プロローグ
"If your attack is going too well, you're walking into an ambush."
――Infantry Journal――
「もし攻撃が上手く行きすぎていたら、あなたは待ち伏せされている」
――インファントリー・ジャーナル誌――
気づいたときは遅かった。敵のナイフの切っ先は正確に俺の喉を切り裂いていた。
……そう、俺は死んだ。
そのとき、俺はとある砂漠の戦場にいた。具体的な地名は知らない。ミッション前のブリーフィングで聞いたはずだが、きれいさっぱり忘れていた。
いつの頃からか自分の墓場候補地の名前を覚えることをしなくなった。部隊の連中もみんなそこを「オアシス」とだけ呼んでいた。オアシスという名の地獄だ。
二平方キロほどかと思われる現地住民の居住地域はもぬけの殻で、視界に入るのは廃墟と化した日干しレンガ造りの町並みのみ。平和な時期ならのどかな昼食の香りでも漂ってきそうな牧歌的なこの町のこの時間帯に、今鼻腔を刺激してくるのはもっぱら硝煙の匂い、そして耳管に響いてくるのはわずかに残った水辺で汚水をすする両生類の不気味なうめき声と、俺たちの死骸を貪り喰らう瞬間を待ちきれない鳥たちの不吉なわめき声だけだ。
そして地上で蠢いているのは敵を何人殺したかという数字にしか自らの存在価値を見出せない兵士という名の殺人鬼。これを地獄と呼ばずして何と呼ぼう?
優れた国語者、文学者なら万人を魅了する凝った表現も簡単に思いつくのかもしれない。しかし俺みたいな消耗品の兵士にそんな芸当ができたところであまり意味はない。消耗品なりに戦場でいかに自分の消耗を遅らせるか、つまりいかに生き残るかには、一つの言語の多種多様な言い回しを覚えることよりも、多くの言語の単純な表現を覚えることのほうが遥かに重要だからだ。
「こんにちは」――「さようなら」
「敵だ」――「味方だ」
「戦え」――「逃げろ」
「好きだ」――「嫌いだ」
「らびゅー」――「ふぁっきゅー」
敵が手榴弾(Grenade)を投げてきたら、
「グレネード!」
敵がロケットランチャー(Rocket-Propelled Grenade)を撃ってきたら、
「アールピージー!」
RPGにはロールプレイングゲームの意味もあるが、戦場ではこの意味だ。
このようにシンプルかつサバイバルに直結した表現を何通りの言語で表せるかのほうが重要なのだ。
もちろんこれらはあくまで例であって、実際にはたとえば「敵だ」なんてのは戦場で敵に向かって言うアホはまずいない。敵に向かってわざわざ自分は「敵だ」なんて間抜けなセリフを吐いている暇があったら銃を構えてエイムする必要があるからだ。
ほかにも変な例を挙げたかもしれないが、まあ細かいことは気にするな。これも戦場を生き抜くコツだ。
……何の話をしていたんだっけ?
ああそうだ、開巻五行でナイフで殺された俺による『戦場を生き抜くコツ』講座だ。
どうだい、わくわくしてきたろう?
敵は待ち伏せしていた。作戦の序盤があっさりしすぎていた時点でその可能性も考えてはいたが、通信でウィスキー八がジョークを飛ばしてるのに気を取られすぎたようだ。
"If the enemy is in range, so are you."
――Infantry Journal――
「敵が射程に入ったなら、君も敵の射程に入ったということだ」
――インファントリー・ジャーナル誌――
その日、俺はセオリーにしたがって無人と化した日干しレンガの住居をかいくぐりながら前進していた。敵の姿は見えないがこちらの姿も敵に晒さない。交戦予想ラインまでの索敵はケツについてくるマークスマンの仕事だ。
住居の中は薄暗く、昼間だというのに、いや、昼間だからこそ、陽射しの照りつける屋外から屋内に入るたびにその薄闇に目が慣れるのに時間を要した。それが敵の狙いだったのだろう。通信機からのジョークに気を取られている隙に、住居内の薄闇に潜んでいた敵にあっさりと背後を取られていた。
そんな些細なミスであっという間に一生を閉ざされてしまう、それが戦場だが、気づいたときにはもう遅い。ジ・エンド。
"Your time has already run out of time."
