10 青いスカーフ
人間を食べないと決めた代償は、容赦なく私の体を蝕んだ。
飢餓は襲ってくるし、身体のひび割れはついに首元に及んでいる。
今は服の襟元で隠せているが、これからどうしたらいいだろうか。
アルヴィスに擬態生物だと露見する前には、彼から離れないといけない。
しかし、なるべく彼と一緒にいたいのだ。
なんとか隠す方法を考えないといけない。
私はアルヴィスを「好き」だと自覚した。
それと同時にこれまで自分がしてきたことが、とてもおぞましいことだと思うようにもなった。
なんせ、私は自分の整った容姿を使って、私を「好き」になった人間を捕食していたのだから。
自己嫌悪に陥ってしまう。
それもまた、私が人間の感情を理解できるようになったせいだ。
なるべくアルヴィスに心配はかけたくないので、笑顔でいるようにはしている。
それでも、彼は私が落ち込んでいることに気づいたようだ。
「ノア、今日は天気もいいし、出かけないか?」
「え……でも」
ちょっとした風で首元をアルヴィスに見られてしまったら……
そう思うと、出かけるのも躊躇してしまう。
「最近、外に出てないだろ? たまには外の空気も吸った方がいいよ」
彼には何の悪気もない。ただ、私のことを気遣っているだけ。
それに彼は私とお出かけしたいようだ。
それで、彼の笑顔が見られるなら、私も嬉しい。
首元だけ死守すれば、問題ない。
「そうだね……分かった、行こう」
そう答えると、アルヴィスは嬉しそうに頷いた。
昼間に外に出るのは本当に久しぶりだ。
太陽がなんだか眩しい気がする。
そういえば、アルヴィスと擬態生物狩り以外で外出するのは初めてだ。
怖くもあるが、楽しみでもある。
ああ、こんな些細なことでも、人間は心が動くのか。
夜と違い、昼間の大通りは活気があった。
人間の食べ物を売っている露店もある。
「うまそうな匂いだ。何か食べるか?」
アルヴィスが私に尋ねる。
だが、私には美味しそうな匂いとは思えないし、人間の食べ物は受け付けない。
人間の感情が分かったところで、人間になれるわけではない。
アルヴィスと同じものを食べることさえできない。
その事実は私の胸を締め付けた。
「ごめん、食欲がないんだ。アルヴィスはどうぞ食べて」
そう言うしかなかった。
だが、アルヴィスは私が食べないなら、と自分も何も食べなかった。
本当にもどかしい。
味が分からなくとも、せめて食べることができれば、アルヴィスに我慢させることはないのに。
しかし、人間の食べ物を食べると、強い吐き気を催す。
……そのことを考えるのはよそう。
アルヴィスと私の、生物としての決定的な違いを思い知らされるだけだ。
ふと横道にいる人間の男女が見えた。
その男女は互いの唇を重ねていた。
「ねえアルヴィス。あれは何をしているの?」
「ん? あー、あれは……」
アルヴィスがどこか恥ずかしそうに口ごもった。
「言いにくいことなの?」
「別にそういうわけじゃ……」
「じゃあ教えてほしい」
アルヴィスは困ったような視線を巡らせ、溜め息をついてから教えてくれた。
「はぁ……好きな人同士でする、キスってやつだ」
「キス……」
人間の男を捕食する時、相手が私に向かって口を突き出してきたのにはそういう意味があったのか。
なぜ、首を自ら近づけようとするのかと疑問には思っていたが、食べやすいのであまり気に留めていなかった。
「私もアルヴィスにキスしてもいいの?」
「え? あ、いや、それは……ここでは、どうかな」
アルヴィスは好きな人同士と言った。
私はアルヴィスのことが好きだが、アルヴィスもそうとは限らない。
これまでの私への態度から、好かれていると思っていたのだが、残念だ。
「ごめんね、変なことを言って」
「別に、そういうことじゃないけど……」
なんとも煮え切らない反応だ。
私も感情を覚えたてなので、アルヴィスがどう感じているかまでは分からない。
「ほら、行くぞ」
アルヴィスは先に歩き出した。彼には目的地があるようだ。
私が首元を気にしながら彼についていくと、アルヴィスが振り返った。
