16 重ねた嘘
意識が戻った時、森は夕闇に包まれていた。
あれだけ降っていた雨はもう止んでいる。
まだ頭がはっきりとしないが、なんとなく幸せな気分だ。
あれほど私を苛んできた、そして必死に抗ってきた飢餓感がまったくない。
幸せな気分にもなるはずだ。
頭がチリチリすることはなく、視界が明滅することもない。
体中に力が湧いている。
今ならあのガレスが襲撃してきても対応できそうだ。
……ガレス?
少しずつ頭がクリアになっていく。
そして、幸せな気分は終焉を迎えた。
傍らに転がる惨状に、一気に絶望の底に叩き落とされた。
無残にも食い散らされたガレスの死体は、特に腹部が酷い有り様だ。
首元も大きく抉れ、骨がむき出しになっている。
体の他の部位も肉が食われ、骨や筋など固い部分だけが残されている。
顔の肉も食われ、誰か判別できない。
見るに堪えない。
それでもガレスだと分かる。
食べたのは、他でもない私なのだから。
「ううぅぅぅ……」
なんで……なんでこんなことになってしまったのか。
人間を食べないと誓ったのに、飢餓感に抗うことができなかった。
所詮、私は擬態生物でしかないというわけだ。
「ああぁぁぁぁ……ぁぁ……」
涙がこぼれてくる。
吐き気を催したが、すでにガレスは栄養として吸収されていた。
数週間の飢餓によるひび割れは全て修復され、包帯の下の肌はつるんときれいなものになっている。
体についたはずの血も、雨がほとんど洗い流してくれたみたいだ。
だが、少しも嬉しくない。
ただ、ひたすら後悔と懺悔の念が押し寄せてくる。
思い出すのはアルヴィスの顔だ。
そう言えば、家を出る時、アルヴィスに「暗くなる前に帰ってこい」と言われていた。
周囲はすでに薄闇になっている。
早く帰らないとアルヴィスが心配する。
でも、あそこに帰っていいのだろうか。私に帰る場所なんてあるのか?
どんな顔をしてアルヴィスに会えばいい?
ガレスが擬態生物に食われて死んだと知れば、アルヴィスはどう思うだろうか。
両親を擬態生物に殺されたうえに、育ての親まで同じ運命を辿ったのだ。
彼はいっそう擬態生物を恨むに決まっている。
その犯人が私だと知れば、彼は私を憎む。
あの底冷えするような視線が私に向けられると思うと、辛く苦しくなる。
そうされても仕方のないことをしたことは理解できている。
すべて、私が悪いのだ。本能を抑えることができなかった私が。
あらためて、自分の体を見る。
肌はきれいで、傷一つない。
だがそれは外見だけだ。中身は薄汚れている。
……いや、中身なんてない。擬態生物の中身は空洞だ。
頬を涙が伝う。
こんな機能まで、人間を模倣しなくてもいいのに。
「とりあえず……戻らなきゃ」
森を出るころには、すっかり陽は沈み、夜になっていた。
街に戻った私は当てもなく彷徨っていた。
アルヴィスに会うのが怖い。
アルヴィスの優しさに触れるのが怖い。
だから彼の家には戻れない。戻りたくない。
彼と会う前の生活に戻るだけだ。
一か所に留まることのない生活。
街を行き交う人は、今はもう肉には見えない。
だが、きっとまた腹が空けば、肉に見えるのだろう。
「ううぅぅぅ……」
誰もいない場所に行き、私は嗚咽を漏らしてうずくまった。
こんなことなら――こんな思いをするくらいなら、感情なんて知りたくなかった。
アルヴィスを好きにならなければ良かった。
――さっさと彼を食べていれば良かった。
「ノア? 何してるのよ、こんなところで」
ふと声がかかった。
声の主を見上げる。
「ヴェラ……」
「夜の一人歩きは危ないわよ……って、どうしたのよ。泣いているじゃない」
彼女が私に駆け寄ってきた。
「何があったの?」
「……苦しいんだ。胸が痛くて……どうしたらいいか分からなくて、頭がぐちゃぐちゃで……」
「アルヴィスに何かされたの?」
私は首を横に振った。
「違う。全部、私が悪いの。私は、取り返しのつかないことを……ううぅぅぅ」
