エピローグ
C世界で純平が学校でアイ、マリ、ナナコ、真ケンゴらに囲まれて居眠りをしている頃、B世界の純平――のちに、今回C世界の純平たちを救いにやってきた部隊のリーダーになる純平――はアイの時空観測艦で一人廃人のようになっていた。
あの日――どうやって自分がこの船にやってきたのか、その記憶は曖昧だった。
アキラのマンションで大柄な男に襲われたあと、気づくと彼は薄暗い倉庫のような場所に運びこまれていた。そして近くには人間の体の大きさくらいの黒い袋が二つ横たわっていた。彼は不思議に思ってそれをよく観察し、その袋の下の床に赤黒いどろっとした液体が漏れて溜まっているのを発見した。それは人間の血液のようだった。
それ以降の記憶が曖昧だった。そこで彼は見てはいけないものを見、その記憶を封印してしまったらしかった。
ただ、そこが偽ケンゴと彼の部下が使っていたタイムマシーン船の一室だったこと、そしてそれ以降集中力次第で数分、数十分先の未来を見ることができるようになったのは確かだった。その能力を利用してそこから脱出したらしかった。さらに――
アイとマリがもうこの世には存在していないことを、いつの間にか彼の首にかかっていた彼女たちの二つのペンダントが物語っていた。
一つはアイがドッグタグと呼んでいたペンダント、もう一つはロケットの中にA世界のアキラの形見の指輪が入っているマリのペンダントだった。
純平がアイの船にやってきたのはたぶん姿をくらますためだったが、その理由の記憶も曖昧だった。しかし状況から判断してそれしか考えられなかった。生きているのがバレればまたいつ未来人に襲われてもおかしくないし、復讐の準備を整えるまでは死ぬわけにはいかなかったからだ。幸いこの時空観測艦のステルス機能はほぼ万全であり、その存在自体彼とアイしか知らなかった。
アイの船は純平が小学生のときにアイが彼を客員登録してくれていた。そして彼が中学校を卒業したとき、アイに準ずる最高管理者にしてくれていた。そのため一人で乗船する際にも生体認証等に全く問題はなかった。
船には留守番電話のAIこそいたが、アイはいなかった。彼女の話ではトリプルAIの生死は人間あるいはバイオロイドのボディのそれとリンクされており、アイの場合はバイロイドのボディが機能停止したときに船のAIも自動的に消去される仕組みになっていた。
そして彼女のペンダントを今自分がしている以上、マザーコンピューター内の彼女ももう存在していないのだ。
船には純平が一人で姿を隠して生きていくために必要な道具はほぼ完全に揃っていた。武器や光学迷彩装置すらあった。アイが佐伯家にお世話になり始める前まで使っていて、彼が小学生のときよく招かれた居住空間も狭いながらも快適だった。
生活費等も問題はなかった。光学迷彩で姿を消してアキラのマンションを訪れ、彼が金庫室に残した貯金を使わせてもらっていた。身分証等の偽造も、アイが佐伯家に養子として迎えられる際に行った政府データーベースへのハッキングの記録が残っていたので、その手順を踏襲すれば簡単だった。
彼は基本的に船の中だけで生活し、必要な場合だけ光学迷彩で姿を消して外出していた。しかしたった一人で話し相手もいない生活が続き、次第に彼は自分の殻に閉じこもるようになっていった。アルコールにも手を出した。全然うまいとは思えなかったが、酔っている間はアイやマリ、そしてアキラが死んでしまったことを忘れられた。いっそこのまま中毒で死んでしまってもいいとさえ思った。
もちろん復讐の方法も色々考えた。しかしこの時空観測艦のタイムトラベル機能は故障しており、この世界でタイムトラベルが可能になるのも何十年先のことなのかわからなかったため、すぐに彼らの世界に復讐に乗り込むことはまず不可能だった。
純平が「行方不明」な状態であり続ける限り、ひょっとしたらまた彼の生死を確かめ、生きていたら拉致するために偽ケンゴたちがやってくるかもしれない、そう考えもしたが、その可能性はかなり低そうだった。生死不明のこの世界の純平を狙って再度拉致しにくるくらいなら、ほかの世界のアキラにターゲットを変えたり、世界養殖というものをやったり、あるいはクローンを作ったりするだろうことは彼にも想像できた。
結局、この世界でタイムトラベルが可能になるまで彼に復讐のすべはなさそうだった。そのときまでに彼は軍に入るつもりでいたが、それも何年先のことになるかわからなかった。
