7 飢餓と温もり
夜な夜な街に出て、犬や鼠を捕食することで、一時的に空腹感を紛らわすことはできる。
だが、所詮は獣の肉だ。私の栄養にはなり得ない。
動物をいくら食べたところで、根本的な飢餓感は一向に癒えなかった。
それに伴い、ひび割れの範囲は広がっている。
時折、視界が赤く明滅することもある。
ああ、私はなぜここまで人間の捕食を我慢しているのだろう。
……我慢?
そうじゃない。
すれ違う人間、向こうで話をしている人間たち、大通りで寝そべっている人間……
すべて肉にしか見えない。
何度も人間を捕食しようとしたのだ。なのに、どうにもアルヴィスの顔が浮かんできて、躊躇ってしまう。
本能のままに彼らの首筋に噛みつきたいのに、何かが私を止める。
このまま飢餓状態が続けば、私は灰になってしまう。
死にたくはない。だからなんとしてでも人間を食べないといけないのに……
捕食を躊躇うようになったのは、間違いなくアルヴィスのせいだ。
彼と出会い、その温もりに触れていなければ、私はこの容姿を武器に人間の男を捕食し続けていただろう。
こんな空腹感や飢餓感など、こんな苦痛など感じずに生きていられたのに。
「いっそのこと、アルヴィスを食べようかな」
そうすれば、この呪縛から解き放たれるに違いない。
人間ごっこを終わらせるのも悪くない。
しかし、呟いてから、やっぱりそれは時期尚早だと考え直した。
ここまで人間に深入りしたのは初めてで、人間のことを知るにはちょうどいい。
クーラが言ったように、人間の生活や感情を詳しく知ることができれば、捕食しやすくなるはずなのだ。
実際にどうなるかは分からないが、知って損はしないはずだ。
それにアルヴィスを食べると、彼にはもう会えなくなる……それはなんだか悲しい――というのだろうか。多分、間違っていないと思う。
加えて、彼にはまだ「美味しい」と言わせていない。
それは心残りだ。
心。
自分で言っておいてなんだが、そんなものが私にあっただろうか。
……今の私にはあるのだろうか。
何度か捕食を試そうとして諦めた。
空腹感だけでも満たすべく、犬や鼠を求めて今日も夜の街を徘徊する。
「あんた……ノアだったっけ?」
そんな私に声がかかった。
声のした方を向くと、そこにいたのは肉……じゃない。見覚えのある顔だった。
先日、パン屋で言葉を交わした金髪の少女だ。
「ヴェラ……こんな時間に何をしてるの?」
夜遅くに、若い少女が一人で出歩くのは危険だと、いつかの酔っ払いが言っていた。
……いや、僅かにヴェラから擬態生物の匂いがする。
「あたしはいいのよ、狩人だから」
やっぱりそうだったか。擬態生物の匂いが残っているのは、倒してきたからだろう。
こんな夜中に擬態生物狩りをするのは、擬態生物が主に夜に行動するからだ。
私たちはあまり睡眠を必要としないが、夜の方が人目がつきにくく捕食しやすいのだ。
少し、警戒しておいた方がいいな。
「あんたみたいな一般人がこんな時間に出歩いている方がおかしいわよ」
「……眠れなくて」
「そう。でも危ないわよ。擬態生物だって潜んでるんだし、そうじゃなくてもあんたみたいなかわいい子は男どもが放っておかないわ」
そんなことは知っている。
アルヴィスに会うまではそうやって人間の男を釣っていたのだから。
「……そうだね」
「否定しないんだ……どうせアルヴィスもあんたの見た目にやられたんでしょうけどね」
少し言葉に棘が混じっている。なぜかそう感じた。
どうやら彼女からの印象は良くないようだが、私も思っていたことを口にする。
「ヴェラもかわいいよ」
ただの客観的事実だ。
彼女なら、擬態生物だったとしてもやっていけそうだ。
「え? そう? ありがと」
「ふふ、君も否定しないじゃないか」
「あたしはいいのよ」
よく分からない理屈だ。
「じゃあ、私は行くよ。もう少しぶらぶらしたら、私の――アルヴィスの家に帰るから」
「『私の』って言った……」
ヴェラの表情が暗くなった。あれは、落ち込んでいるのだろうか。
もっと人間の感情を模倣できたら、理解できるようになるかもしれない。
「っていうか、あんた、顔色がものすごく悪いわよ」
狩人たるヴェラからは早く離れたいのだが、彼女は私の顔を覗き込んできた。
