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「俺、王子やめて音楽で食っていこうかな」「ははは、いいんじゃないですか」こんなことを言ってしまったばっかりに、誕生日プレゼントが自作のラブソングに

作者: quiet



 要は、人生を楽しむ才能がなかったということなのだと思う。

 ミルリカ・イゥニーゼは、あの頃の日々をいつかそう振り返る時が来る。



 一番古い記憶は、たぶん六歳のことだった。


 体調が悪かった。これが一番最初だということ自体がいかにも辛気臭いとミルリカは思うけれど、そうなっているものはそうなのだから仕方がない。頭がぐるぐるとして、お腹が気持ち悪くて、今にも倒れそうだった。だというのにその日も彼女は、何でもないふりをして『お勉強』に向かっていた。


 褒められたかった。


 あの頃、それ以外に何かをしていた記憶がミルリカにはない。伯爵家の次女だ。旅行のひとつやふたつは行っていたはずなのに、思い出すことといえば邸宅の中、家庭教師を呼びつけてはペンを握っていたこと、あるいは何度も何度も人に挨拶をする方法と、人前で食事をする方法を反復し続けたあの時間のことだけ。


 普段は、もっと完璧にできていた。

 けれどその日は、そんな余裕がなかった。


 普段だったら答えられただろう質問に答えられなかった。挨拶の言葉に、心を込められなかった。食欲なんてあるわけなくて、シェフが一生懸命作ってくれたはずの料理を、ほとんど残してしまった。


 その日の終わりに、家庭教師はこう言った。


「今日は特にしとやかで、素晴らしい出来でしたね。ミルリカお嬢様はきっと、大変立派なご婦人になられますよ!」


 これが最初の記憶だから、ミルリカはこの言葉をかけられる前、自分がどういう子どもだったのかを思い出すことができない。ただ確かなことは、そのときはっきりと、まだ言葉にできずとも、こう思ったということだけ。



 私って、何も期待されてないんだ。



 それからの記憶は、爆発的に増えていく。

 ミルリカが「自分には人生を楽しむ才能がない」と思うように至るまでの、とても些細な、たくさんの出来事が。


 何も期待されていないとわかってからは、何でも適当にやり過ごすようになった。勉強はそれなり。行儀作法はそこそこ。段々と家格もわかってきて、このくらいにしておくのが嫌みがないだろうという当たりをつけられてからは、もっと手を抜くようになった。それでも何の問題も起こらなかった。気の抜けたところがむしろ愛嬌になったのか、社交は特に上手くいった。貴族令嬢の役割なんて、最終的には政略結婚のパーツになることだけ。そうと知っていたから、この部分に負担を感じなかったとき、ミルリカにはわかった。


 こんなものでいいんだ。


 慣れてしまえば、こんなに楽なことはない。


 だというのに彼女は、ときどき考えていた。

 それなりに豪勢な食事。平民にとっては贅沢で、自分にとってはごく普通の牛の肉。丁寧にナイフを入れて切り分けながら、口に運びながら、咀嚼しながら。


 この肉も生前、己は幸せだと考えていただろうか、と。


 何が不満だったのか、何を求めていたのか、いずれわかるようになる。それでもやはり、この時期の自分のことを思い出すと、ミルリカはこう思う。


 要は、人生を楽しむ才能がなかったのだ。

 彼と出会ってからも多分、ずっと。





「第二王子とですか?」


 父の執務室に呼ばれたとき、いよいよその時期かと察してはいた。

 けれど、いざ聞かされた婚約者の名前は、全く予想を裏切った。カイスラル・ルブリット。誰の名前なのかは知っていた。知っていたからこそ、出てくると思わなかった。


「私との婚約にしては、家格が釣り合っていないと思いますけど」

「その認識で正しい」


 父は厳格な人物ではあったけれど、その厳格さに足るだけの力を持っていなかった。

 馬鹿がつくほど丁寧に、彼は十四歳のミルリカに説明した。具体的な人名や家名が飛び交う複雑な政治事情。ミルリカは、そうした厳密性をもっと幼いころに捨てている。言葉を右から左に聞き流し、左に積み重なったものの中から、抽象的な構図だけを引き抜いて再構築する。


 つまり、と彼女は訊ねた。


「失脚した第二王子を大人しくさせておくために、わが家が選ばれたと?」


 その認識で正しい、と父は頷いた。


 元になっているのは、王位継承の鍔迫り合いだった。その鍔迫り合いの結果として、第二王子側が競り負けた。負けたなら負けたなりの振るまいをしていないと、かえって失うものが大きくなる。負けたなりの振るまいというのはたとえば、自陣営の中でもそんなに大したことのない家と結婚することで、もう反抗の意志はありませんと周りに示すことだったりする。


 負け犬のための、ぴかぴかのトロフィーになれという話だった。


「わかりました」

 ミルリカは、何も感じなかった。


 そういうものだ。自分の結婚相手がどうこうなんて、その家の当主だって自由には決められない。勝手に決まって、勝手に流れていく。川と同じ。逆らおうとしても疲れるだけ。適当に身を任せていればいい。ミルリカがそのころ思っていた、貴族令嬢がやらなくてはいけないことは、たったひとつだけ。


 何があっても、へらへら笑っていること。

 父に確かめてみれば、きっと彼も頷いたことだろう。その認識で正しい、と。




 さて、顔合わせはそれほど時間を置かずに行われた。

 それほど力はないが、イゥニーゼ家は中央貴族のひとつだ。ミルリカもまた王都の邸宅を宿としていたから、王宮に参上することもさして苦ではない。


 そのまま二時間待たされたことも、まあ。

 こちらでお待ちくださいと侍従に案内された応接間。紅茶を一体何杯出されるのか、もしかするとこのまま自分を溺死させるつもりなのか。冗談半分でそう思ってしまうほどの時間が過ぎて、何度か侍従にも訊ねた。殿下は本日はお忙しいのでしょうか。ええ、と頷く彼の顔を見ると、実際には何も忙しくないのだとわかった。


