9 熱と葛藤と気づき
ある日のことだ。
アルヴィスは激しく雨が降る中、出かけていった。
擬態生物は雨だろうと関係なく人を捕食する。
むしろ、人間を襲いやすくなるので、狩人の仕事が増えるのかもしれない。
そういえば、アルヴィスに初めて会った日も雨が降っていた。
あれから人間を食っていないので、飢餓感は日増しに強まっている。
アルヴィスが肉に見える頻度も増えていた。
しかし、食べようという気にはならなかった。
このままでは本当に灰となって消えてしまう。
その前にはなんとしてもアルヴィスを食べないといけない。
飢餓に耐えながら、アルヴィスのためにスープを作る。
我ながら、何をしているんだ、と思う。しかし、彼に「美味しい」と言わせなければ、落ち着いて彼を捕食することもできない。
そう自分に言い聞かせ、スープに塩を入れた。
今度は塩を入れすぎないように気をつける。
味見はできないが、前よりもうまくできたと思う。
アルヴィスが帰ってくるまでの間、一度手足の包帯を解いてみた。
ひび割れが酷く、一部表面が剥げてしまっているところがある。
痛くもなんともないのだが、確実に私の体は弱っていた。
もうしばらくは、きっともつ。だが刻限は少しずつ、確実に近づいてきている。
包帯を巻き直したところで、ちょうどアルヴィスが帰宅した。
玄関まで行き、彼を出迎える。
「おかえりなさい、アルヴィス」
「……ああ、ただいま、ノア……」
なんだかいつもよりも元気がない。顔も少し赤い気がする。
足取りもふらふらとしており、私を確認すると、安心したように倒れてきた。
「アルヴィス?」
体重の軽い私では、彼を支えることはできず、私ごと床に倒れてしまった。
……重い。
今の衝撃で、私の軽さに気づかれてしまったか?
そう思い、身構えたが、杞憂に終わった。
アルヴィスの意識が失っていたのだ。
「アルヴィス? ねえ大丈夫? アルヴィス?」
なんとかアルヴィスを押しのけて、顔を覗き込む。
やはり紅潮しており、息が荒い。
息があるということは死んではいないということだ。
顔に軽く触れると、熱を持っているようだ。
それに全身が雨に打たれ、びしょびしょに濡れている。
こういう時はどうすればいいのだろうか……
びしょ濡れになった人間の処置の仕方など知らない。
……いや。私が初めてここに来た時、彼は私に何をしただろうか。
記憶を手繰り寄せる。
そうだ。
『体も冷えてるだろうし、濡れたままは良くない』
そう言って、湯浴みをするように勧めてきた。
つまり、人間は濡れっ放しだと体調を崩すということか。
だが、今のアルヴィスに意識はない。
ならばどうするか。
私が彼の服を脱がし、体を拭いてあげないといけない。
……このまま、彼が衰弱死するのを待ってもいいが、それは嫌だ。
それに、初めて会った時、彼は私を助けてくれた。実際には不要だったこととはいえ、私に手を差し伸べたのだ。
だから、これはその借りを返すだけだ。
そうは言っても、ぐったりしている人の服を脱がすことは容易ではない。
初めてということもあるが、体重差が結構きつい。
彼の体を支えるだけでも、私にとっては重労働なのだ。
それでも、なんとか脱がし終える。
改めてアルヴィスの体を見ると、あちこちに傷跡がある。
擬態生物の爪でつけられたものだろう。
両親が擬態生物に捕食されてから、狩人になったと言っていた。
その歴史がこの引き締まった体に刻まれていた。
濡らしたタオルを絞って、彼の体を拭いた。
床に寝かせるのは、たぶん良くないので、頑張ってベッドまで彼の体を運ぶ。
これもかなりの重労働だった。
ベッドの高さまで持ち上げるのが、一番苦労した。
一仕事終え、ベッドに横たわるアルヴィスを見下ろす。
苦しげに眉を寄せている。家までは気を張って意識を保っていたのだろう。
そして、私を見てその緊張感が解けたのか。
私だからそうなったのか?
ヴェラでも良かったのではないか?