そうやって気づけば数年が過ぎていた。
アイの時空観測艦はもはや完全に彼の家になっていた。彼はその構造の隅々までほぼ完全に知り尽くしていた。
そして彼はある日、物理的に確かに存在しているはずなのに、マザーコンピューター内の船の見取り図にも載っていない空間があることに気づいた。それは用途不明の扉のようなものがある壁で、彼自身不思議に思って何度か開けようとしたのだが、結局開かなかった場所だった。
その扉には指紋認証装置のような小さな窪みがある以外には取っ手や生体認証装置らしきものは見当たらず、当然ながら彼がそこに指を押し当ててみても反応はなかったので、結局諦めて放置していたのだった。
何だろう? 疑問に思いつつもアルコールに溺れていた彼はまたすぐにその場所のことを忘れてしまった。
しかしある日、酔いつぶれて寝ていた彼は夢をみた。夢の中ではかつてのアイが、
「わかんない。私がAIになったとき、計画の技術責任者だった父が『これはお前のためのものではなくて、お前を愛してくれる人のためのものだから、死ぬまで外さないようにしなさい』って言ってた。今まで何かの役にたったこともないし、きっと俯瞰カメラかなんかで私の人生の記録でも撮ってるんじゃないかしら」
そう言って笑っていた。
目を覚ました彼は首にかけてあるアイの形見のペンダントをしげしげと観察した。彼はアイを愛していた。しかしこのペンダントが彼の役に立ってくれたことはまだ一度もなかった。
――そして彼の頭に、ある考えが浮かんだ。
可能性は低そうだったが、とりあえず試してみる価値はありそうだった。
二つの謎。用途不明の扉と、用途不明のペンダント。この二つに何らかのつながりがあっても不思議ではなかった。
彼は時空観測艦の狭い通路をウィスキー瓶を片手にフラフラと歩いていった。そして問題の扉の前まで来ると、その扉をよく観察した。そしてその窪みのような部分におもむろにアイのペンダントのトップをはめこんだ。
するとその扉の表面に不思議な文様が浮かびあがった。人間の手のひらの形をしていた。無駄と思いつつも彼はそこに自分の手のひらを翳した。
――すると電子音とともにカチャリというロックの外れる音がして扉が開いた。
扉の奥は真っ暗だった。酔っていた彼は驚きながらもためらうことなくその中に入っていった。
中に入ると勝手に部屋の照明がついた。そこには外国の映画でよく見かけるようなヴァンパイアの棺おけのような物体が横たわっており、その奥の壁にはモニターが埋め込まれていた。そしてそのモニターが勝手に起動し、画面の中に理知的で品の良さそうな中年の男性の顔が映し出された。
「こんにちは。はじめまして。私は朝霧守と申します」
画面の男は話しだした。
純平はただボーッと、不思議そうにそれを眺めていた。
「あなたが『ペンダントを持っている第三者』でなければ開けられない扉を開けたということは、残念ながら私たちの娘の身に何かが起きてしまったということなのでしょう。しかしペンダントを持っており、船のマザーコンピューターにも登録されていないこの部屋の存在に気づいたあなたは、娘にとって最愛の方であったと判断させていただきます」
(なんだって? 『私たちの娘』?)
「もしそうであるなら、このモニターの隣にある装置の、いちばん大きく表示されている数字を確認してみてください。そしてその数字が含まれるモニター上のボタンを押してください」
モニターには「0~20」「21~80」「81~100」の数字の書かれたボタンが表示されていた。そのモニターはタッチパネルになっているようだった。純平は装置の数字を確認した。そこには大きく「0」と表示されていた。
彼は「0~20」のボタンを押した。
「ありがとうございます。お気づきかもしれませんが、この数字は彼女が感染した病気のアレルゲンとなる微生物の大気中の濃度です。濃度とは言っても、この数字自体は人体に致命的な症状が出始める濃度を81と設定した場合の相対的な数値に過ぎません。我々の世界ではこの数値は90を超えていましたが、この数値が20以下の場合は、その空間ではその微生物が全く存在していないか、存在していても症状を引き起こす濃度には達していないことを意味しています。この環境においては以下の手順に従って、彼女の体を蘇生していただいて問題はありません」
(なんだって? 『彼女の体を蘇生する』?)
