第一章
やあ、鏡の中のキミたち。
まずは自己紹介させてくれ。
ボクはこの本の主人公、時任純平だ。
単純に「純平」と呼んでくれてかまわない。
主人公である以上、まずは自分のスペックから紹介するのが筋だろうね。
ボクは十六歳の高校二年生。そして一言で言えば、オール5な男だ。
もちろんこれは学校の成績のことだけど、5なのは成績に限ったことじゃない。顔とか身長とか、更には家柄とか家族の地位や収入とか人格のレベルとか、人間が格付けされるあらゆる場面で同様のレベルにあると自負している。オンラインゲームでのコールサインもウィスキー5というオール5ぶりさ。
もっとも、ボクだっていつもオール5ってわけじゃない。正直、普通にやってれば大抵一つか二つは5じゃない教科があるもんだ。だからオール5はある程度意識して狙わなくちゃならないんだけど、わざわざ狙って獲るのも人間が小さいと言うか、ボクの美学に反するからね。でも狙いさえすればボクにとってはそんなに難しいことじゃないから、「ボクはオール5な男」と言いきってしまって問題ないと思う。
こんな話をすると、もしかしたらキミは信じなかったり、先生からひいきされてるだけだろうって思うかもしれない。よく言われるんだけど「勉強だけ5、体育だけ5、というならわかるけど、両方5なんてあり得ない」ということらしい。
もしキミもそう思うのだとしたら、キミは哀しい人だ。だってボクがオール5なのは本当のことだし、少なくともボクにとっては本当に簡単なことなんだよ。信じないというのはキミ自身にとっては不可能だからなのかもしれないが、自分ができないからって他人もできないだろうとしか思えないのは人間として残念なことだ。
勘違いしてもらいたくないんだが、決してボクは自慢したくてこんなことを言ってるわけじゃないんだよ。こんな程度で自慢したところで、広い世界には上には上がいるんだから。ボクは自分より優れた人間を認められないような器量の小さい人間じゃないつもりだ。一応この本の主人公として、最低限の礼儀として最初に必要な自己紹介をしているだけなんだ。
ちなみにボクの学校の成績評価は10段階なんだ。
高校の教室で机に突っ伏していた少年、時任純平は、ふと耳に暖かな吐息を感じて目を覚ました。
どうやら夢を見ていたようだ。夢の中では彼は無数の鏡に囲まれて宙に浮かんでいて、それぞれの鏡の奥に映っている、鏡の数だけ存在する無数の人々の顔に向けて親しげに自己紹介をしていた。
どこだろう、ここは? 少なくとも戦場ではないようだ。視界の端に少女の顔らしきものが見える。ああ、ここはいつもの場所か。彼は安心した。
彼は学校の教室で自分の机に突っ伏して寝ていた。彼の顔を覗き込んでいたのはクラスメートの佐伯愛(さえきあい=アイ)だ。
美しい天然の栗毛、日本人にしては明るい毛色の長い髪と、同じく色素の薄い、少し青みがかった透き通った瞳。そして日本人にも西洋人にも見えるような、アルカイックスマイルの似合う穏やかで整った顔立ち。のどかな町の高校の教室では一目で誰もがその存在に違和感を感じてしまうような美少女である。
純平の耳に息を吹きかけていたのも彼女だ。彼女はそういう他愛もないいたずらが大好きなのだ。彼女の顔が更に純平の顔に近づく。彼は身の危険を感じて慌てて体を起こした。
「あ、起きた」
にっこり微笑むアイ。
よだれを垂らしてたかもしれない。純平は無言のまま、手の甲で口を拭う。
「ふふふ」
アイは何を言うでもなく微笑んでいる。無理に会話で間を埋めようとしない、これが彼女のペースだった。それでいつも間に困って照れてしまうのは純平のほうだった。今回もご多分に漏れず、間を持たせるために聞かれてもいない夢の話をしてしまった。