「どうしたんだ?」
「……皮膚病が広がってて」
そう私が答えると、アルヴィスは少し考えてから、言った。
「ちょっと待っててくれ。すぐに戻る」
「あ、どこに行くの?」
アルヴィスはさっと人の波に消えていった。
取り残された私は寂しく感じた。彼が近くにいないだけで、こんな気持ちになってしまうのか。
自分の感情の動きに驚く。
アルヴィスが戻るまで、私は行き交う人間たちを見ていた。
男女の二人組も結構いるが、キスをしている人間はいなかった。あれは横道や路地裏でするものなのかもしれない。
その代わり、手を繋いだり、腕を組んだりしていた。
あれくらいなら、アルヴィスもしてくれるかもしれない。
彼は言った通り、すぐに戻ってきた。
手には紙袋を持っている。
「何か買ってきたの?」
「まあな。ここじゃ恥ずかしいから後で渡すよ」
私は首を傾げたが、今教えてくれる気はないらしい。
再び、歩き出したアルヴィスの手を握ってみた。
「急にどうした?」
突然のことに、アルヴィスが目を丸くして振り返る。
「人が多いから、はぐれないように……ダメ?」
「……ダメじゃないよ」
彼は照れたようにはにかんだ。
頬が少し赤いが、この前の発熱のときの紅潮とは違った。
私は私で、断られなかったので嬉しかった。
そうして手を繋いだまま、二人で向かった先は鐘楼だった。
アルヴィスの家の窓から見えていた鐘楼だ。
今は鳴らす人もいないようだが、その高さからこの街ではよく目立つ。
中には自由に入ることができる。
アルヴィスに手を引かれながら、螺旋階段を上っていく。
石壁のところどころにある狭間から覗く景色が少しずつ高くなる。
結構な高さがあり、体力がかなり落ちている私にはきつかった。
アルヴィスは待ってくれて、休み休み上った。
やがて最上階に到着した。そこは開放的な空間だった。
昔はあっただろう鐘は取り外されている。
高い場所であり、よく風が通る。
私は襟元を押さえた。
開放部からは街を見下ろすことができる。
大通りを行く人間たちは蟻のように小さく見える。
「見晴らしがいいだろ?」
「そうね」
遠くは、街の外にある森まで見渡せる。
「あの辺りが俺の家だな」
アルヴィスがそう言って、ある方向を指さした。
そっちを見てみると、確かに私の――アルヴィスの家だ。
擬態生物の目は遠くのものもよく見える。
「危ないからあまり身を乗り出すなよ」
「うん、分かってる」
この高さから落ちれば、人間も擬態生物も無事では済まない。
「ノア」
アルヴィスがあらたまって声をかけてきた。
景色から彼に視線を移すと、彼は紙袋から何かを取り出した。
……青い布?
「その……皮膚病が広がっているって言ってたし、首を気にしてるみたいだったから、これで隠せたらと思って」
「私にくれるの?」
「ああ、もちろんだ」
突然のことで驚いた。
私のことを気遣って、そんなものを買ってくれるとは思わなかった。
「ほら……ノアに似合うと思ったんだ」
嬉しい。
素直にそう思った。
この瞬間だけは、私を襲う飢餓感を忘れる程度には、私の心は揺れ動いた。
「巻いてみてもいい?」
「そのために買ったんだぜ」
彼は笑い、自ら私の首元にその布――スカーフを巻き始めた。
彼の手が触れるたび、ひび割れに気づかれるのではないかと緊張する。
だが、その心配は無用だった。
「どう、かな?」
「思った通り、よく似合ってるな」
そう言ってアルヴィスは微笑んだ。
本当にアルヴィスは私を気遣ってくれる。
ひび割れを隠すための、ただの布切れだが、私にとってはこの上ない「宝物」になった。
幸せ、というのはこういうことかもしれない。
この幸せは長くは続かないかもしれない。
だが、私が灰になるまで、どんな苦しみにも耐えようと思った。
「……ねえアルヴィス、キスしてもいい?」
勢い余って、もう一度聞いてみたが、
「あー……ここではちょっと……」
彼は耳まで真っ赤にして視線を逸らしてしまった。
結局キスはしてもらえなかったが、私が灰になって崩れ落ちる前に、いつか必ず――と、密かに誓った。