 気持ちはよくわかった。


 この間まではこの国の一番上に立つかどうかを争っていた人間が、今では負け犬扱いで冴えない女と残念会だ。ぼくおなかいたいからやすむ。そうなってもおかしくはないとミルリカは思っていたし、どうせ今回の顔合わせも本人以外の誰かが決めたものだろうとわかっていた。人は流れに逆らえない。王子でも。護衛についてきたイゥニーゼの騎士の方が苛立ち始めたのを、まあまあ、とミルリカは自分で宥めるような有様だった。


 それでも大したもので、二時間後、第二王子は応接間にやってきた。


 陰気な子、というのが第一印象。


 少し長い黒髪に、血の気の失せた肌。目の下にはクマが残って、頬骨が肉の下からうっすら形を覗かせる。美貌を謳われた母親に似ているのが、なお印象を悪くしていた。泥を被って割れ欠けた宝石ほど、痛々しく見えるものはない。


「初めまして、殿下。ミルリカ・イゥニーゼと申します」

「…………」


 挨拶なんて、到底望むべくもなかった。

 意図して無視しているというより、単に疲れ果てて反応ができていないという方が近い。こちらが自己紹介をしている最中、ときどき唇が動く気配がして、結局何の声にもならずに終わることがしばしば。ひょっとすると二時間の待ちぼうけも、ベッドから起き上がってここに歩いてくるまで二時間かかっただけなのかもしれないと思えるほどの無気力ぶりだった。


 仕方ない、とこれもまたミルリカは思った。

 心が広いからというわけではない。予想していたから。


 だって、相手は政治に振り回された挙句に放り出された、十二歳だ。


「お近づきのしるしに、本日は殿下に贈り物を持ってまいりました」


 騎士に目くばせをすれば、流石にこのあたりは気が利く。すぐに持ってきた。水色の、小さな子犬くらいならすっぽり入ってしまうような箱。


「ぜひ、お受け取りください」


 これからの関係が良くなるに越したことはない、とミルリカは思っていた。

 一生を共に過ごすことになるわけだから。必要以上に好かれる必要はない。せっかくだから愛し合おうなんて思わない。それでも、ストレスにならない程度の関係は築いておきたい。そう思って、今日はここに来た。


「……ああ、ありがとう」


 小さく呟いた第二王子――カイスラル・ルブリットの声は、掠れていた。

 王族だけあって、根本的な礼儀だけはどんな限界状態になっても忘れないらしい。ぜひ開けてみてください。ミルリカが言えば、カイスラルは緩慢な手つきで箱のリボンに指をかける。


 ゆっくりと、その蓋が開く。



 ぽん、と飛び出した。



 侍従と騎士は仰け反った。カイスラルは仰け反りもしなかった。箱の中から飛び出てきたのは、別に何のことはない。ただのちょっとした魔法。そよ風が上向きに吹いて、花びらを散らしただけの、ほんの些細ないたずら。


 カイスラルはそれでも、目を丸くしていた。

 丸くなった目が、花びらが跳ね返す光を受けて、初めてきらりと輝いた。


「カイスラル」


 子どもを手なずける方法なんて、簡単だ。


 侍従が呆気に取られている。騎士は割って入ろうとしているけれど、手練れなだけにかえって贈り物の無害なことがわかっていて、迂闊に手出しできずにいる。その隙間を縫って、ミルリカは立ち上がる。


 立ち上がって、カイスラルの前に屈みこむ。

 その痩せた口元を、人差し指で持ち上げた。



「悲しい顔をしてたって、用済みになったあなたを助けてくれる人なんか、誰もいないよ。自分のことは、自分で笑わせてあげなくちゃ」



 この人は違う、と思わせること。

 それがたったひとつ、子どもの心を開く条件。



 ね、とミルリカは笑いかける。カイスラルがこちらを見る。今初めて、目の前にいる人間の顔を見たような目。カーテンから差し込む朝日に気付いたような顔。彼は小さく、こう呟く。


「……うん」


 ほら、とミルリカは思った。

 へらへら笑っていれば、それで仕事はおしまいだ。





「間違っても政治に興味は持たせるな」


 というのが父であるイゥニーゼ伯爵からの命令で、ミルリカとしてはその命令に答える言葉はたった一セットしかない。かしこまりました。お任せください。


 と言って、そこまで積極的に対策を講じる必要があるとも思えなかった。


 あれからカイスラルは、ミルリカに大変懐いた。三日と置かずに茶会の招待状が来る。場所はいつも王宮の庭園だった。お茶を飲んで、お菓子をつまんで、庭師が整えた美しい景色の中を、穏やかな日差しを浴びてゆったりと歩く。ただそれだけ。


 政治の話なんて、向こうから嫌がった。


 大体出会ってから半年が過ぎたころに、カイスラルは言った。もう政治にはかかわりたくない。静かな場所で、何もせずに暮らしていきたい。それはそれで贅沢な生き方だということを、あのころの彼はどのくらいわかっていたのだろう。ミルリカはもちろん、それを否定しなかった。周りの政治家たちに散々に振り回されて捨てられた彼は、捨てられてなお従順で、周りから求められる役割と本当の望みが全く一致していた。


 放ってもかまいはしないはずだ、とわかっていた。




「では、芸術でもやりますか」


 だからその提案は、何の必然性もない、ただの雑談のひとつでしかない。


「芸術?」


 言葉にしたその場所は、薔薇の庭園だった。

 少し早い初夏に、まだつぼみのままの花もいくつもある。日の当たるこの場所に差す影は、花と傘と、たったのふたり。ええ、と頷きながらミルリカは、そのつぼみのひとつにそっと触れた。


「絵でも歌でも、それこそ庭園でも」

「どうして」

「芸術に耽溺している人間に政治を任せようと思う者はいません」

「そんなこともないだろう。優れた芸術は優れた思想を生むはずだ」

「思想家は政治家にはなれませんから」


 そのころ口にしていた言葉は、ほとんどが冗談半分だった。

 けれど、十代の頃の二歳の差というのは、随分大きい。カイスラルはそんな放言だって真面目に受け止める。口元に手を当てて考え込む。ミルリカは彼より少し高い背で、それを見下ろしている。