思い出しただけで吐き気がする。
全部ここで吐き出せば、楽になるのだろうか。
私がしでかしたことをヴェラに話せば、彼女は私を殺してくれるだろうか。
だが、そんなことはできない。
「本当に大丈夫? ちょっと血の臭いがするけど、怪我をしてるんじゃ……」
ヴェラが私に手を伸ばしてくる。
「だ、だめ。触らないで……こんな、醜い私に、触らないで……」
私は反射的に後ろに下がった。
今は人間に触れるのが怖い。またあの衝動が襲ってきたらと思うとぞっとする。
私が私でなくなる、あの感覚はもう二度と味わいたくない。
「……醜くなんてないわよ。あんた、きれいじゃない。皮膚病も治ったみたいだし」
ヴェラは行き場を失った手を引っ込めて、そう言った。
「…………」
何も答えられないでいると、ヴェラは深く溜め息をついた。
「はぁ……何があったかは知らないけど、詳しくは聞かないわ。今はね。仕方ないから、アルヴィスの家まで連れていってあげるわ。アルヴィスの、家にね」
「あそこには、戻れないよ……」
なんせ彼の大切な人を食ったのだから。
私には、彼の隣にいる資格などない。
「何、言ってんのよ。あんたが急にいなくなったら、アルヴィスが困るでしょ」
ヴェラが拗ねたように「悔しいけど、あいつ、あんたのことが気に入ってるみたいだし」と呟いた。
「ほら、行くわよ」
そう言って、彼女は私の手を取ろうとした。
「わ、分かったよ……だから、私に触らないで。お願いだから……」
「……変な子ね。ま、いいわ」
ヴェラはそう言って先に歩き出した。
ここでヴェラから逃げることは、今の私なら容易だ。
ガレスを食べたおかげで――ガレスを食べたせいで、全盛期の力を取り戻している。
走るだけでもヴェラを振り切ることができる。
だが、できなかった。
アルヴィスに会うのが怖いのに、彼にまだ会いたいと思っている自分がいる。
一人で会うよりもヴェラがいてくれた方が、なんとなく心強い気もした。
……きっと、私はヴェラのことも好きなのだ。
私に好感を持っていないだろうに、世話を焼こうとする彼女が。
アルヴィスに対する好意とは別物だとは思う。
だからこそ、彼女に対しても私は罪悪感を覚える。
◆
道中、彼女は私に何も聞かなかった。
集合住宅の階段を上がり、三階にあるアルヴィスの部屋に行く。
ヴェラがガンガンと玄関扉を叩き、返事を待たずにドアノブに手をかけた。
「アルヴィス、いるんでしょ?」
そう言いながら、扉を開けるヴェラ。
「おい、いつも勝手に開けるのやめろよ……」
「それよりも、はい。あんたの大事なノアを連れてきたわ」
ヴェラが一歩横にずれ、私の姿がアルヴィスに見えるようにした。
「ノア……! 良かった。暗くなる前に帰ってこいって言ったじゃないか」
「……アルヴィス、仕事は?」
「お前が帰ってこないから今日はやめといた。そろそろ探しに行こうと思ってたんだ」
やっぱりアルヴィスは優しい。
それなのに、私は彼が傷つくことをしてきた。
「じゃ、あとはお願いね。あたしは仕事に戻るから」
ヴェラはそう告げると、踵を返した。
「大丈夫だとは思うけど、気をつけなさいよ」
そして、去り際にそれだけ言うと、外階段を下りていった。
アルヴィスは私を家の中に入れ、玄関扉を閉めた。
「ノアが無事でよかったよ。それに……皮膚病が治ったんだな」
「あ……その、シュタイン先生が教えてくれた薬草が効いたみたい。でも一時的なものだから、完全に治ったわけじゃ……」
そういう言い訳をして、森に向かったのだった。
嘘に嘘を重ね、嘘で塗り固められた私。
「一時的でも良かったじゃないか」
アルヴィスは我がことのように喜び、私を抱きしめた。
私のことを微塵も疑っていない彼の様子に、私は嬉しいはずなのに、胸が苦しくなった。
結局、私は何も答えることができなかった。
彼の腕の中にいるのは、彼にとって仇なのだ。




