭の中がぐるぐるぐるぐる回っていた。途中エレベーターホールのベンチではアイが心配そうな表情で純平を待っていた。純平は彼女にアキラのマンションに来ることは伝えていたが、あくまで一人で行くと断ってあったので彼女がそこで待っていたのは知らなかった。
アイは純平の疲れきった表情を見ると何も言わずに立ち上がり、エレベーターの前に純平と並んで立った。ボタンを押してエレベーターを待っている間彼女はずっと無言だった。純平のほうから話し出すのを待っているのだろう。アイはそういうコだった。純平は考えることが多すぎてずっと黙ったままでいた。するとアイは思い出したように純平のほうに向きなおり、笑顔で言った。
「ね、手つなごっか?」
純平は無言で頷くと、彼女の手を握った。彼女が自分から手をつなごうなんて言ってきたのはこれで二回目だった。一回目は純平が剣道部に退部届けを出した日の下校途中だった。そして彼女はその翌日、学校で語り継がれることになる『十月事件』を引き起こし、自分も帰宅部同然になった。
彼女の手は冷たかった。ずっとエレベーターホールで待っていたのだろうか? 純平は少し申し訳ない気持ちになって、彼女の手を握った手を自分の胸の前あたりまで持ってきて、もう片方の手をそれに添えて両手で彼女の手を握った。アイは純平の顔を覗き込み、優しく微笑んだ。
(大丈夫……)
純平は思った。これから何が起きようとも、自分の隣にアイがいてくれる限り、きっと乗り越えていける。純平はもう何度目になるかわからないくらいの感謝の気持ちを感じて、彼女に微笑み返した。優しく見つめあう純平とアイ。
「ぬあ~にやってんのあんたたちは!」
「うあああああ!」
背後からいきなりそう言われて、純平は素っ頓狂な声を上げてしゃがみこんでしまった。アイの手をしっかりと握ったまま。しかしビビってたのは純平だけで、アイはなんでもないように後ろを振り返り、にっこりと挨拶をしていた。
「こんにちは」
そこにいたのは仁王立ちしたマリだった。
「あんたね~、一人で来いって言ったでしょ? なんで彼女連れてきてんのよ? というかこんなところに一人で待たせて、何考えてんの?」
心なしかいらついたような口調でマリは言った。
「ち、ちげ~よ、知らね~うちに彼女がここで待ってたんだよ。知ってたら俺だって部屋に呼んだよ。つかお前、いつからそこにいたんだよ?」
純平はあからさまに狼狽しながら答えた。
「『ね、手つなごっか?』あたりからかな」
マリは大げさにアイの口調を真似て言った。
「なに黙って見てんだよこのスケベ! のぞき魔! 変態! アキラ!」
「あ~それなんだけどね」
マリは何でもないように続けた。
「やっぱしばらくの間、あたしがあんたの身辺を警護するわ。相手の正体もわからないんじゃ、あんた一人じゃやっぱり危険でしょ?」
まあそれはそのとおりだったので、純平は黙り込んでしまった。
(しかしアキラ、あんた変態と同列に名前出したのに否定してもらえなかったよ?)
「できれば彼女ともしばらく離れててほしいんだけど――」
マリはちらりとアイを見る。
「それは無理です」
きっぱりとアイが答える。
「まあ気持ちはわかるけどさ」
「私はネコ助です。ネコ助はいつもバテ太のそばにいなくちゃダメなんです」
あんぐりと口を開けて言葉に詰まるマリ。その頭上には明らかに『ステータス・こんらん』の文字が躍っていた。彼女はその表情のまま純平のほうに顔を向け、どう反応したらいいのかを目で問いかけてきた。純平は無言で肩を竦める。そこに何かしらのメッセージを感じ取ったのだろうか、彼女は諦めたようにアイに向きなおり言った。
「いいわ。でも申し訳ないけど、何かあった場合は純平の安全を最優先に考えさせてもらうわよ? あんたみたいなカワイイ子差し置いてこんなしょぼいバテ太助けなくちゃならないのは不本意だけど」
「かまいません」
「お前って一言多いのな」
純平は抗議した。今日会ったばかりなのに随分な言われようだ。もっともウィスキー5と八としての付き合いは結構長いのだが。
「とりあえずアパートに戻るんでしょ? 私も一緒に行くわ」
「わかったよ」
純平は諦めた。
「で、彼女はどこまで知ってるの?」
マリはアイに視線を投げかけながら純平に質問した。
「今日ここに来る前に起きたことは大体話してある」
ため息をつくマリ。
「『誰にも話すな』って言ったのにやっぱこうなるのね。言っとくけどあんたが勝手に彼女を巻き込んだのよ? 彼女に何かあってもあたしのせいじゃないからね?」
「わかってるよ」
「彼は悪くありません」
アイもフォローする。
マリは諦めたようにエレベーターのボタンを押しなおした。純平たちが話してる間に一度到着していたのだが、放置してしまったためにまた一階まで戻っていたのだ。
「じゃ悪いけど、姿消すわね」
そう言ってマリはなにやら手首の装置を操作し始めた。そして数秒ほどするとその姿は忽然と見えなくなった。
目の前でこれをやられた人間は誰でもやりたくなると思われるが、ご多分に漏れず純平も人差し指をそっと彼女が消えた方向に伸ばしてみた。
「あんた今どこ触ろうとしてるかわかってる?」
しかしマリのドスの効いた声に純平は手を引っ込めた。隣ではアイが苦笑していた。
「『十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない』とはよく言ったものだね」
純平は色んな角度からマリのいる場所を観察したあと、そんな感想を漏らした。
「今の時代の人から見れば、これもそうかもね」
虚空からマリの声。