「んむ」

 そっと手を伸ばして、つぼみに触れるように、彼の頬に触れた。


「なんだ」

「以前よりふくよかになられましたね。殿下」

「太ったという意味か」

「健康になられたということですよ。前は白骨と区別がつきませんでした」


 なんだそれは、とカイスラルは言う。ミルリカの手を振り払って彼は、


「……健康になったにしては、いつまでも君の背丈を抜けないな」

「私の方が年上ですからね。仕方ありません」

「女子は十五までは背が伸びるんだったか」

「私は特別製なので、殿下と同じペースで二十になっても三十になっても伸びますよ。私たちがお話をするときは、これからいつまでもこの角度です」


 そんなわけがあるか、と彼は言った。

 声音だけは不機嫌そうに。けれどその頬は、笑みにほころばせて。


「芸術か。他に、やることもないからな」


 やってみるか、と彼は言う。

 そうしましょう、とミルリカも笑う。


 それが、どんな結果に繋がるかも知らないで。





 意外と、というより印象通り。

 カイスラルは、不器用な少年だった。


 まず、絵は全くもってだった。よく物を見ていないし、自分の手が思ったとおりにイメージを引けないことに耐えられない。静物のスケッチを何度か繰り返した末に、「俺には向いていない」と筆を放り出しておしまい。人物画は一枚も描かないで終わってしまった。


 庭園作りは論外だった。虫が苦手らしい。花草の世話するたびに虫と出会って悲鳴を上げる。横からミルリカが手を出して、ぽいっとそれを掴んで捨てると、助けてやったというのに信じられないものを見るような目を向けてくる。ミルリカからすれば、カイスラルの方が不思議だった。毒を持つならともかく、自分より遥かに小さなこんな生き物、一体どこをどう恐れる必要があるというのか、わけがわからない。


 彫刻は少しだけ気に入った様子だった。物の形を変えるための動作のダイナミックなところが気に入ったらしい。しかし当然、ダイナミックなばかりでは作品はできない。あえなくこれも挫折。


 絵がダメで、建築や造形もダメとなると、残るのはあとふたつくらい。

 詩作か、音楽。


「詩はちょっとな」

 少し苦いお茶を飲みながら、彼は言った。


「苦手なんですか? 書きものの出来は悪くないと聞いていますが」

「作文や読解は詩作と違うだろう。何というか俺には、詩にするほど湧き上がるものがない」

「『俺を蔑ろにするやつはみんな死ね』とか書けばいいんですよ」

「…………」


 カップを手に持ちながら、呆れた顔でカイスラルはミルリカを見る。


「前から思っていたんだが、君のそれは俺を元気づけようとしてやっているのか?」

「え? ああ、そうですよ。もちろんもちろん」


 私って優しいですから。さらりと言って、ミルリカもカップを手に取る。お菓子も手に取る。お茶が苦いから、お菓子の甘さが際立って美味しく食べられる。なおもカイスラルは懐疑の目を向けたまま、


「まあ、だから楽器の方がいいかな。ミルリカは何かやっているのか?」

「あはは。殿下。余りものの女に何を期待してるんですか」


 私は何もできません、とミルリカは胸を張る。そんなこともないだろう、とカイスラルは笑いもしない。


「絵でも造形でも、何でも俺よりできるじゃないか。楽器のひとつやふたつお手のものなんじゃないのか?」

「買い被っておいでですねえ。じゃ、今から音楽室に行って確かめてみましょうか」


 失脚した第二王子とは言っても、全く王族として扱われないというわけではない。

 このあたりは当然、第一王子の派閥も心得たものだ。特にカイスラルは、第一王子に対して個人的な恨みを抱いているわけではない。粗末に扱わず、かといって厚遇もせず。適温の水槽の中で飼い殺しを試みる彼らだから、少し声をかければ、王宮の音楽室のひとつを貸し切ることだって容易い。


 ベージュ色の、やわらかい部屋だった。


 楽器はいくつも出ている。ヴァイオリンやフルートはもちろんのこと、遥か遠い国から来た珍しい形のものだって用意されている。どうやらこの作戦は、お偉方のお気に召したらしい。今後も十分な支援が見込めそうだ。


 これでカイスラルも楽しんでくれるなら、言うことはない。


「何からやりますか?」

「どれが簡単なんだ」


 素朴なその質問に、しかしミルリカは笑ってしまう。


「自信を喪失されていますね」

「するだろう、それは。俺も自分がこれだけ不器用な人間だとは思わなかった」

「確かに殿下は不器用ですが、人並み外れてというわけではないと思いますよ。ただ、すぐに投げ出されるだけです」

「……耳が痛いな」

「あらお可哀想。誰のせいでしょう」


 自分、とカイスラルが素直に言うから、さらにミルリカは笑ってしまいそうになるけれど、


「初心者の時期が一番挫折しやすいというのは、誰にでも共通することです。ただ、殿下の場合は芸事の家庭教師がすぐに『おやめになりますか?』『どうぞどうぞ』と許してしまうものだから、そのせいでしょうね」

「君も初心者の頃は強要されていたのか?」

「もちろん。そしてさっさとやめました。殿下と一緒で根気がありませんからね」


 さて、とミルリカは楽器を見渡した。

 何から勧めるのがいいだろう。打算も何もなく、ただ普通に考える。弦や笛は音を綺麗に出すまでに少し苦労するかもしれない。打楽器は音こそ出るけれど、メロディが薄いから早めに退屈してしまうかも。


 そうなると、初心者向きはこの楽器。


「殿下、こちらに座ってください」


 長い椅子の右端に、ミルリカは座った。

 左の開いた場所を撫でると、少しだけ戸惑った後、カイスラルは素直にそこに座ってくる。その間にミルリカは、目の前の楽器の蓋を開ける。


 白と黒の、つるりとした鍵盤が現れる。

 ピアノだ。


「まさかいきなり弾けと言うんじゃないだろうな」

「流石ぼっちゃま。凡百の家庭教師が言うことなんてお見通しでいらっしゃる」

「できないぞ。絵と同じで、俺は音楽の類も全く習っていない」

「できますよ。ピアノなんて押せば音が出るんですから。一番簡単な楽器です」


 こうして、と隣で見本を見せてやる。

 人差し指で、白鍵の一つを押下する。ぽーん。澄んだ音が部屋の中に響く。殿下も。そう言って促せば、恐る恐るの顔でカイスラルは同じようにする。


 ぽーん。


「ほらできた」

「こんなのはできたとは言わん」

「ではできたとは言えないことをもう少しやってみましょうか。今度は三つです。親指、中指、小指。戻って中指、親指の順。その後はまた繰り返し、親指、中指、小指……」


 タイミングは、とミルリカは少しだけ腰を浮かす。近くのメトロノームを手に取って、ひどくゆっくりと動かす。この音に合わせてください。カイスラルは頷くけれど、こうも訊く。