「なんか若者向け純文学の主人公になって、ライ麦畑で異次元存在に自己紹介してるような変な夢みたよ」
「あはは、なにそれ」
アイはふわりと笑う。
彼女こそはオール10な存在だった。学校の成績・容姿・性格、すべて誰もが認めるであろうオール10。そして純平と彼女が二人きりでいるとき、二人の間の空気は常に穏やかで温かいものだった。
……そう、「二人の間に限って」は。
それ以外の他の生徒、特に男子生徒の間の空気はそうではなかった。
彼らはわけあって事実上の公認カップルだったが、「公認」ということと「歓迎されている」ということは必ずしも、というか全くイコールではない。名実ともに日本一とされる美少女が、なんの取り柄もないオール5(ただし10段階)な純平といつも一緒にいて微笑んでいる、これは大げさではなく学校創立以来の謎とされているようで、その光景は他の男子生徒の皆さんにとって精神衛生上大変よろしくないものらしかった。
クラスの男子生徒の中にはシャープペンシルを、まるでアイスピックでも握っているかのような『筆記用具にあるまじき握り方』で握りつつわなわな震えて純平を睨み付けてくる生徒さえいた。よく見たら握っていたのは本当にアイスピックだったことさえある。
そんな様子を横目に、二人の会話に三井謙吾(みついけんご=ケンゴ)が明るく割り込んできた。ケンゴは中学時代からの純平の悪友で、この殺気に満ちた教室の雰囲気を少しでも和らげたかったらしい。
「よ、何の話?」
その笑顔は男版アイと言っても差し支えないくらい爽やかなものだ。彼もまた、のどかな町の高校には似つかわしくないほどの美少年だった。アイと付き合っているのが彼だったら、他の男子生徒の皆さんもここまで殺気立たなくて済んだのかもしれない。
ともあれ、教室で純平とアイが二人きりで会話しているときはいつものことなのだが、さすがに身の危険を感じ始めていた純平はケンゴを歓迎して話題を振った。
「俺の成績が前回オール5だったの話したっしょ? あれ、なにげにショックだったみたい。さっき夢に出てきたもん」
「ほうほう」
「10段階で5ってさ、一見平均のように見えて正確には平均じゃないじゃん? 1から10の平均て実は5・5だし。6以上が平均以上で5以下は平均以下ってことでしょ?」
「まあそうだな」
「てことは俺ってさ、すべてにおいて平均以下の人間ってことじゃん?」
「あれ、お前今頃気づいたの?」
ケンゴは笑った。しかしそのきついセリフにも悪意や毒はない。こういうことを嫌味のない爽やかな笑顔でさらりと言いのけるので、それが逆に彼の長所になってさえいた
「あ~あ、身長だって微妙に平均以下だしさ。なんも取り柄ね~し」
純平はため息をつき、両手を頭の後ろに組んで天井を仰いだ。彼は身長も見事に10段階で5というところだ。
ケンゴは軽く拳を握り締めてわなわな震えながら言った。
「お前さ~、10段階で20はあろうかという美少女いつも連れて歩いてる幸せ者がなに贅沢なことほざいてんだ? あ?」
アイは自分が褒められたことに気づいたのだろう、微笑んで言った。
「だって、私はネコ助だも~ん」
アイはその意味不明ぶりでもオール10だった。ネコ助というのは国民的人気漫画の主人公で、ダメ人間の小学生バテ太を助けるために未来からやってきたネコ型ロボットだ。
「どうせ俺はバテ太ですよ」
純平は少し落ち込んで机に突っ伏した。
「でもさ、お前剣道――」
と、ケンゴは言いかけて口を噤んだ。それを純平とアイは聞かなかったふりをした。
「でもさ、お前FPSとかのゲームの腕は結構スゲーじゃん?」
