15 不可逆の罪
激しい雨の中、振り下ろされるガレスの剣を見ながら、私は考える。
人間の捕食をやめた私は、遠からず灰になって散る。
だったら、このままここでガレスに斬られるのも同じではないか。
ガレスは私の正体について、アルヴィスには伝えないと言った。
きっと本心だ。
愛弟子、それに親代わりと言っていたし、彼もアルヴィスが心を痛めるのは避けたいのだろう。
だから、ここで終わるのも悪くない。
アルヴィスと出会ってからのことを思い出す。
最初は狩人について学ぶためだったが、彼に守られたことで、私の中に小さな変化が生まれた。
人間のふりをする私を、彼は心配し、微笑んでくれて、この青いスカーフをくれた。
そして、私は人間の感情を学んだ。
この想いも思い出も、スカーフと同じ大事な宝物だ。
最後にアルヴィスの微笑んだ顔が見たかった。
それに私はまだ、アルヴィスに「美味しい」と言ってもらっていない。
だったら……
まだ、死ねない!
反射的に体が動き、ガレスの剣を横に転がって避けた。
結果的に、アルヴィスに「美味しい」と言わせられないかもしれない。
だが、そのための努力を放棄していいわけがない。
そのためにはガレスをどうにかしなければならない。
ここを生き延びるという目標ができた私は、さっきまでよりも動きがいい。
体の軽さを生かし、周囲の木々を足場にして、立体的な動きでガレスに肉薄する。
雨に打たれた落ち葉で足場が悪い状況も私に味方をした。
私とは逆に、ガレスの動きに先ほどまでのキレがない。脅威であることに変わりはないが。
逃げるだけでは、ガレスを抑えることはできない。
殺すのはもっての外だ。アルヴィスが悲しむことはしたくない。
剣を握れなくすれば、私を殺すことはできなくなる。
私はそう考え、ガレスの腕を狙うことにした。
「ちっ! 本性を現したか!」
「違う! 私はアルヴィスと一緒にいたいだけ!」
言葉による説得も続ける。
その効果は薄いかもしれないが、私の本心を伝え続ければ、分かってくれる可能性もゼロではないはずだ。
「いずれアルヴィスも食うつもりだろう!」
「そんなことしない! たとえ朽ちようとも、それまで彼と一緒にいたいだけなんだ!」
最後は、擬態生物であることを打ち明けないといけないかもしれない。
アルヴィスに嫌われ、厭われ、恨まれるだろう。
それはとても悲しいことだが、「さようなら」は自分で言わなければならない。
「ならば、ここで死ね! それがアルヴィスのためだ!」
アルヴィスのためを思うなら、確かにそれが一番かもしれない。
だが、決して受け入れられない。
「嫌だ! アルヴィスにスープを作るんだ!」
「スープだと? 何を言っている?」
「アルヴィスに『美味しい』って言わせるまで、私は死ねないんだ!」
ガレスが心底理解できないという表情を浮かべる。
「人間と異なる味覚の貴様には不可能だ」
味覚の違いは私だって痛感している。
それでも、最初は塩と砂糖を間違えたり、塩を入れすぎたりしたが、最近ではそれなりにまともになったと思っている。
だから、頑張ればいつか作れるはずだ。
「そんなのやってみないと分からないじゃないか!」
「やらずとも分かる。根本的に異なる生物だ。互いのことなど理解できるわけなかろう!」
ガレスが重く鋭い剣戟を繰り出す中、私は彼の周囲を跳び回り、彼の腕を狙う。
爪で腕の肉を抉ることができれば、手首の腱を裂くことができれば、もう剣を握れないだろう。
話しながらも、私は懸命にガレスの隙を突こうとする。
「アルヴィスのことをもっと知りたい! もっと理解したいんだ!」
「そうしてアルヴィスを食った後は、他の人間もその毒牙にかけるつもりだろう!」
「なんで……なんで分かってくれないんだ! 理解しようとしないのは、君の方じゃないか!」
その時、再び雷鳴が轟いた。
