第17話 湯屋
湯屋の暖簾をくぐると、
外よりも少しだけ、空気が重くなった。
湿った木の匂い。
石の床に落ちる水の音。
奥から、湯が動く低い音が聞こえる。
「こんばんは」
おかみさんが声をかけると、
番台の向こうから軽く手が上がった。
「おつかれさま」
昼とは違う、抑えた声。
脱衣場は広くはないけれど、
使い込まれた棚には草で編まれたかご
がきちんと並んでいる。
手拭いを重ねて置く人、
静かに腰を下ろす人。
流花は、いただいた布を丁寧に畳んだ。
湯気の向こうに、人の気配がある。
おかみさんから石鹸とシャンプーを借りて
身体を洗ったあと湯に浸かる。
肩まで浸かると、
体の芯からほどけていくのがわかった。
「ふう……」
思わず、息が漏れる。
ふと見ると少し離れたところで、
おかみさんも静かに湯に浸かっている。
「夜の湯屋はね」
ぽつりと声がした。
「一日の終わりが、ちゃんと来た感じがする」
「はい」
流花は、湯の揺れを見ながら答えた。
「昼はさ」
「考える暇もないでしょ」
「でも、ここに来ると」
「みんな、少しだけ戻ってくる」
誰も急かさない。
誰も詮索しない。
湯の音だけが、時間を刻んでいる。
しばらくして、
先に上がる人が立ち上がった。
「お先」
「はい、おつかれさま」
短い言葉が交わされる。
流花も、名残惜しく湯を離れた。
外に出ると、夜風がひんやりと肌に触れた。
濡れた髪が、ゆっくり冷えていく。
帰り道は、来たときより静かだった。
店へ戻る途中、
「今日は、よく頑張ったね」
女将さんが、前を向いたまま言う。
「……ありがとうございます」
少し歩いてから、
流花は思い出したように口を開いた。
「……あの」
「今さらなんですけど」
「おかみさんと、ご主人」
「何て呼べばいいですか?」
「名前、聞いてなかったなって思って」
一瞬きょとんとして、
それから声を立てて笑った。
「あはは」
「ほんとだね」
「キヨでいいよ」
「みんなそう呼ぶし」
「ご主人は?」
「ヒロさん」
「呼び捨てでもいいけどね」
「……キヨさん、ヒロさん」
口に出してみると、
胸の奥で、少しだけ何かが落ち着いた。
「明日からは、それで」
「はい」
店の裏口から入り、
二人で静かに階段を上る。
木の段が、きし、と小さく鳴った。
二階の踊り場で、キヨが足を止める。
「じゃ、今日はここまで」
「ゆっくり休みな」
「はい」
流花は、自分の部屋の戸の前に立つ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
キヨは少し先の部屋へ入っていった。
流花は、戸を開ける。
カーテンと、簡素なベッド。
でも今日は、
そこにちゃんと「帰ってきた」感じがあった。
布を整えて腰を下ろす。
湯の余韻が、まだ体に残っている。
読んでいただきありがとうございます。
やっと女将さんとご主人に名前をつけることが出来ました(笑)
次回は考察回です
また来ていただけると嬉しいです!