ケンゴは何事もなかったように言い直した。これは彼なりの優しさだった。
「まあ、それは自信あるけど、所詮ゲームだしな……」
アイは相変わらずにこにこして話を聞いている。ここで無理に純平を擁護したり励ましたりせず、ただじっと温かく友人同士の会話を見守っている、その精神的な余裕、それも彼女が究極美少女と呼ばれるゆえんだった。
「てかさ、お前なんの取り柄もないけどFPSみたいな射撃だけは上手いって、やっぱりバテ太じゃね?」
ケンゴは笑う。
「おま――!」
それは禁句だった。純平自身なんとなく気づいてはいたのだが、自分以外の人間から言われたのはショックだった。そう、バテ太はダメダメな人間だが射撃の腕だけは一流という設定なのだ。純平は半ば本気でケンゴの首を絞めにかかる。しかしこれが彼らの平和な日常の一コマだった。
――そう、あの悪魔が転校してくるまでは。
翌朝、朝のホームルーム前の教室は転校生の噂で持ちきりだった。職員室でその転校生を見かけたと言う男子生徒が興奮しながら「奇跡が起きた」と触れ回ったのだ。「冗談抜きで日本に一人いるかいないかの美少女」と彼は表現したが、それがこのクラスに二人存在することになるかもしれない、と。
噂は事実だった。アイとタイプは違うが、純平ですら「アイに負けず劣らず」と思ってしまうような現実離れした美少女が担任の男性教師に連れられて朝のホームルームに現れた。ぱっと見の印象では、アイが日本人離れした美しさを持った清楚で可憐なお嬢様なら、彼女は純和風の美しさを極めた高貴で凛としたお姫様、あるいはお姉様という感じだった。
担任が黒板に彼女の名前を書く。仙道真理(せんどうまり=マリ)。それが彼女の名前だった。それから担任に合図され彼女は自己紹介を始めた。
自己紹介の間、男子のみならず女子も含めて誰もが彼女にぼーっと見惚れていた。少なくとも純平にはそう見えた。
マリは一通り自己紹介を済ますと「よろしくね」と微笑んで教室中を見回した。「よろしくお願いします(ペコリ)」でも「よろしく!」でもなく「よろしくね(ニッコリ)」である。
その自信と余裕に満ちた凛とした佇まい、その高貴な雰囲気には教室中の誰もが「はい、お姉様」と返事してしまいそうになった。くどいようだが純平にはそう見えた。大げさではなくそのくらい威厳と気品に満ちていたし、彼女の隣に立っている担任ですら、「はい、お姉様」と呟くように口を動かしていたのを純平は見逃さなかった。
そして、マリは純平と目が合うと小さく手を振ってにっこりと笑った。
(――え?)
純平と目が合って、手を振って笑った。それだけのことだった。きっとそこに深い意味はない。たまたま目を向けた方向に純平の顔があって、たまたまそのタイミングで手を振って笑っただけだろう、ちょっと苦しいがそれ以外に考えられない。
しかし彼はめまいを感じた。マリの笑顔にやられたというのもあるが、彼女の一挙手一投足を目を皿のようにして観察していた男子生徒の目が一斉に自分に向けられたことに気づいたのだ。普通の転校生の場合だったら誰も気づかなかった、というか気にしなかったであろうかすかな仕草。
背筋を寒いものが走った。ギン、とクラス中の男子生徒の殺気に満ちた視線が自分に向けられていた。担任でさえ彼を睨んでいた。「なんでお前ばっかり」「バテ太のくせに」そう言いたそうな恨めしげな視線が彼に突き刺さってきた。
純平は思わず身構える。悲鳴が声に出そうになるのを必死に抑えて平静を装う。ただの偶然だろう? 彼女が手を振って笑った方向にたまたま俺がいただけ。それだけの話。いくら彼女が美人だからっておまえら必死すぎ! 実際問題、彼女のような美少女が俺に興味を持つ可能性などあるわけないだろう?