「少なくとも俺から見たらこっちのほうがよっぽど魔法だよ」
「あはは、やっぱりそう? でも、あなたたちの能力こそ、私たちの時代でも科学的に原理が解明できていない、正真正銘『魔法』としか言いようのない能力なの」
「たった1・3秒後の予知なんて、しょぼすぎていつか科学で可能になりそうな気もするんだけど。『十分に発達していない魔法は、科学技術と見分けがつかない』って感じで」
マリは少しの間無言だった。純平が言った言葉に、何かしら思う点があったようだった。
「……まさにそんな感じよ、あたしがいた世界は。この世界より科学が進歩してるだけじゃなく、魔法とか超能力に関する研究も進んでて、その存在も公式に認定されてるし」
「そうなん!?」
「別にあなたが驚くことじゃないでしょ。特殊能力持ってる張本人なんだから」
マリはクスクスと笑いながら言った。
「でもそういった超能力とか魔法の大半はほとんど実用的じゃない、ちょっとした手品の程度の類なの。有名なのではスプーンを曲げたり、封筒の中身を透視したりとかね。
そういうのもまあ使い方によっちゃかなり役に立つ場面もあるんだけど、能力者の絶対数が少ないから商品化とかはまず無理だし、軍事転用するにしてもなかなか臨機応変な運用は難しいの。それよりは最新の科学技術を応用した商品や兵器のほうが、魔法や超能力に頼ったものよりもはるかに実用的な場合が多いから、そういう意味では『十分に発達していない魔法は、科学技術と見分けがつかない』というのは、的を射ていると思うわよ」
「なるほど……」
純平はマリの語る未来の世界へ思いを馳せたあと、ふと思い出して言った。
「あのさ、俺アイを送ってから帰るんだけど、マリはずっとついてくんの?」
「遠いの?」
「結構」
「んじゃあ、アイさんはアキラに送ってもらってくれない? 車あるし。あなたが最短経路でアパートに帰ることが重要なんだから。アイさんもそれでいい?」
「はい」
「それはいいけど、そもそもアパートまで俺を警護したところで、マリが帰ってからあんなボロアパートを襲撃されたらひとたまりもないと思うんだけど」
純平は先ほどから感じていた疑問を口にした。
「平気よ。あたしも一緒に泊まるもの」
「え!?」と純平。
「え!?」とアイ。
ハモった。
「ちょ、何言ってんのお前? さすがにまずくねそれ?」
「ダメですダメですそんなことダメで※△○#$!」
アイも明らかにパニくっていた。ここまで取り乱す彼女は純平にも珍しかった。
「勘違いしないでよ、泊まるだけよ。部屋二つあるでしょ?」
話が長引きそうだと判断したのだろう。マリは再び姿を現して言った。
「あるけど――」(←純平)
「ありません!」(←アイ)
(いや、あるのアイだって知ってるはずだが)
「泊まって警護するだけだし。心配ならアイさんも泊まる?」
マリはニヤニヤしながらアイに聞く。
「そうさせていただきます」
即答するアイ。
「え?」と純平。
「え?」とマリ。
今度はマリとハモった。
結局、その日は本当に純平のアパートにアイとマリが泊まっていった。
二人はそれぞれの家族に電話でお互いを紹介し、今日はこの友達と一緒に泊まると連絡し、許可を貰っていた。しかし泊まるのが純平のアパートであることまでは伝えなかったらしい。
マリによる一通りの状況説明が終わりいざ就寝の段階になっても、純平はあまり寝付けなかった。一度に色んなことが起きすぎた上に、警戒のために三人とも同じ部屋で寝たのがまずかった。隣の布団に一緒に入ったアイとマリが布団の中でなにやらヒソヒソ話で盛り上がって、キャアキャアうるさかったのだ。女子だけで何を話していたのかは純平には分からなかったが、なんだかんだで二人の相性は良さそうだった。
そしてその夜、純平は予想どおり襲撃を受けることになる。
……予想どおりじゃない相手から。
マリの寝相は最悪だった。彼女はアイと同じ布団で寝ていた。寝る位置は、純平の布団に近いほうがアイで、遠いほうがマリだった。なのに真夜中に純平が圧迫感で目を覚ますと、なぜかマリはアイを飛び越して純平の布団に潜りこんで寝息をたてていた
――しかも服をはだけ半裸の状態で、純平に覆いかぶさるように抱きついた状態で。
日々有り余る性y……エネルギーを持て余している十代の男子にとって、それはまさに致死レベルの襲撃であった。
一体なぜそんな事態になったのか?
三人は警戒のため時間を決めて、交代で一人が目を覚まして番をしているはずだった。しかし純平の番が終わり、次の番のマリを起こしたあと、純平が再び眠りにつくとこの状態だったのだ。
(任務ほったらかして寝込んで、しかも半裸で抱きついてくるとかどんなエリート軍人だよ?)
純平は心底呆れかえった。
そして間の悪いことに、異変を察知したアイが目を覚まして純平たちを見て仰天し、一体何をやってるの! とアイにしては怖い形相で問い詰めてきた。
それでやっと目を覚ましたマリも自分の状況に驚き、自分が純平の布団で寝込んでいたことは棚に上げて、純平に向かってスケベだの変態だのと喚きはじめた。そんな感じでぎゃあぎゃあ大騒ぎした挙句、なんとか誤解が解けて落ち着いたという次第である。
純平にとっては迷惑千万なイベントだったが、健康な若い男子がマリのような美少女に半裸で抱きつかれて、本当に迷惑なだけだったのか、と聞かれると、返答に困るかもしれない。
そんな予想外の襲撃こそあったものの、結局その日は例の黒装束の集団に襲撃されることはなく、無事翌朝を迎えた。寝ている間、純平は夢の中でいつものように360度無数の鏡に囲まれて宙に浮かんでいた。