美髪椿 《サリタ》
「本当にいいの?」
戸惑っているような男の問いかけに、毅然と頷く。
「凄く綺麗なのに…もったいない」
正面にうずくまっている男の連れの少女が、残念そうに眉根を寄せた。彼女の身を震わせるような美しい声音でそんな事を言われると、ついつい決意が緩みそうになったが、懸命に跳ね除けてもう一度頷いた。
「切れるだけ切って持っていって欲しいんです。出来るだけお金に変えて下さい」
アイリヤ峠という頂を持つ山の中腹より少し上。痩せた高地に暮らす若い娘は、ときどきこうして『髪を売る』。
今年は不作の年だったから、仕方の無いことなのだ。こうして綺麗に手入れをするのも、いつでもお金に変えれるようにしておくためなのだし。
身を売ったりしなくて良い分、自分はまだ恵まれている。
「神の御前で女の子の髪を切ることになるなんて」
苦笑まじりに呟いた男を振り返ると、哀しそうな目をして微笑んでいた。
何で彼がそんな顔をするのだろう。
街のお金持ちの間では、入れ髪や付け毛が流行っていると聞いた。自惚れになってしまうかもしれないが、これだけ質の良い髪を売ればそれはそれはいい儲けになるだろう。
だから定期的にこの村にやって来るような商人もいるというのに。
「そんなこと気にしなくてもいいんじゃないかな、キギス。アレの真ん前で一回男をぶん殴ってるんだから、今更何しようと大して評価は変わらないと思う」
言葉遣いはとても優雅とは言い難いのに、少女が喋ると聞き惚れてしまいそうになる。
それを本人も気にしているのか、いつも極力音を抑えようとしているような変な喋り方をするのだが、自分は山育ちで耳はいいので、あんまり効果はないと思われた。現に自分の耳はしっかり音を拾っている。
「……確かにそうかもしれないけど。――サナギ、せめて『神』って言ってあげなよ。『アレ』じゃさすがに酷いと思う。宗教裁判とかにかけられちゃったらどうするの」
そんな軽口を叩くあたり、彼も信仰はしていないようだ。信心深かそうなことを言っておきながら、なんとまぁ。
「……わかった」
素直に頷く少女に頷き返して、男は手に持った小刀を、ようやっと構えてくれた。頭のてっぺんとも言える位置で結った髪に、刃先があたる。――でもまだ切れた感触はない。
「……っ」
思わず唇をかみ締めてその時を待っていると、
「もう少し下で、切り終わった後の見映えが悪くならないようにしよう?」
折角構えた小刀を、今度は脇の机に置いてしまって、彼は柔らかく言った。
その気遣いは、普通は嬉しいものだろうけれど、今の自分には必要ない。切った後の見映えがどうとかは関係なく、どれだけ切って、どれだけお金に変えられたかが重要なのだ。
「気にしないで、切れるだけ長く切っていって下さい。その後は自分で綺麗に整えるから問題ありません」
「でもそれじゃあ短くなりすぎるじゃないか。…男の子みたいになってしまう」
「問題ありません」
もの惜しそうに眉根を寄せる彼にスパンッと返して、視線を真っ直ぐ前に保つ。顎を引いて背筋を伸ばし、今度は唇を噛んだりしないよう、ぴったり口を閉じて、じっと待った。
「…諦めるしかないみたいだね、キギス」
そう少女が呟いて、
「……。そうみたいだね。サナギ第二号って感じだ……」
彼は観念したように、嘆息と共に呟いた。
燭台の灯が、薄く開かれた窓から吹き込む早春の風に揺れる。
日没間際の村の何処かで、羊が鳴いている。
その声はどこか哀しげに響いた。
――ザクッ
はらはらと、支えを失った髪が落ちてくる。頭が少し軽くなって、首筋が寒かった。眼前の少女は寂しそうに目を細め、切り取った『先』を持った彼が、背後で小さく息を零した。
良質な品を手に入れられた彼らが、どうしてそんな顔をするのか。
でも、彼らがそんな風に惜しんでくれたから、自分は逆にすっきりとした気分でいられるのかもしれないと思う。
「それでいくら貰えますか?」