「これが何だ」

「こうです」


 合わせた。


 ミルリカの両手が、鍵盤の上で踊る。カイスラルは一瞬呆気に取られて、けれど流石は従順な第二王子様と言うべきか、指は三つの鍵の上を規則正しく歩き続ける。やがてそれがふらりと別の白鍵の上に逃げ出せば、ミルリカはそれに合わせてメロディを変える。


 何度も、何度も。


「……やっぱり、噓だったじゃないか」


 最後の一音が響き終えたとき、ぽつりとカイスラルは呟いた。


「少なくとも君は、ピアノはお手のものだ」

「初心者さんには天才作曲家に見えるかもしれませんが、このくらいは少し齧れば誰にでもできますよ」


 ミルリカは、要点だけをつまんだ種明かしをした。音楽にもお決まりのフレーズがあって、私はそれを思い出しながら鍵盤を押しただけです。しかし、とカイスラルは反論した。俺が別のところを押しても君はついてきた。


「それはそうでしょう。隣にいるんですから、殿下が次にどの音を押すかくらいは見てわかります。それに合わせて別のフレーズを引っ張ってきただけですよ」

「……いつも思うんだが」

「はい」

「君といると、俺は何か騙されている気がする」

「あら賢い。次はその『何か』がわかるようになるといいですね。おちびさん」


 ふっと笑って、白鍵に触れるようにカイスラルの鼻の頭を押す。

 押されたカイスラルは、むっとした顔で、


「言っておくが、母上も父上も背は高い。学園に入るころには、君は俺を見上げるようになるぞ」

「いいですねえ。背が高くてお顔も格好良くて。学園での殿下はきっと人気者ですよ」

「……馬鹿にしているだろう」

「いえいえ。ただ、殿下が新入生のころ私は上級生ですから。将来の先輩として今のうちから学園生活への期待を膨らませてあげようと――っと、」


 そうだ、


「音楽はお気に召しましたか? お坊ちゃま」


 ミルリカは訊ねる。殿下は大変優秀な方ですから、このうえ音楽までとなれば、さらに輝かしい学園生活が待っていることでしょうね。そんな風に、冗談めかすことも忘れずに。


 その問いに、まさかカイスラルは、まだ見ぬ薔薇色の学園生活に思いを馳せていたわけではないだろう。ただ、自分の右手の指を見た。親指、中指、小指。白鍵の上を行き来していたその三つを。それから目を閉じる。記憶の中にある音を確かめるように。


「ミルリカ」


 それからカイスラルが返した答えは、「はい」でも「いいえ」でもない。

 彼は、こう言って訊ね返してきた。


「また、こうやって一緒に弾いてくれるか?」





 人気者の第二王子殿下というのは、満更ミルリカの放言には終わらなかった。


 王国には学園と呼ばれる四年制の教育機関がある。あるが、ミルリカはあれを教育機関とは思わない。強いて言うなら社交場であり、競技場と呼ぶのもいいかもしれない。何せ入学は十五歳から。貴族の家に生まれついた子どもであれば当然、そのころにはほとんどの教育を終えている。


 これから本格的に家の仕事に就く前の、長い長い社交パーティが学園生活だ。

 そして同時に、定期的に行われる『教育成果の確認試験』は、どの家の誰がどう優れているのか、それを誇示し合う勝負事の場になる。


 もちろん、ミルリカはこんなもの、適当にやり過ごしている。

 しかし、後から入ってきたカイスラルは違った。


 元はと言えば、七つ年上の第一王子に対抗すべく、芸事の一切を排除して剣と魔法と勉学を叩き込まれてきた、正真正銘のエリートだ。伯爵家の次女であるミルリカがやる『それなり』とは程度が隔絶している。根気のないカイスラル殿下は、必要なことだけは根気にかかわらず叩き込まれてきた。その成果が、そのまま出た。


 剣を取れば、まず負けることはない。

 ペンを取れば、その運びが淀むことはない。

 呪文を唱えれば、誰より整然と。


 その上お顔が大変お美しくあられるとなれば、それは人気も出るというもの。学園の中を歩くだけで女生徒が遠巻きに人垣を作るほどで、二学年も離れたミルリカですら、もう何度もこんな言葉をかけられている。


「ミルリカさんが羨ましい。あんなに素敵な婚約者がいらっしゃるだなんて、ああ、私がもしもあなただったなら!」




「よく言うな、あいつらも」

 ある日の昼下がり、たまたまカイスラルがそれを耳にした。


 学園の中にもテラスくらいはある。ついさっきまでミルリカは同級生たちとこの場所で茶会を楽しんでいて、そこにカイスラルが顔を見せたものだから、蜘蛛の子を散らすように皆いなくなった。捨て台詞は「お邪魔してはいけませんから」「どうぞごゆっくり、うふふ……」「きゃーっ、本物!」の三種類。最後のは王族に向けるにはやや危ういものがある気安さだけれど、そこはそれ、


「最初のころの俺を見たら、とてもあんな台詞は出てこないぞ」

「ええ。赤ん坊のころの殿下は、もう夜泣きがひどくって……」

「知らないだろ、そのころの俺のことは」


 相手は、失脚した王子だから。


 残されたティーセットに、ミルリカはカイスラルの分のお茶を淹れる。ありがとう、と彼はそれを受け取って、薄く溜息を吐く。


「疲れるな。兄上への手前、あまり優秀すぎるのも良くないが、手を抜きすぎても王家の威信にかかわる」

「大変ですねえ」

「大変だが、投げ出したらもっと大変なことになる。さっさと公爵位をもらって、静かな場所で暮らしたいよ」


 人気者になっても、カイスラルの性根はそれほど大きくは変わらなかった。

 昔ほどべったりではなくなったけれど、それでも通う建物が同じだから、ほとんど毎日顔を合わせている。そして顔を合わせるたびに「お」と声をかけてきて、そのままこうしてお茶をともにすることもしばしば。他に人がいれば、いつもの颯爽とした振る舞いのまま。他に人がいなくなれば、昔のように少し後ろ向きになって、こんな風に言う。早く静かに暮らしたい。