――Unknown――
「時既に時間切れ」
――不詳――
……な、はずだった。
気がつくと俺を殺したはずの敵はまだ俺の目の前にいた。ナイフを構え今まさに獲物に飛び掛らんとするかのような体勢で俺に背を向けていた。
俺は一瞬何が起きたのかわからなかった。それは相手も同様だったようだ。奴は俺のほうに呆然とした様子で振り返った。俺は反射的に右手に持っていたM416アサルトライフルを腰撃ちし、そいつを無力化した。そしてその後一秒ほど、めまいを感じて動けなくなった。
……まただ。
野太い声で通信が入ってくる。正確には少し前から入っていたようだが、めまいのせいで気がつかなかった。
「――スキー5(ファイヴ)、ウィスキー5、応答して!」
めまいが治まった俺は応答した。
「こちらウィスキー5! アンブッシュだ! 待ち伏せだ!」
「ラジャー! でもその様子だと無事みたいね!」
ウィスキー5(ファイヴ)は部隊での俺のコールサインだ。そして野太い声の通信相手はウィスキー八、やや後方から部隊についてくるマークスマンだ。なんで5がファイヴなのに八がハチなのかというとこれは単に本人の趣味だ。ハチ公が好きらしい。
選抜射手とも呼ばれるこの狙撃手は後方で定点狙撃をするのではなくて、あくまでも前線の部隊に付いてきて場合によっては近距離戦闘もこなす。そのため随伴狙撃手とも呼ばれる。
このウィスキー八は変な癖があって、緊張したり興奮したりするといわゆるオネエ言葉になる。彼は今は「アンブッシュ」、つまり待ち伏せの情報を俺から聞いて周辺を索敵しているはずだ。
困ったことに彼は天才的なスナイパーだ。視界に入るものには正確無比な狙撃の才能を発揮し視界も広い。狙撃手である以上偵察任務以外では最前線に張ることは少ないが、定点狙撃手とも違いマークスマンとしていつも部隊のしんがりを努め、俺たちのケツについてくる。
正直な話、オネエ言葉を話す野太い声のごつい兄貴がいつもケツについてくるというのはあまり気分のいいものではない。「困ったこと」というのはそういう意味だ。背後に不穏な気配を察知して振り向いたら彼だった、なんてときには思わず「Aあnー!」などと活字にできないような変な叫び声をあげてしまいかねない。
そんな彼にも致命的な欠点があった。それはその集中力の高さゆえに、逆にその広い視界の死角にあたる背後のことには全く神経が回らなくなるということだった。なので普通に考えれば彼にはマークスマンではなく、背後を取られる危険性の低い遠距離狙撃の定点スナイパーのほうが向いてるし、部隊の仲間も色んな意味で彼には是非そうしてほしい(というかいつもケツについてくるのをやめてほしい)と心から願ってるのだが、本人のプライドがそれを許さないらしく、やっぱりいつも部隊のケツについてくる。
「あたしに芋れって言うの?」「定点スナイパーなんてチキンよ!」とはこのことについて分隊で議論になったときに彼が興奮してのたまったセリフである。オネエ言葉もそうだが、一人称が「あたし」ってのも微妙に、いやかなり怖い。
「芋る」というのは読んで字のごとく、芋虫のように地面に寝そべってじっと動かずに定点狙撃をすることである。本来のスナイパーの役割、と言っても過言でないと思うのだが、プライドの高い彼はその行為を嫌う。そのくせ彼の尊敬するスナイパーはまだマークスマンなんて兵科が一般的でない時代の狙撃手シモ・ヘイヘだ。
「二時、十一時の方向に複数の敵影を確認。一時にも確認したが既に無力化した」
索敵していたウィスキー八からの通信が入る。アンブッシュは大抵は氷山の一角だ。一人見つけたらそこら中に同じような連中がウジャウジャいると思って間違いない。ここに来るまでの道中が妙に静かだったのもそういうわけだ。
結局その日俺はウィスキー八と連携し、待ち伏せに適した場所をしらみつぶしに当たっていき、十名以上の敵兵を無力化した。なんだかんだで俺とウィスキー八の連携の相性は抜群だった。Aあnー!