大丈夫……顔や首元にはまだひび割れはない。
不意に距離を詰めてきたヴェラの顔が極上の肉に見えた。
捕食衝動が高まるとともに、それを止めるもっと強い何かが沸き上がった。
視界が一瞬暗くなり、ふらついてしまった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」
ヴェラが私を支えようと手を伸ばしてきた。
しかし、支えられるわけにはいかない。
体重の軽さで、私が人間ではないと気づかれてしまう恐れがある。
アルヴィスはなぜか疑わなかったが。
私は足に力を込め、転ばないよう耐えた。
「平気。私に触らないで……その、皮膚病がうつったらよくないから」
「あ……そうね」
そう言うと、ヴェラは手を引っ込めた。
ここで、皮膚病という嘘が役に立った。
「ちゃんと食べてるの?」
「……あまり食べられなくて」
「それなのに動き回っちゃ駄目じゃない。ほら、アルヴィスの家に行くわよ」
そう言うと、ヴェラは少し悩んだ素振りを見せてから、私の手を取った。
「あ、皮膚病が……」
「もしうつったら医者にかかるわよ。それより放っといたら、あんた、またふらふらとどっかに行きそうだし」
……このくらいなら、体重の軽さはバレないはずだ。
「待って、私はまだ――」
「その辺で倒れられたら夢見が悪いわ」
まだ犬も鼠も食べていないのに、私は引っ張られていった。
ヴェラの手も温かかった。
彼女に手を引かれながら、話をする。
「ねえヴェラ」
「なに?」
「スープってどうしたら美味しくなるのかな」
人間の彼女なら、スープの作り方を知っているだろう。
アルヴィスにはなぜか聞きにくかったし、他に聞ける相手などいないのだから、この機会に聞いてみた。
「スープ? なんでまた?」
「アルヴィスに作ってあげたんだけど、美味しくないみたいなんだ」
「……塩は入れた?」
塩……知識としては知っている。
「塩って、白い粉の?」
「そうね」
それなら昨日作ったスープにも入れた。
いや、白い粉はもう一種類あった。
「……もう一つの白い粉と間違えたのかな?」
「ええと……砂糖のこと?」
そうだ、砂糖だ。これも知識にはある。
だが、違いが分からない。どちらも初めて見るものだったし、味覚が人間のそれとは違うので、味で判別もできない。
「そんなベタな間違いをすることって本当にあるんだ……」
「どう違うの?」
「しょっぱいのが塩で、甘いのが砂糖よ。当然でしょ?」
そう言われても私に味は分からない。
小首を傾げると、ヴェラは続けた。
「そんなことも知らないの? うーん……硬そうで荒いのが塩で、なんとなくしっとりしてるのが砂糖かな」
なるほど。
覚えておこう。
そんなことを話している内に、アルヴィスの家に着いた。
ヴェラにも、アルヴィスと同じく、温もりのようなものを感じた。
放っておけばいいのに、わざわざ私を――他者を助けようとする。
人間とはそういうものなのだろうか。
少なくとも、擬態生物にはない行動だ。
ヴェラは玄関扉をガンガンと叩いて、返事を待たずに開けた。
「アルヴィス、起きてる?」
ずかずかと家の中に入ると、寝ぼけ眼のアルヴィスが床から起き出していた。
私にベッドは不要なのに、彼は頑なに床で寝ているのだ。
「……ヴェラ? なんだってこんな時間に……」
目を擦りながら、ヴェラに尋ねるアルヴィス。
「ノアが具合悪そうなのに、街中をふらふらしてたから保護してきたのよ」
保護……間違ってはいないのかもしれない。
アルヴィスがハッとして、私に目を向けた。
「ノアが一人で? 大丈夫か、ノア?」
私を案じるアルヴィスに、ヴェラが怒ったように言う。
「アルヴィス、あんたね、ちゃんと面倒見てあげなさいよ」
「分かってるよ……」
「だったら、もっとノアを大事にしなさいよ」
ヴェラの声が少し震えている。
「ノアも体調が悪いなら、ふらふら出歩かない! いいわね。もう、あたしは知らないから。じゃあね!」
彼女が腹を立てているのは分かるが、いったい何に対してだろうか。
ヴェラは足早にアルヴィスの家から出ていった。
バタン、と。
乱暴に閉められた玄関扉の音が、静かな夜に響き渡った。