 その割に、


「いいんですか。楽団の方は」


 あのころミルリカが撒いた耽溺の種は、思わぬほど大きな花を咲かせ始めていた。


 訊ねると、ああ、とカイスラルは表情を明るくして、


「まだ二年目も半ばだから、そこまではっきりとした展望があるわけでもないが。ラズライラもクージェも将来的に楽団を続けたいという意思はあるらしい。どうせ俺が封じられるのもそのあたりの土地だし、将来的には三家を跨ぐような楽団を設立するのもいいかという話になっていてな」

「あら。随分大きな構想を練っているんですね」

「というより、他の家と共同することで俺の名を薄めたいというのもある。あまりに優れた楽団に俺の名が冠されていると、それはそれで変に影響力が出てしまうからな」


 初心者の思い上がりでも、大言壮語でもない。

 確かに、上手く育てることができたらかなり大きな名を持つ楽団になるだろう。ミルリカすら、傍から見ていてそう思った。


 カイスラルはあの連弾からずっと、音楽にのめり込んだ。


 ひょっとすると、何か躊躇なく打ち込めるものができる日を待っていたのかもしれない。両手指をピアノに慣らしながら楽典に励み、十三歳になってからは弦楽も吹奏楽も手をつけ始めた。本格的な教師も就くようになり、学園に入学すればすぐさま音楽に造詣の深い同級生を捕まえて楽団を設立。彼らもまたミルリカと同じく、家の跡取りでも何でもない、はっきり言ってしまえば冴えない立場の次男三男ばかりだったけれど、それがかえってカイスラルを安心させた。


 すでに何度か定期公演を行って、今やカイスラルは当初の目的通り『才こそあるが、それを手放して音楽ばかりに打ち込む浮世離れした次男』の立ち位置をつかみつつある。


「では、卒業後が楽しみですね」

「ああ。本当に――っと、そうだ」


 思い出したように、彼は服の胸元に手を差し入れる。

 夏の盛りが過ぎて、上に羽織るものが一枚増えたころだ。涼やかな風に吹かれて、彼が取り出したその一枚の紙切れは、ひらりとその端を揺らす。


「チケット?」


 ああ、と彼は頷いた。


「我が楽団も名声が轟いてきた。次は学内ではなく、王都の中央ホールで公演を行うことになってな。ぜひ、名誉顧問殿にも聴きに来てほしい」


 はあ、と頷いてミルリカはそれを受け取る。特別席、の文字はいかにも仰々しい。名誉顧問の肩書は、もっと。


「部外者の一般人に過分なるご対応、大変ありがたく存じます。殿下」

「……俺としては、名誉顧問殿がいつ我が楽団に正式に参入してくれるのか、気になってならないのだが」

「殿下に加えて私までいたら、今以上に『第二王子の音楽サロン』になってしまいますよ」


 言えば、上手い返しの言葉をまだ思いつけないでいるらしい。風にチケットを弄ぶミルリカの向かい、カイスラルは額を押さえて、


「いっそ……」

 と言う。


「王子をやめて、音楽で暮らしていくか」


 まさか本気でそんなことを夢見ているわけもない。

 けれどそれは、冗談ではあっても、全くの嘘の気持ちというわけではなかったのだと思う。だからミルリカは笑う。笑って、こんな風に返す。


「いいんじゃないですか、それも」


 いいわけないだろう、とカイスラルは言った。





 特別席のチケットは、本当に特別な席まで案内してくれた。


「王妃殿下?」


 何せ自分の席の隣に、その人がいたのだから。


 王都の音楽ホールは、とにかく広い。元々が王家の威光を知らしめるために作られたものであり、多数の平民を客として容れられる造りになっているからだ。特別席は、そのホール客席の二階と三階。ミルリカくらいの家格なら大抵は二階に座ることになるだろうと思っていたから、三階のボックスシートに案内されることになったときは、よほどの特別待遇をしてくれたらしいとひそかに驚いていた。


 まさか、そのボックスシートに先客がいるとも思わなかった。


 アデル。カイスラルの母だ。


 目が合って、流石にミルリカは少し戸惑ってしまう。誰の配席だろう。まさかカイスラル? そのあたりの機微は読み取れる性質だと思っていたけれど。


 ミルリカは、彼女に嫌われている。


 不思議なことではない。息子を旗頭にした権力闘争の果てに押し付けられたのが、この大したことのない伯爵家の娘だ。あなたが大事にしていた自慢の息子さんが釣り合うのは精々このくらいのお相手ですよ。そう受け取ってもおかしくはないし、敗北の象徴のようで、視界に入るだけで不快になることもあるだろう。


 表立って暴言を吐かれたり、嫌がらせをされたことはない。

 それでも何度か顔を合わせたときは、向こうの機嫌の悪さを察さざるを得なかった。


 ここは下がっておくか。ミルリカは決めた。言い訳なら後からいくらでも効く。


「失礼しました。席の番号を見間違えていたようで――」

「座りなさい」


 それを止められた。

 アデルはこちらを見もしない。ただ確かに、彼女の隣の席には荷物も何も置かれていない。続けて言う。


「私があなたの隣の席を選んだのです」


 そこまで言う割には、それ以上向こうから話題を振ってくることもなかった。


 とりあえずこういうときは。ミルリカはいつものように、へらへら笑っておくことにした。開演を知らせるベルが鳴り、プログラムが始まる。多くは話さないが、ステージに知っている顔が上がるたびに、ミルリカはどうでもいいことをアデルに話しかける。今中央に立っていらっしゃるラズライラ様は弦楽の名手なのですよ。流石に花形なのでしょうね。参加される演目も多いですし、この後もソロが控えています。名手と言えば外せないのはクージェ様ですね。最近はますます頭角を表されて。それにもちろん……


 参加される演目が多いのは、カイスラルも同じだ。

 一番最初は、金管楽器を手にしてステージの右から現れる。二階席には学園の生徒たちがいるのだろう。黄色い声が小さく上がり、容姿のおかげだろうか、平民たちの集う一階席からもざわめきが聞こえてくる。


