第88話 距離
夜風が、少しひんやりして気持ちいい。
街の灯も少しずつ減ってきている。
宿までの道を、二人で並んで歩く。
石畳を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
「本当に……楽しかったなぁ~」
流花が、ふっと言った。
声はいつもより柔らかくて、少しだけ舌が回ってない。
「楽しそうだったね。カフェまで笑い声、聞こえてきたもん」
「うん。なんかね、久しぶりに、なーんにも考えずに笑った」
そう言って、流花は小さく伸びをする。
「ねえ、ナギ」
「なに?」
少しだけ、間があった。
流花は夜空を見上げたまま、ぽつりと言う。
「……好きだなぁ」
ナギの足が、ほんの一瞬止まりそうになる。
え?
今、なんて?
心臓が、嫌な音を立てた。
「え、えっと……?」
ナギがそう聞き返すより早く、
流花はくるっとこちらを向いて、にこっと笑った。
「この街」
ああ、と同時に、
まだ落ち着かない鼓動。
「この街、ホントに好きになりそう」
何でもない話みたいに。
「人もさ、あったかいし」
「ごはん美味しいし」
「仕事も楽しいし」
指を折りながら数えて、
最後に、ちょっと考えてから言う。
「……風も、気持ちいいし」
ナギは、息を整えるのに必死だった。
「……そっか」
それだけ言うのが、精一杯。
流花は気づいていない。
自分が、どれだけ近くにいるか。
歩くたびに、
肩が、たまに触れる。
「ねえ、ナギ」
「うん」
「私さ、ここ来てよかったって思ってる」
少し酔っているからか、
声が正直すぎる。
「なんか……」
「一人じゃない感じ、する」
ナギの喉が、鳴った。
それは、
自分が理由になってしまう言葉だから。
「……それは」
言いかけて、飲み込む。
流花は、そんなナギを気にも留めず、
また前を向いて歩き出す。
「明日の会議、がんばろーね」
「私もこの街のためになれるようにがんばる」
「うん……」
「ナギも、ちゃんと寝なよ?」
「最近、顔疲れてる」
距離が、近い。
近すぎる。
ナギは心の中で叫ぶ。
――無自覚は、反則だ。
流花は、何も知らないまま、
楽しそうに歩いている。
「あ、もうすぐだ、宿の灯見えてきたよー」
流花が、何でもないことみたいに言う。
その一言で、
ナギの胸の中が一気にざわついた。
――もう着く。
――この時間、終わる。
――いや、でも、早く着いてほしい。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
このまま、
並んで歩いていたい。
流花が、隣にいて、
たまに肩が触れて、
酔った声で、ため口で、
無防備に笑ってる、この時間が。
ずっと続けばいいって、思う。
でも同時に、
早く部屋に戻って、
一人になって、
この気持ちを落ち着かせたいとも思ってる。
心臓が、うるさすぎる。
――これは、まずい。
――近すぎる。
――可愛すぎる。
「……ナギ?」
流花が、少し首をかしげてこちらを見る。
「どうしたの?」
「コーヒーで酔っちゃった?」
近い。
顔が。
声が。
「……なんでもない」
必死で、平静を装う。
宿の入口が、すぐそこにある。
早く着いてほしい。
でも、まだ着かないでほしい。
進みたいのに、
立ち止まりたい。
ナギの中で、
感情が全部いっぺんに暴れていた。
――うわぁ……。
心の中でそう叫びながら、
それでも足は、前に進んでいた。
夜の風街で、
好きになってはいけないと思いながら、
もう、とっくに遅いことを知って。
距離が近づくと、言葉より先に気持ちが追いついてしまう夜があります。
流花はただ楽しくて、
ナギはただ必死で、
同じ道を歩いているのに、見ている景色は少し違う。
進みたい気持ちと、立ち止まりたい気持ち。
その間で揺れる時間
ここまで読んでいただきありがとうございます