しかし悪魔の辞書に「可能性」などという単語はなかった。
昼休みになり、純平はいつものようにアイとケンゴ、そして幼なじみの真島菜々子(まじまななこ=ナナコ)らとともに昼食をとっていた。
ナナコは純平の小学校時代からの幼なじみで、今の高校に通う数少ない小中高と一緒の友人だった。
もっとも友人とは言ってもナナコは中学では学校一と評判の高かった美少女であり、しかも毎年バレンタインには純平に手作りのチョコレートをプレゼントしてくれた。俗に言う「友達以上、恋人未満」の関係である。
高校ではナナコ本人も認めざるを得ない次元の違う美しさを持ったアイが現れたために「学校一の美少女」の称号は彼女に譲ったが、庶民的で愛嬌のある顔立ちとくったくのない笑顔はそれでも一定の人気を保ち、「手の届く距離にいる萌え属性幼なじみ系元気系美少女」として男子生徒の皆さんから密かに注目を集めていた。なんなんだこの長い形容詞は。
ナナコ自身は現在は純平たちとはクラスが違うが、しょっちゅう彼らのクラスに昼食を一緒にとりにきていた。ただでさえアイといつも一緒にいることで男子生徒からの嫉妬の対象になりやすい純平が、殺意の対象にまでランクアップするのは彼女の存在が状況に拍車をかけたせいもあった。
そしてそんな状況にさらに追い討ちをかけるように、いきなりマリが妙に親しげに純平に話しかけてきたのである。泣きっ面にハチというか、まさに悪魔の所業である。
「こんにちは。時任君でしょ? 一緒に食べていい? 転校したてで図々しいのはわかってるけど、やっぱり一人で食べるのも味気なくて」
教室中の男子生徒の殺気に満ちた視線が純平たち、否、純平一人に集中した。
「え、なんで俺の名前を? というかなんで俺のごふ――」
純平が驚いていると、ケンゴが突然純平を背後から羽交い絞めにして口を塞いできた。
「どうぞどうぞ」
にっこり微笑んでマリを迎え入れるケンゴ。女子生徒たちのアイドルのような存在のケンゴがそんな態度を見せたことで、今度は教室中の女子生徒までが殺気に満ちた視線を純平たちに向けはじめた。
(こいつ度胸あるな。転校早々クラスのケンゴファンの皆さんを敵に回すつもりか?)
純平は驚きながらも感心した。
対照的にアイとナナコはあからさまに警戒していた。それが自然な反応だろう。ケンゴが下心全開なだけなのだ。
「一緒の女の子たちも優しそうだったからつい声かけちゃった」
マリは女子二人に視線を投げかけながら微笑む。
「なるほど」
爽やかに微笑みかえすケンゴ。爽やかアピール全開なのが見え見えだ。
アイやナナコも微笑み返す。警戒しているとはいえこの辺はさすがに余裕である。
そして純平を除いた四人がそれぞれ自己紹介を交わす。それが終わるとマリは純平のほうに向きなおし、いたずらそうに笑って言う。
「でも、こんな可愛い子たちと食事してるとこに混ざったら迷惑かな?」
「ふが、ふが――」
ケンゴはまだ純平の口を塞いでいた。
アイは純平のその様子を見て、にっこり笑って代わりに答える。
「全然。だって今更っていうか、私と純平君はステディですもの」
ざわめく男子。
(うを、言った、ついに言った! しかもなぜか英語! なんてことをしてくれるんだ彼女は! 学校中の男子生徒の皆さんの逆鱗に触れるであろう禁句をアイ自らのたまった。俺を殺す気か?)
純平は口を押さえられたまま内心叫んだ。
「あ、『ステディ』なんて言うと死語って思われるかもしれないけど、そういうはやり言葉的な意味じゃなくてですね、英語の本来の意味でです。敢えて今風に言えば『ガチ』? 『鉄板』? でもなんか違うし……」
(こらこらアイ君、フォローすべきはそこじゃないですよ?)
純平は今や教室内の男子生徒たちの恨めしげな視線を一身に受けていた。自分は夢でも見てるんだろうか?
(つか、これなんかのギャルゲ?)