「――今日は、あなたに頼みがあってきました」


 そのとき、ようやくアデルが口を開いた。


 え? そう訊き返そうとした声が、カイスラルの金管の音に掻き消される。賑やかな曲だった。彼は伝統的な曲調や楽器にこだわらない。大衆音楽まで広く取り入れる。だからこそ、一階席にこれだけ人が集まったのだろうけれど。


「私はあなたのことが嫌いでした。家格にしろ勉学にしろ、見るべきところがありません。実際にこうして会ってみても、へらへらと笑うばかり。私には、あなたのような人間がどうして日々を平然と生きていられるのか、想像もつきません」


 痛烈だなあ、とミルリカは他人事のように思っている。


 アデルの言葉は、王妃らしい重さに溢れていた。まともに受け取れば、その棘に傷付くこともあっただろうか。しかし少なくも家格については、アデルは前王妃亡き後に継妃の座に収まった、家系を遡れば幾人もの姫君や王族が出てくる人物だ。イゥニーゼ家の娘などとは比べ物にならない。何を言われたってミルリカは、「それはそのとおり」としか思わない。


 音楽が終わると、彼女は黙り込む。

 音楽が始まると、再び唇が離れる。まるで、何かに紛れてでなければ、何も伝えられないかのように。


「初めてあなたを見たとき、私がどれだけ失望したか、あなたには一生涯わかることはないでしょう。ミルリカ。あなたにもまた、私は想像もつかない人間であるはずです」


 ステージでは、カイスラルが楽しそうに弦を奏でていた。


 カイスラルだけではない。彼が集めた楽団の仲間たちも、一緒になって。今日この時より楽しい瞬間はないとお互いに確かめ合っているように、目と目を交わし合って。リズムの上にメロディが乗る。一、二、三。一、二、三。一、二、


 休符、


「けれど、あの子を笑わせたのはあなたでした」


 ミルリカは、その声に混じる水音に気が付いた。


「今まで私は、カイスラルが楽器を握るところすら見たくありませんでした。本当だったらそんなもの。そう思ってしまう自分が、容易く想像できたからです」

「王妃殿下……」


 お声が。

 そう短く言葉にした直後、音楽が止んだ。だからアデルは何も言わず、ミルリカもまた口を噤むほかない。それでも彼女は、ミルリカのことを見た。音楽がまた始まれば、小さな声で言った。


「耳が良いのね」


 差し迫った死が、彼女の棘を抜いた。

 肺病みだ、とミルリカにはわかった。


 音楽が終わっても、まだ彼女は話していた。小さな咳が混じる。移る病ではないから心配は要らない、と彼女は言う。


「きっと、あなたが勧めることがなければ、あの子がああしてステージの上に立つことも、友人に囲まれることもなかったでしょう。学園に進むことすらなかったかもしれません。あの頃の鬱屈した子どものまま、王宮の奥深くに閉じこもって……」


 ステージでは、次の演目が準備されていく。

 ほとんどの楽団員が、袖に捌けていった。残ったのは三人。ラズライラ、クージェ、カイスラル。名手が三人。楽器は三つ。ヴァイオリン、チェロ、


 ピアノ。


「私には、あなたのことがわかりません。けれど――」


 大きな咳を、彼女はこらえようとしたのだろう。

 ドレスの胸元を押さえる。表情が歪む。思わずミルリカは、彼女に手を伸ばす。その手を彼女がそっと押しやる。


 消えかけの火が宿る瞳で、アデルはミルリカを見つめた。


「きっと、あの子にはあなたが必要なのだと思います」


 ステージの上、三人の名手が目くばせをする。言葉は要らない。瞳を交わせば、彼らの音楽は通じ合う。薄く微笑んでいる。始まりはピアノ。カイスラルの指が、あの日のように白鍵の上に並べられる。カウント。


 一、二、


「ミルリカ」


 三。


「カイスラルを、よろしくお願いします」




 そのとき、何かが光った。




 きっとその『何か』に会場でもっとも遅く反応したのは、ミルリカとアデルのふたりだったはずだ。ふたりはあまりにも真剣に話しすぎていたから。けれど、すぐに他の誰もと変わらなくなる。一階席も二階席も、三階席の彼女たちも同じ反応に変わる。


 ステージの上の彼らすらも。

 その場から溢れる光に、戸惑っている。


「魔法?」

 ミルリカは、腰を上げた。


 アデルを庇うように、彼女の前に立つ。魔法。それ以外に思い浮かばない。何かの光がステージから放たれている。やわらかい金色。それは美しい黄昏のようにも見えたし、光る海のようにも見えた。秋の日には少し暖かい。誰もが口々に言う。これは何だ。何が起こったんだ。ざわめきが止まない。舞台袖から騎士が出てくる。カイスラルたちを守ろうと仰々しく音を立てる。


 ミルリカは、その音の中でも気付いた。


「――歌?」


 光の中に、何かが響いている。


 耳をすませば、それは音に聞こえる。単なる音と呼ぶには美しくて、ついミルリカはそう呟いた。歌。


 光の中の、歌。


「王妃殿下! ミルリカ様!」


 三階の廊下からかけられた声にミルリカは振り向く。アデルの前に立っていた。だから自然、彼女と目が合う。


 彼女は、胸を押さえている。

 呆然とした顔をして。


「王妃殿下?」

「息が、」


 確かめるように、彼女は言う。すう、はあ。長く、深く呼吸をする。


「でき、る……」


 その呼吸に、水の音が混じっていない。


 もう一度ゆっくりと、ミルリカは振り向くことになる。ステージの方。光と、光の中の音。その源にある人を。



 それは王国が生まれる前から伝わる、ずっと古い話だ。

 光の神が、気まぐれに加護を与えているのだとも言う。あるいは生まれ出ずるそのとき、光の精霊の祝福を浴びたと語る者もいる。ただその心根の清らかなことが、特別な『光の魔法』を生み出しているのだと見ることもある。


 いずれにせよ数百年に、たったのひとり。

 癒しの光を司るその人を、人々は畏敬の念を込めてこう呼んだ。




 聖者、と目が合った。




 カイスラルは、ミルリカを見ている。

 ミルリカは、カイスラルを見ている。


 これが最後の別れになるかもしれない、と思った。





 その日の楽団の公演は、これからどの歴史書にも残ることだろう。


 カイスラルの聖者としての力は、とても強いものだったからだ。光が溢れ出したのは、あの広い音楽ホールの中だけに留まらなかった。都を越え、街道を越え、広大な王国の領地のあまねく場所を照らし上げた。