腰掛けていた椅子から立ち上がって、振り返る。
彼は髪の切れ端を、丁寧に、手際よく束ねて、内側にビロードが貼られた細長い木箱にそっとしまった。
「いくら欲しいの?」
訊ね返してくる彼に、少しムッとして眉を寄せる。
「からかってるんですか?」
「いや?そうじゃない」
柔らかく微笑んで、彼は木箱を優しく撫でた。
「本当にいい品だったから、出し惜しみは出来ないし。商談っていうのは、売る方にだって希望の買取価格を提示する権利があるだろう?」
「こんな田舎の村娘と商談しようって?」
馬鹿げてる。こっちは髪の相場だって知らないのだ。そんな相手と商談なんてできるはずがない。
訝しんで眺めやっても、彼の表情は相変わらずだった。裏表なんてまるでなさそうな、人の良い笑顔。
「……700リグラ」
この前来た商人に髪を売っていた子が貰った代金を思い出して言ってみる。すると彼は目を丸くして、背後の少女も「え…」と驚いたように呟きをもらした。
大きく出すぎてしまっただろうか。
売った長さはあの子より少し短いし、歳も自分の方がいくつも上だ。
――だからこんな村娘に商談なんか出来るわけないと言ったのに。
「高値を言い過ぎました…ごめんなさい。でも私は相場なんてしらないんです」
溜め息まじりにそう返せば、
「それは…そうだ…」
今まで一度も見せなかった、なんだか少し険しい顔をして彼は小さく呟いた。それきりぴたりと黙ってしまう。あの穏和で温厚で寛厚そうな人が、だ。
「それは、いつも来る商人たちが買い取っていく値段?」
黙ってしまった彼の変わりに少女が訊ねてきて、何が問題だったのだろうと彼を盗み見ながら頷いた。
「白状すると、本当はわたしよりももう少し長く売った子が貰った代金なんですけど……」
少し欲を出してしまったことが恥ずかしくて、尻すぼみになってしまったのに、少女はしっかり聞き取って、何故か諦観しているような表情を見せた。
「…そんなもんだよね」
「サナギ…」
その呟き聞き拾ったらしい彼が、優しく少女の名前を呼ぶ。
彼女は少し彼を見つめて、それからこちらに微笑みを向けた。
「キミは運がいい。キギスは商人だけど、商人に向いてないくらいお人好しだから」
なんとも言い難い顔をしている彼などまったくお構い無しにそう言って、短く付け足す。
「そんなに安いわけないよ」
「え…?」
訳がわからず首を傾げると、彼が口を開いた。
「この質でこの長さなら、1000リグラで買い取ったってこっちが儲けすぎる。1500で妥当ってところだと思う」
本気で言っているのだろうか。そんなはずがあるわけない。たかが髪の毛一束が、1000リグラを超えるなんて。
「……。……からかってるんですか?」
恐くて、そうであったら良いとまで思って責めるように言ったのに、彼らは顔を見合わせて、少女は黙って顔を俯け、彼はゆっくり否定の言葉を紡いだ。
「本当のことだよ」
*+*
「また私の髪が伸びた頃に買い取りにきて下さい」
御者台に腰掛けたキギスにそう言うと、彼はもの凄く微妙な笑顔をみせた。
「だから、あんまりそういうものは扱いたくないんだけど」
「……何だかんだで根負けするよね」
その隣で、やっぱり声を抑えたサナギが呟く。
「その第一人者が自分だって自覚して、サナギ……」
額に手の甲を押し当てて呻くキギスのようすが可笑しくて、ついつい笑ってしまった。
それを見て、彼も柔和な笑みを浮かべる。
「ここの毛皮は一級品だったから、機会があればまたいつかね」
「…それは光栄です」
「バイバイ」
手を振るサナギに手を振り返し、動き出した馬車を見送った。
どんどんと遠ざかる彼らを見送りながら、そういえばキギスは一度も自分の名前を呼んでくれなかったことに気付く。
『サナギ』って呼ぶときは、ことさら優しい声になるのに。
なんだかそれが凄く不満で、
そんな事を思った自分に、少し、――驚いた。
〈サリタ・了〉