第11話「ここに来た理由」
ランチの波が、ようやく引いた。
暖簾の向こうは静かで、
店の中には、片づけの音だけが残っている。
作業着の客たちは帰り、
モクレンも仕事があると言って先に出ていった。
残ったのは、
流花とナギ、女将さんとご主人。
「じゃ、食べよっか」
女将さんが言って、
遅めのまかないが並ぶ。
昼の残りを少し整えただけの、
簡単なごはん。
「いただきます」
流花は、少し遠慮しながら箸を取った。
「どうだった?」
女将さんが聞く。
「忙しかった?」
「……楽しかったです」
その言葉に、女将さんが笑う。
「でしょ」
食事が終わると、
女将さんは湯のみを並べて、お茶を入れ始めた。
湯気が、ゆっくり立ちのぼる。
「今日は助かったよ」
背中越しに、そう言ってから、
「午後にでもさ」
振り返る。
「引っ越してくる?」
流花は、一瞬、言葉を失った。
「荷物は?」
その問いに、少し間が空く。
「……荷物は」
流花は、湯のみを受け取りながら言った。
「なにも、ないんです」
女将さんの手が止まる。
「……え?」
「どういうこと?」
流花は、視線を落とした。
「気づいたら」
「ここに、来ていたので」
ナギが、はっとした顔で流花を見る。
「来ていた、って」
「その……」
女将さんも、ご主人も、黙って待っている。
「ここじゃない場所で」
流花は、ゆっくり言葉を探す。
「働いてました」
「料理を」
「毎日」
「楽しくなかったわけじゃないです」
「逃げたかったわけでも」
ご主人が、小さく頷く。
「忙しかったけど」
「ちゃんと、生活で」
「家族も、いて」
そこで、少しだけ言葉が詰まる。
「仲が悪かったわけでもないです」
「連絡を取ってなかったわけでも」
「……今も、たぶん」
「普通に、暮らしてると思います」
女将さんは、湯のみを置いた。
「じゃあ」
「どうして、ここに?」
流花は、少し考えてから答えた。
「分かりません」
「来ようと決めたわけでも」
「呼ばれた、って感じでもなくて」
「ただ」
言葉を選ぶ。
「ここなら」
「火を、ちゃんと見られる気がして」
「音も」
「人の声も」
ナギが、ぽつりと言う。
「……合ったんだね」
流花は、小さく笑った。
「たぶん」
女将さんは、しばらく黙ってから言った。
「じゃあさ」
「荷物がないなら」
「増やせばいい」
ご主人が、短く言う。
「飯も」
「寝る場所も」
「ここにある」
流花は、湯のみを両手で包んだ。
――逃げてきたわけじゃない。
――でも、ここに立っている。
その事実だけが、
静かに、そこにあった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、流花がここに来た経緯を少しだけお話しする回でした。
まだはっきりしないことも多いですが、
次回は、この世界について少しだけ謎が解けていきます。
また読んでいただけたら嬉しいです。