 医師も魔法使いも、その力の説明をつけられなかった。


 確かなことはひとつだけ。あらゆる病と怪我が寛解した。重いものは一時的な回復に過ぎず、まだ効力の限度を確かめる必要は残っていたけれど、目に見えるだけでも驚異的な成果と言うほかない。誰もが聖者の誕生を祝い、また口々にこう証言した。


 光の中に、音楽が聞こえた。


 それより三日間、王国のあらゆる場所から音楽が消えることはなかった。聖なる音を祝うために、国民の誰もが家の中から楽器を持ち出したからだ。それがない者は街の楽士に食事を供し、服を与え、その一音一音を称賛することで、あるいは口笛を吹き、声を上げることでその音楽の祭に参加した。


 疲れ果てた彼らが家に戻り、眠りについたころ、ようやく王都の噂が街まで届く。


 聖者は第二王子である、とわかる。

 祭は続き、失脚は終わる。


 聖王陛下、の言葉が独り歩きを始めていた。





 あれからミルリカは、学園に一度も足を運ぶことはなかった。

 どころか、イゥニーゼ家の邸宅から一歩も出ていない。父からの命令ではあるけれど、命令がなくとも同じことをしただろう。何を訊かれても答えられない。何も言えない。そういう時間が続いていたから。


 けれど、それにもやがて終わりが来る。

 王宮からの呼び出しだ。


 父と共に王宮の廊下を歩く。不思議なのは、彼の方が不慣れに見えることだった。幼いころ、ミルリカの目には何でもできて、何でも知っている父に見えたこともある。今は違う。王宮に来た回数は、カイスラルの婚約者を務めたミルリカの方がずっと多い。生真面目な父は、まるでこのきらびやかな廊下に似合っていない。場違いなその背中が、妙に小さく見える。


 通されたのは、かつてのあの部屋だった。

 一番初めにカイスラルと顔を合わせた、応接間。


 今度は、二時間は待たされなかった。


「よく来てくれました」


 けれど、その場に姿を現したのはカイスラルではない。

 アデル。王妃殿下だった。


 父が挨拶の言葉を述べる。王妃殿下に置かれましては、ご機嫌麗しゅう。ミルリカはほんの一言二言、相槌の言葉を入れるだけ。にこにこと笑っているだけ。いつもの役割だ。家として来ているわけだから、会話は当主の役割で、それ以外は付属品。


 だというのにアデルは、


「単刀直入に言います」

 真っ直ぐに、ミルリカを見つめて言った。


「カイスラルとミルリカ嬢の婚約は、解消とします」


 それは、素晴らしく明快な命令だった。


 他の解釈の余地がまるでない。前提の共有すらない。けれど、誰にでもわかる。王国の端にいる平民にだってわかる。王都の貴族にわからないはずがない。


 カイスラルは聖者の力を得たことで、再び王位継承の道を開いた。


 恭順を示すための足枷は、もう要らない。

 負け犬のトロフィーは、部屋から捨てられる。


「かしこまりました」


 父の返答もまた、端的なものだった。

 事務処理には長けた人だ。方々調整の上で、速やかに書面の準備をいたします。眉ひとつ動かさずに言う。アデルもまた、顎を引くように小さく頷く。こちらの都合による解消です。イゥニーゼ家には十分な返礼を用意しましょう。過分なお言葉にございます。貴家のこれまでの尽力を鑑みれば、適切なものでしょう。


 では、この場はこれにて。

 父が立ち上がる。ミルリカも同じく。王妃殿下の目を見て微笑み、部屋を後にする。


「待ちなさい」


 それを、彼女が止めた。

 もちろんそれで、父も足を止める。けれどアデルは言う。あなたではありません。


「ミルリカ嬢と、少し話したいことがあります」


 そうですか。たったの一言で呑み込んで、父は部屋から去っていく。ミルリカだけが取り残される。もう一度座る。微笑んだまま、彼女に問い掛ける。


「何か御用でしょうか。王妃殿下」

「まだ、あなたの答えを聞いていません」


 不思議なことを訊く人だ、というより。

 まだあのときの余韻が残っているのだな、とミルリカは納得した。


「婚約解消の件、もちろん喜んでお受けいたします」


 お決まりの美辞麗句が、口からついて出る。


 王妃殿下のお心遣い、大変嬉しゅうございます。しかしながら、カイスラル殿下は元より私のように凡庸な者には過ぎたるお方。共に過ごすことのできた時間はとても得難い経験をさせていただきました。殿下のこれからの新たな道行きに、ささやかながなら祝福のお言葉を――。


 あの連弾のことを、ミルリカは思い出している。

 お決まりのフレーズを、場面に応じて取り出していく。たったそれだけの作業。


「……ミルリカ」


 その間もずっと、アデルはこちらを見ていた。


「私は、あなたのことがわからないと思っていました。けれど……」


 けれど。そう言って彼女は一度、目を伏せる。上げてしまう。もう一度、目が合ってしまう。


「あなたは、」


 病から恢復したはずの彼女は、死の淵にいたころよりもずっと、弱々しい瞳をしていた。


「自分では何も決められないと、知っているだけなの?」


 ミルリカはいつものように、へらへらと笑った。





 もう学園には行かなくていい、と父は言った。

 かしこまりました、とミルリカは答えた。


 以来、特にどうということもない日々が続いた。学園に行かなくていいというのはつまり、厄介ごとを避けるために今年いっぱいは外に出るなということだ。イゥニーゼの屋敷に閉じこもって、寝て、起きて、日の光を浴びる。たったそれだけの日々を、ミルリカは過ごした。他に何をしていたという記憶もない。外の喧騒とはまるで関係のない時間。静かな暮らし。誰かが口にした言葉を、一度だけ思い出した。