幼なじみのナナコはまだいいとして、おとぎ話じみた美少女が同じクラスに二人も現れたことでも奇跡なのに、オール5(ただし10段階)なバテ太の自分になぜか妙に親しげに近づいてくる。これをリアルギャルゲ状態と呼ばずしてなんと呼ぼう?
マリは意外そうに純平とアイを交互に見つめたあと、微笑んだ。
「へえ、時任君、こんな可愛い彼女いたんだ」
純平はその凄腕のスナイパーのような視線になぜか背筋が凍りついた。
「て、て、ていうかお前、な、なんで俺の名前知ってんの? お、俺まだ教えてないはずだぞ。て、ていうか誰だよお前!」
やっとのことでケンゴの拘束から逃れた純平はあからさまに狼狽しながら答えた。
「あたし? 朝自己紹介したとおりだけど?」
そう言ってマリは相変わらず余裕で微笑みながら、純平の顔に自分の顔を近づけてきた。
純平は怯んで腰が引きかけたが、彼女が何かを囁こうとしてるのに気づいて彼女に耳を預けた。これこそが、教室内の殺気がピークに達した瞬間だった。
「そんなにキョドってると後ろから掘っちゃうぞ? ウィスキー5」
マリは純平の耳元で、そう囁いた。
(え――!?)
純平はその言葉に凍りついた。
マリはその『目だけが笑っていない悪魔のような微笑み』を他の三人にも向けると、
「ちょっと今日はタイミング悪かったみたいだから、また出直すね」
そう言って純平の頬に軽くキスをして去っていった。
――え、何をして?
――キスをして。
ふと純平が隣の席に目をやると、いつも柔和な表情を浮かべている草食系男子の塚本君が、顔を伏せてシャープペンシルをアイスピック握りして震えていた。自称究極リア充男子のケンゴでさえたった今見た光景を信じられずに呆然としている。
ナナコに至っては純平をゴキブリでも見るかのような嫌悪感たっぷりの表情で見つめている。
そしてアイは――
(ああ、怖い。アイの表情は見ることができない。まさかとは思うがいつも女神のようなアイの表情がもし般若のようになっていたら、俺は明日から信じられるものを失ってしまう。心の支えを失ってしまう!)
(これ、やっぱりギャルゲなんてレベルじゃねーぞ? つかホラーでしょこれ? サバイバルホラーだよ。バ○オハ○ードだよ。殺される。マジ殺される! そして闇世界でこっそり幕を降ろす!)
純平はパニックで意味不明な叫び声を上げそうになるのを必死にこらえ、教室を飛び出した。
(落ち着け、俺! 一体何が起こっているんだ? 俺の平穏な日常を返せ!)
結局、純平はその日の昼食を屋上で一人寂しく済ませた。
放課後、純平は最後の時限の終了のベルが鳴ると同時に教室から逃げ出すように飛び出した。彼は帰宅部だった。高一の十月までは剣道部だったのだがわけあって退部した。
そのわけとは、ここぞという場面で決定的な打突を繰り出した直後に、必ず一秒ほど立ちくらみのようになるという謎の症状だった。これについてはいくつもの病院で精密検査を受けたが原因は不明だった。
そういうとき、純平の脳裏にはいつも鏡のような窓のような謎の物体がいくつも浮かんでいて、その鏡が僅かに未来の敵の動きを映し出していたのだが、このことを医師に相談したらただの脳内麻薬かなんかだろうと一笑に付されて真に受けてもらえなかった。
その鏡の映像を利用して純平が繰り出した打突はほぼ確実に相手の裏をかき、一本を取るに相応しい決定的な攻撃となった。そして早くも高一にして全国大会個人の部で優勝を狙える、と期待されていた。
しかし面で表情が隠された状態でのただの立ちくらみとはいえ、攻撃のあとにふらふら倒れそうになることは一本の条件である『残心』の部分に問題があると判断される場合があった。そしてそもそも健康上の問題も疑われ、さすがの顧問も何か起きた場合に自分の責任問題に発展することを恐れて純平に退部を勧告したのだった。