そしてモニターにいくつかの図とともに手順らしきものが表示された。
「言うまでもありませんが、これは我々の世界においても重大な軍規違反であり、生命倫理上も問題があるものです。しかしこの点に関して私、いえ、私ども夫婦に選択の余地はありませんでした。病魔に冒され、さらにトリプルAIになって以降は脳が仮死状態になっているとはいえ、まだ鼓動と体温の残っている娘の体を荼毘に付し、埋葬することはどうしてもできませんでした。そして私たちは科学者であり軍人である前に、彼女の親であることを選びました。無限に存在する可能世界の中で、彼女が幸せに暮らしていける世界が存在し、そこで彼女が生きていけるというわずかな希望にかけることにしました。そう、装置の中に眠っているのは十五歳のとき、AIとしてコンピューターに意識をコピーし終えた直後の彼女です」
純平は今や操作パネルを夢中で操作していた。手順に従って最後にパネルにペンダントをかざすと、そのペンダントが共鳴したように光を放ち始めた。そして電子音と、圧縮空気が噴出される音ともにその重厚なカバーがゆっくりと開きはじめた。
その中は透明なガラス張りのベッドのようになっており、その中に彼は見た。
アイが……
あのアイが……
生まれたままの姿で横たわっているのを。
彼はさらに必死でパネルを操作した。今度はベッドの内部がオレンジ色の光で満たされ始めた。内部を暖めているのだろうか? 彼はパネルのランプが点灯するのを一日千秋の思いで見守った。
ランプが点灯すると、さらなる電子音、空気音とともにそのガラス窓が開いた。そしてその中から一斉に水蒸気が立ち上り、彼の視界は真っ白な霧で覆われ、何も見えなくなった。
やがてその視界が回復したとき、水蒸気の向こうに彼は見た。上半身を起こし放心状態でこちらを見つめているアイの姿を。
彼はその姿を見つめながらベッドの脇にガクリと膝を落とした。今目の前で起きている光景が信じられなかった。
「ア……ア……」
彼は「アイ」と言いかけて、思い出した。「アイ」というのは彼女のこの世界だけでの名前だ。彼は最後まで彼女の本当の名前を知らなかった。知る必要がなかったのだ。彼女のほうはただ呆然と彼のことを見つめていた。
やがて彼はなんとか冷静さを取り戻し、必死で笑顔を作りながら言った。
「はじめまして。僕は時任純平と言います。キミの名前は?」
「マリア。私の名前は朝霧マリアです」
十五歳とは思えないしっかりとした口調で彼女は答えた。
「軍での所属と階級は――」
言いながら彼女は不思議そうに周囲を見渡した。
「ここは……どこでしょうか? 私はトリプルAIになったはずですが……」
そして彼女は自分の体を両手で点検し始めた。
「おかしい、この体はどう見てもまだ人間のようです」
あまりの驚きに、彼女は自分が全裸であることも全く意に介していないようだった。
「マリアか……いい名前だね」
純平はマリアの質問には答えずそれだけ言った。
マリアは喉をおさえ、その調子を確かめるようにしばらく息を急に吐き出したり吸い込んだりしていたが、
「おかしい、咳が出ない。一体、何がどうなってるんですか? ここは隔離施設の中なんですか?」
「いや、違う。ここは隔離施設なんかじゃない。たぶんこの世界には、キミを苦しめる微生物はまだ、いや、もしかしたら永遠に存在しないんだ。だから安心してくれていい」
「え? そんな世界が?」
「ああ……」
「では、それではどうしてあなたは――」
言いながらマリアは純平の顔を不思議そうに覗き込んできた。
――どうしてあなたは泣いているんですか?
(了)