敵はアンブッシュにほとんどの人員を割いていたようで、それがばれてしまったあとは非常に脆かった。俺とウィスキー八がアンブッシュを処理することが結果的に囮にもなり、その隙にあっさりと味方の部隊が敵の本拠点を陥落した。
前線から通信が入ってくる。
「弱っ!」
「あっさり」
「ひゃっほ~! 楽勝! お疲れい! またランク上がるな~コレ!」
「だね~! 作戦の勝利だ。……てかこれ作戦だったんだよね?」
みんなそれぞれ興奮した様子で今回の戦場の感想で盛り上がっている。
「じゃ、俺はそろそろ落ちるわ。また誘って~」
俺はそれだけ言うと、「お疲れ~」という皆の返事も待たずに――
リアルの世界に戻った。
* * *
古いアパートの一室。暗い室内で少年の眼前で眩い光を放っていたPCモニターの画面が一瞬真っ暗になり、しばらくしてコンピューターの通常のブラウザ画面が現れる。
「ふぅ……」
少年は俗に言う賢者タイムに入った……わけではなく、ヘッドセットを外し椅子の背もたれに背中を預けると、眉間を指で押さえた。
中肉中背で、年の頃は高校生。本人が自虐的に表現するところの、「たぶんゲームの世界でそこら辺によくいる雑魚キャラ、あるいはオンラインゲームのNPCキャラ」な少年である。
最近「アレ」が起きる頻度が高い。死んだはずなのに死んでいない。それどころか余裕で敵の背後を取っている。
オンラインゲームにありがちな回線のタイムラグなのか? しかしここまでひどいのは聞いたことがないし、このゲームのサーバーは海外にあるため、日本人には不利なラグはあったとしても有利なラグなんてまず考えられなかった。それに部隊の仲間も特にラグを訴えてなかった。仮にラグだったとしてもそのたびにリアルで自分がめまいを感じるのはなぜなのか?
この現象が起きるようになって以降、このFPSゲーム(一人称視点シューティングゲーム)「コール・オブ・バトルフィールド」――略してCoB――のオンライン対戦での彼のランクはうなぎ登りだった。FPSでは世界でも一、二を争う人気ゲームなので世界中で数十万人のプレイヤーがいるのだが、今では彼のランクはその中で二位だ。
彼のクラン――オンラインゲームでのフレンド集団――の仲間のランクも彼のランクに引っ張られるようにどんどん上がっていき、今やCoBの日本人クランでは名実ともにトップと言われるクランに成長していた。
ランク一位のプレイヤーも日本人でこのクランの創設者らしいが、最近はプレイしていないようで少年は一緒にプレイしたことがなかった。今の自分なら彼と対戦しても勝てるかもしれない。剣道を極めるという生涯の目標を失った今の少年に残された唯一の自己表現の場がオンラインFPSだった。ここまで来たらたとえゲームと言えどもトップに立ってみたかった。
そんなことを考えてると、パソコンで開いていたメッセンジャーにウィスキー八からのメッセージが届いていた。
「大丈夫か? 最近元気なさそうだし、今日も最後の辺りは具合悪そうに思えたんだが。まあ大丈夫ならまた明日いつもの時間に、や・ら・な・い・か?」
少年は苦笑した。こいつ絶対自分のキャラわかっててわざとやってるな。
少年は彼に簡単に返信をするとパソコンの電源を落とし、背後に敷いてあった布団に崩れるように倒れこんで目を閉じた。