最初は純平も反発した。保身のために教え子の夢を奪うのかよ? どんな顧問だよそれ、と。
しかしその顧問は純平の幼なじみのナナコの父親でもあった。そしてナナコには難病の妹がいるのを純平は知っていた。つまり顧問にとっては二番目の娘だ。正直、そんな大人の事情はずっと知らないままでいたかった。
でも幼なじみのナナコの父親、そして純平にとっても幼い頃から慣れ親しんだ人物が自分の部活の顧問になった時点で、彼の運命は決まっていたのかもしれない。顧問は娘の治療費のためにも絶対に今の仕事を辞めるわけにはいかなかったのだ。
もし一本と判断されない状態で純平が立ちくらみしているときに、相手選手の攻撃を受けて大ケガでもしたら顧問の管理責任問題になるかもしれない。そうなったら高校生の純平がいくら顧問をかばったところで大人は相手にしないだろう。最悪の場合彼は職を失ってしまうかもしれない。そんな事情を考えてしまったら、純平には退部以外の選択肢がなくなった。
学校外の道場を探すことも考えたが、運悪くその頃からオンラインFPSゲームにはまり始めてしまい、だんだんと剣道に対する情熱を失ってしまった。
純平はそれまで体育の成績だけはよかった。他の科目が全部平均並みになってバテ太化していった中学時代も体育だけは下がらなかったし、剣道で全国優勝を目指す者としてそれだけは最後の譲れないプライドでもあった。
でも剣道をやめたと同時にそれももうどうでもよくなった。そしてどうせならオール5を取ってやろうと思って体育をさぼりがちにしたら本当にオール5になったのが高一の最後の学期だった。それは高二の新学期が始まった今になっても微妙にトラウマになっているくらい、実際思っていたよりもショックな出来事だった。もはや純平はそれを自虐ネタにさえしていた。
そんなわけで帰宅部になってからの純平はいつもはアイと一緒に下校していたのだが、今や学校中の男が自分を狙うゾンビの群れにしか思えなくなった彼は、その日はアイに『悪い、今日は先に帰る。探さないでください』とだけメールをし、先に下校した。
いっぽうアイも、純平が帰宅部になると同時に『十月事件』を引き起こし、それまで芸能活動等で忙しかった生活から帰宅部になっていた。
下校途中、海辺に近い人気のない路上でケータイで『真鷹高校会議室』という掲示板を見る。会議室、なんて言うと聞こえはいいがいわゆる学校裏サイトの類だ。
アイが去年、純平との事実上の交際宣言をした通称『十月事件』以降、彼はこの掲示板で殺害予告されるナンバー1の座を維持していた。もちろん殺害予告とは言っても匿名掲示板にありがちな婉曲表現でだが。
(今日は仙道のこともあるしもっと凄いんだろうな、見なきゃいいのに俺。でもただの高校生同士の脅しとはいえ、どんな殺害予告がされてるかくらいチェックしといたほうが安全だし……でも見ると凹むし……)
純平がそんな風にケータイを片手に掲示板を見るか見ないかで右往左往していると、突然彼の目の前の歩道にガラスを全面黒張りしたあからさまに怪しいワンボックスタイプのワゴンが進入してきて止まった。「事故か?」とのんきなことを考えているとワゴンのスライドドアが勢いよく開き、これまた明らかに怪しい黒ずくめの格好をした人間が数人飛び出してきた。
(え? これなんかの撮影?)
純平は振り返る。しかし背後に特に異常はなかった。車も走っていなければ歩行者もいなかった。いや、逆にそれが異常なのか? そう思った瞬間、彼の脳裏に例の謎の鏡が何枚も浮かび上がり、それぞれが真っ暗な映像を映し出した。そして再び前を向こうとしたとき、突然視界が鏡の映像と同じように真っ暗になった。頭部に何か被せられたらしい。
(え、何これ? 俺襲われてんの? 俺だよ? オール5(ただし10段階)のバテ太だよ? なんのどっきり? てかもしかして学校裏サイトの殺害予告ってマジ?)