考えても分からない。
彼に毛布をかける。
その時見えた首元はとても無防備で……美味しそうだった。
でも、まだ駄目だ。
私が彼を「美味しい」と言う前に、彼に私のスープを認めさせないと。
このままここで彼を見ていると、捕食本能が理性に勝ってしまいそうだ。
それは私の本意ではないので、彼から離れようと背を向けた。
しかし、不意に私の腕が掴まれた。
「……アルヴィス?」
振り向いて彼を見たが、意識は依然として朦朧としていた。
そんな彼がうわ言のように呟いた。
「……ノア、行かないでくれ……」
頼まれなくても、彼を食べるまではここにいるつもりだ。
「アルヴィス、大丈夫だよ。私はちゃんとここにいるから――きゃっ」
突然、アルヴィスが私を思い切り引き寄せた。
軽い私は簡単に彼の横に倒れ込んだ。今日は倒れてばっかりだ。
「アルヴィス……起きてるの?」
「……頼む、行くな……」
起きてはいない。無意識に私を引っ張ったようだ。
私は体を起こそうとして、失敗した。
こんな近くに人間の男がいる。
これまで何人も、何十人も食べてきた人間の男が。
その匂いが強烈に私を誘惑する。
視界が明滅し、頭が痛くなる。
アルヴィスの笑顔がちらついたが、本能がそれを赤く塗りつぶしていく。
ああ、もうダメだ。
我慢できない――
「……ノア……」
私はハッとした。
名前を呼ばれた、たったそれだけのことで、理性が呼び戻された。
飢餓感は酷い。
ここで彼を食えば、一時的に飢えをしのぐことはできるだろうし、これからも人間の捕食を続けることができるだろう。
しかし、何かを失う気がした。
私自身ではない、何か大事なものを。
私が生きるためには食うべきだということは分かっている。
理性と本能がせめぎ合い、私は頭を振った。
その時、ちらりとスープの入った鍋が目に留まった。アルヴィスが帰ってくる前に作っていたスープだ。
ああ、そうだった。
あれをアルヴィスに飲ませないといけない。
そんな重要なことも忘れていたのか。
アルヴィスに「美味しい」と言わせるのだった。
私のスープで、彼に笑ってほしいのだ。
……笑ってほしい?
なぜ、そんなことを思った?
違う……何か、おかしい。
私は私のはずだ。なのに、何かが変わってしまった。
そんな確信があった。
このまま、アルヴィスのすぐ傍にいては、もっと変わってしまう。
だが、彼は私の手を離してくれない。無意識に、優しく掴んでいるだけなのに、彼は離そうとしない。
私はどうするべきだろう。
……人間は冷やしてはいけないと言っていた。
アルヴィスには毛布をかけたが、それでは足りないかもしれない。
擬態生物でも温めることはできるだろうか。
どうせ、アルヴィスは手を離してくれないのだ。
だから、仕方なく、私は彼にくっついた。
私の何かがもっと変わってしまう恐れはあるが、そうなってもいいやと思ってしまった。
擬態生物はほとんど睡眠を必要としない。
だから、アルヴィスが起きるまで、こうしてくっついておこう。
彼の体は、熱のせいか、とても温かかった。
◆
結局、朝までアルヴィスは私を離してくれなかった。
「ん……おはよう、ノア……って、なんで一緒に寝てるんだ?」
目が覚めるや否や、アルヴィスはベッドから飛び起きた。
「おはよう、アルヴィス。君がずっと掴んでたんだよ。それよりも、体調はどう?」
元気そうではある。
一時的な発熱だったのか、回復が早いのか分からないけれど、元気になってくれて良かった。
……また、この奇妙な感覚だ。
アルヴィスが元気だったり、笑ったりすると、なぜか安心する。
「別になんともないけど……」
「昨日、帰ってきたとき、すごい熱があったんだよ」
「ノアが看病してくれたのか?」
看病というほどのことはしていない。
アルヴィスは続けた。
「ありがとな、ノア……一人じゃないって、なんかいいな」
そう言って彼は、飛び切りの笑顔を見せた。
「あ……」
そういうことか。
彼の笑顔を見て、私は悟った。
なぜ、人間を捕食しようとすると、アルヴィスの顔がちらつくのか。
なぜ、こんなにも近くに餌があるのに、捕食を躊躇ってきたのか。
なぜ、アルヴィスといると、胸が温かくなるのか。
これはきっと「好き」という感情だ。
だから、彼の嫌がることはしたくないし、彼の喜ぶことをしたいと思う。
スープを作るのだって、私のためではない。
彼のためだ。彼が喜ぶ顔が見たいのだ。
知識としては知ってはいたが、自覚してしまった。
擬態生物として、確実に破滅に向かう。
だけど、私はアルヴィスのことを好きになってしまった。
「アルヴィス、とりあえず服を着て」
戸惑いながらも、私はそう言った。
「え? あ、なんで裸……?」
焦った様子のアルヴィスを見て、私は苦笑した。
飢餓感はどんどんひどくなる。
だが、私の居場所――彼の笑顔を守るために、もう人間を捕食しないと決めた。
たとえ、私が死ぬことになっても。