そして、ガレスの踏み込みが濡れた落ち葉で滑り、彼の体勢が崩れた。
すでに彼に向かって跳んでいた私は、空中で方向を変えることなどできない。
不可抗力でガレスの首筋を深く抉ってしまった。
「ぐ……」
ガレスはなんとか踏みとどまったが、首筋から血が勢いよく出ている。
剣を取り落とし、出血部位を手で押さえる。
私は自分の右手に視線を落とした。
掌は血にまみれ、爪にガレスの肉が付着している。
捕食本能を強く刺激する、新鮮な血と肉。
それは芳醇な香りを放ち、とても美味しそうだ。
だが、ここでそれを口にしてしまえば、止まらなくなる。
絶対に……絶対に口にしてはいけない。
手を振って肉片を落とし、再びガレスに目を向ける。
首からの血が止まらず、その巨躯が地面に倒れた。
「ああ……ああああ……!」
私は思わず、ガレスに駆け寄った。
とんでもないことをしてしまった。許されないことをしてしまった。
「ごめん……ごめんなさい! こんなつもりじゃ……」
私はガレスの抉れた首を両手で押さえた。
だが、その程度で止まるような出血ではない。
さっきの肉片よりももっと濃厚な匂いに頭がくらくらする。
「心配する……ふりをして、私を……食うつもり、だろう?」
「そんなことしない! したくない!」
ガレスの顔から少しずつ生気が抜けていくのが分かる。
それでもなお、私を強く睨むその両目には力が宿っている。
「私の次は、ヴェラか……」
「食べない! もう人間を食べたくないんだ!」
私は首を横に振った。
ガレスは最後の力を振り絞るように、傷口を押さえる私の手首を掴んだ。
「そして、アルヴィスも……貴様に、食われる……」
「するわけないだろう! 彼が好きなんだ!」
私の手首を掴む手に力がこもる。
「化け物の、分際で……愛を語るか……おぞましい、擬態生物……め――」
ガレスは私に触れられたくないとばかりに、私の手を振り払った。
そしてそのまま動かなくなった。
もう、目にも何の力もない。
ただ、押さえていた手を急にのけたせいで、ガレスの血が跳ねた。
その血が数滴、私の口に入った。
入ってしまった。
それが引き金になる。
久しぶりに味わう人間の血は、とても甘美で、濃厚で、全身に快感が駆け巡った。
アルヴィスに出会ってから、ずっと捕食していなかった。
あれから数週間は経っている。
夜な夜な街に出ては、野良犬や鼠を食ってきた。
そんなものでは拭えない飢餓感を、ほんの数滴の血が強烈に刺激した。
「あああ、ああああ……ああああああ!」
そんな少ない量で、満たされるはずがない。
だが、刺激された飢餓感は止まらない。
「だめ、だめ……絶対に、だめだ!」
腹の内から衝動が込み上げてくる。
『食え、食え、食え!』
本能が目の前の肉を食らえと命令してくる。
「耐え、ないと! ぐう、ううぅぅぅ……!」
ガレスを殺してしまっただけでも許されない。
だというのに、さらに彼の死体を食うことなどできない。
アルヴィスの顔が頭にちらつく。
理性で懸命に衝動を抑える。
それに対し、人間の血を摂取した体は歓喜し、もっと寄越せと叫んでいる。
『食え、食え、食え!』
頭が痛い。
それ以上に、心が痛い。
ガレスの死体から目を逸らしたいのに、体も頭も、目すら動かすことができず、凝視する。
激しい雨に流される血を見て、勿体ないと思ってしまう。
「嫌だ……嫌だ……! 助けて……アルヴィス! 助けて!」
アルヴィスを思い浮かべ、理性を保とうと試みる。
『食え、食え、食え!』
歯を食いしばり、涙を流し、耐えようとする。
だが、もう限界だ。
頭の中が真っ赤に染まっていく。
アルヴィスの顔も赤の中に溶けていく。
ああ、結局、私は擬態生物でしかない。
どれだけ、我慢したところで、本能には抗えない。
「アルヴィス……ごめん」
私の呟きは誰に聞かれることもなく、雨音に消えていった。
私の意識は闇に飲まれた。