いよいよ自分の置かれている状況を把握して恐怖を感じ始めた頃、鈍い衝撃音とともに純平を押さえつけていた人間の腕から力が抜けた。純平は慌てて頭部に被せられていた袋を取り、まるでFPSの戦場でクリアリングでもするかのように中腰で周囲に視線を巡らせた。
それは異様な光景だった。三人いた黒ずくめの人間たちは力学的にあり得ない挙動をしていた。ある者は殴打音とともに悲鳴をあげて股間を押さえこんでうずくまり、ある者は突然足を横方向に突き出したかと思うとそのまま横向きに転倒していた。まるでそれは見えない人間に急所を蹴られたり、足を払われているかのようだった。
そして倒れこんでしばらく苦しんでいた彼らは、口々に「退却!」「一時退却!」と叫んでワゴンに戻ると、ワゴンを急発進させて走り去った。
(……一体何だったんだ?)
事態が把握できないまでも、純平がとりあえず壁際に移動し壁に背を向けて周囲を警戒し続けていると、突然何もない空間からいきなり転校生のマリが姿を現した。目の錯覚だろうか? さっきまで仙道なんてどこにもいなかったはず……。
マリはいきなり純平の腕を掴んで引っ張ると、早足で歩き出した。
「え? ちょ、何?」
「黙ってついてきて」
純平は彼女に引きずられるようにしてついていった。
マリは人気のない袋小路のような場所に純平を連れ込んで、その唯一の入り口の部分から道路のほうに顔を出して何やら周囲を警戒していた。その背中があまりにも無防備だったので、純平は思わずちょんちょんとつついてしまった。
「あふん!」
マリはビクン、とかなりいい反応を見せて振り向いた。
(なんかエロイ声出したぞ、こいつ)
そして純平のことを例の凄腕のスナイパーのような視線で睨みつけてきた。
「あたしの後ろに立つな!」
いやあんたが立たせたんじゃん。なに言ってんだよ一体? と純平が抗議しようとすると、彼女は片手で純平の肩を掴み、もう片方の手で「シッ」と口を押さえてきた。そのため二人の体はかなり密着してしまった。
(え? 何このシチュエーション。そ、そんな、俺にはアイという人が……あ、やべえ、心とは裏腹に体が反応しちゃう! 性的に!)
「今見たことは誰にも話さず、今日の夕方六時に君の叔父さんのマンションに来て」
彼女の表情が昼間見た微笑みからは想像できないほど真剣だったため、純平は一気に現実に引き戻された。
「え? 叔父さんて、アキラ?」
「そう。午後六時にそこへ。一人でね」
「なんでアキラ? なんで君が?」
「詳しくはそこで説明するわ」
「……」
「いい、必ず一人で来てね。可愛い彼女を危険に巻き込みたくないでしょ? さっきの連中はかなり痛めつけてやったから当分はさっきみたいな無茶なマネはしないはずよ」
純平が無言で頷くとマリは一旦その場を立ち去りかけた。しかしふと思い出したように振り返ると、こう言った。
「ああそれと、やっぱり今日は一緒にや・れ・な・い・わ。ウィスキー5」
そしていたずらっぽく微笑むと、今度こそ立ち去っていった。
(一体何だったんだ?)
純平はアパートへ帰る途中、状況を整理してみた。
まず仙道。
彼女はさっき、「痛めつけてやった」と言った。
しかし、自分が見ていた限り、黒装束の集団が奇妙な動きをしている間彼女はそこにいなかった。さらに、いきなり何もない空間から姿を現したようにも見えた。ということは彼女は姿を消す魔法でも使えるのだろうか?
それに彼女がやったにしても、あんな可憐な少女が大人の男性の体格をした(実際の性別までは覆面でわからなかったが)連中の集団を「痛めつける」なんてことができるのだろうか?
くわえて彼女は純平のCoBでのコールサインを知っていた。「や・れ・な・い・わ」というセリフから考えても、彼女はウィスキー八なのだろうか? だとしたら彼が興奮したときに口走るオネエ言葉も説明がつくが、そうだとしてもなんでウィスキー八が自分の学校の、しかも同じクラスに転校してくる必要があるのだろうか? ただの偶然とは思えなかった。
そしてアキラ。
アキラというのは純平の母方の叔父で、純平が今一人暮らしをしているアパートの書類上の借り主だった。純平が実家から離れた今の高校に入学したときに、通うのが大変だろうと高校に近かった今のアパートを提供してくれたのだ。
それまでそのアパートにはアキラ本人が住んでいたのだが、彼は今は新たに駅前に高級マンションを購入し、そこで暮らしている。彼の人生に何があったのかは純平が知る由もなかったが、今は全くお金に困ってないらしい。現にその高級マンション全体のオーナーもアキラだった。
そのマンションはミリタリーオタクの彼の趣味で軍施設並みのセキュリティ装置が張り巡らされ、最上階の彼の部屋の奥に密かに作られた金庫室には、彼が金に物を言わせてコレクションした軍の違法横流し品などの古今東西の武器や刀剣が大量に保管されていた。
純平が戦争ゲームのCoBにハマったのも、もともとはこのアキラの影響だった。
そんなアキラだが今でもたまに純平が学校にいる間にアパートに戻ってきて何かやっている。アパートの家賃は彼がそのまま払い続けてくれているからこれについては純平が文句を言える立場ではない。まあそれに、かなりの変人だが個人的には嫌いではなかった。
今でこそ大金持ちのアキラだが、それまでは彼はいわゆる親戚一同の恥というやつだった。大学院卒業まではかなり優秀で将来は天才科学者と嘱望されるほどだったらしいが、婚約者を事故で亡くした大学院卒業の頃からおかしくなり、自殺未遂をおかした挙句に就職もせずにいわゆるニート引きこもり、そしてそのまま三十歳を過ぎ、魔法使いにクラスチェンジしたと自分で言っていた。今では自称「最強負け組みニート引きこもり独身童貞三十五歳魔法使いにクラスチェンジして五年目」だ。ほかにもなんかの称号がついてた気もするが、どちらにしても自分で言ってるところが怖い。これを変人と呼ばずしてなんと呼べばいいのか純平は知らない。
この前なんて、純平がわけあって学校を早退し昼間アパートに戻ったら、ドアに鍵がかかってなかったのでアキラが来ていることがわかった。一体彼がいつも何をやってるのか興味があった純平はそっとドアを開いて中の様子をうかがってみた。
彼はカーテンを閉め切った暗い部屋で一人でパソコンに向かい、慌てた様子で必死にキーボードやマウスを操作していた。そして急に立ち上がり、近所迷惑にならない程度の大声で叫んだ。
「ウキーッ!」
そしてそのまま「ウッキキウッキ♪ ウッキキウッキ♪ ウキッキウッキ♪ ウキッキウッキ♪」と歌いながら奇妙なダンスを始めて部屋の中をぐるぐる回り始めた。
……そう、暗い部屋で一人で。
それを見ていた純平はなんだか怖くなってきて、そっとドアを閉じた。
結局、純平はその日はアキラがいなくなる夕方までアパートには戻らず、というか怖くて戻れず、アイと一緒に図書館で時間をつぶすハメになった。
純平は時計を見た。六時までにはまだ結構時間がある。マリは「誰にも話さず一人で来い」と言っていたが、彼はアイに相談することに決めた。今日会ったばかりの少女に何を言われようと、アイとの関係を考えればどうすべきかは明らかだった。マンションにさえ一人で行けばそれまで相談するくらいは問題ないだろう。純平はケータイを取り出すと、アイにメールを送った。