 人が望んでいた暮らしを、自分が先に手に入れた。

 それを永遠にするための書類も、やってきた。


「目を通して、サインをしておくように」


 父自らが、部屋まで持ってきた。

 珍しいこともあるものだ、とミルリカは思った。その上、その書類の量が妙に多い。ちょっとした教科書くらいの厚みがあって、内容を検めてみるとほとんどは細かな手続き事項。こんなものを父から渡されたのは、後にも先にもこれきりだったかもしれない。婚約のときですら一枚紙にサインをして終わりだった。何かこの厚みに意味はあるのだろうか。考えながらしばらく目を通し続けて、やがて飽きる。一番後ろのページからめくって、署名欄がいくつあるかを探し始める。


 とりあえず一つ目。

 ペンを取って、しばらくミルリカは固まっている。


 サインを書けずにいる。


「…………」


 自分で自分が信じられない。

 戸惑っている間に、騒ぎが起きた。


 部屋の外から話し声が聞こえてきた。大きな声だ。聞き覚えがある。片方は、イゥニーゼの執事のものだ。もう片方は、もっと若くて力がある。聞き慣れているといえば、聞き慣れている。


 自分の名を呼んでいる。


 少し迷ったが、相手が相手だ。使用人には荷が重い。ミルリカはもう一枚上に羽織って、部屋を出ていく。


 屋敷の玄関に、彼はいた。


「ミルリカ!」

「お久しぶりです。カイスラル殿下」


 目が合ったから、ミルリカは微笑む。執事が振り返って、戸惑いの顔で言う。お嬢様。この様子では、父は外出中なのだろう。ミルリカは彼に、


「殿下に対して一体この扱いは何事ですか。早く部屋にお通ししなさい」

「しかし……」

「何かあれば、私が責任を取ります」


 心の中で舌を出す。自分が取れる責任なんか、ひとつもあるものか。どうせカイスラルを自分に会わせないようにと命令されていたのだろう。だとすれば、責任を取るのは父と王妃殿下だ。会わせたくないなら、会わせないようにする努力をしなければならない。少なくとも木っ端の伯爵家の執事が、第二王子と直接に向かい合って立ち往生させるような、途方もない皺寄せ仕事をさせられるべきではない。


 執事はためらいながらも、結局ミルリカの指示に従った。

 王宮のそれとは比べ物にならない。イゥニーゼの質素な応接間に、ミルリカはカイスラルを通す。


「当家の非礼をお詫びいたします。高貴な方を迎え入れるに慣れない小さな家のしたことと、お許しください」

「そんなことはいい」


 お茶もまだ来ないうちから、カイスラルは身を乗り出すようにして言う。


「婚約破棄の件だ」

「解消の件ならお聞きしていますが」

「言葉遊びはやめろ。あんなものは、破棄と変わりはしない」


 彼の額には、秋だというのに汗が滲んでいた。

 ミルリカは、それで見て取る。恐らく今日、ようやく彼は知らされたのだろう。あの公演会以来ずっと教会周りを挨拶して回って、こちらに戻ってきたと思ったら途端に婚約解消の書類を目の前に出された。そんなところか。


「もうサインはしてしまったのか?」


 焦り顔で、彼は言う。


「今、ちょうどそのペンを執るところでした」

「していないんだな?」

「遅かれ早かれという言葉もあります。殿下、何をそんなに慌てておいでなのですか」


 カイスラルは、怯んだ顔をした。

 こちらの顔色を窺うような表情。ミルリカは、特に何も読み取らせようとは思わない。いつもの笑顔を浮かべたままで、彼を見つめ返す。


「……君は、」


 カイスラルは、恐る恐るの声色で、


「嫌ではないのか。勝手にこんなことを決められて」

「思い出していただきたいのですが、そもそもこの婚約自体、人がお決めになったことでしょう」


 反論の言葉はない。

 ミルリカは続ける。


「婚約が決まったから、私は殿下のもとを訪れ、殿下は私を受け入れてくださいました。でしたら婚約の終わりが別れとなるのは当然の道理です。そういう契約ですから」

「……」

「そう暗い顔をされていると、昔に戻ったようですね」


 皮肉を言えば、それで不思議とカイスラルは嬉しそうにした。

 俯きかけていた顔を、再び上げる。ほんの少し口元が持ち上がる。ミルリカは言う。


「平気ですよ。勝手に決められた婚約を、殿下は一度は上手くこなせていたんですから」


 次も上手くできるはずです。


 そう言ったとき、窓の外に馬車が見えた。


「伯爵が戻ってきたようですね」


 ミルリカは立ち上がる。

 微笑んだままで、彼に言う。


「本日は当家にお越しいただき、大変ありがたく存じます。婚約解消の後は、顔を合わせることもなくなるでしょう。しかしながら、私はいつでも殿下のご健康とお幸せを――」

「まだだ」


 カイスラルに、手を掴まれた。


 一瞬、ミルリカの視線がその手に落ちる。昔は変わりない大きさだったはずなのに、いつの間にこれほど大きな手になっていたのだろう。楽器を弾くのにもさぞ役立つに違いない。指先がミルリカの手首を容易く一回りする。彼もまた、立ち上がる。


 いつの間にか、彼の方がずっと背が高くなっていた。


「まだ、俺が聖者かどうかは確定していない。本当にそうなのか、もう一度確かめる機会がある」


 部屋の外に、人の気配を感じた。

 父だろうか。ミルリカは考えるでもなく、思いを巡らせる。続けてカイスラルは言う。俺の癒しの力は、音楽と共に現れる。状況によって効果の大小も変わる。だから、


「もう一度、あの音楽ホールで演奏会を行う。今度は教会の者たちも集まって、この癒しの力が本当に聖者の力なのか、確かめる」


 だから、と。

 手首にそっと、カイスラルは力を込めた。


「君に、聴きにきてほしい。婚約の解消は、その後にしてくれないか」





 三階の席に座るのも、これが最後だ。

 きっと、良い思い出になる。


 王都の音楽ホールは、以前にも増しての人入りだった。二階も相当な混み合いだけれど、一階などはもう、全く収まり切っていない。扉を取り払って、どうにか外にまで音を響かせようと試みている者たちの姿もあった。そんなことをしてはホールの音の響きが変わってしまうだろうけれど、もはやそういう問題ではないのだろう。


 ひょっとしたら、野外でやることになったりして。

 そんなことを考えながらミルリカは、裏口から入場し、三階の廊下を歩いていた。


「おや。幸運の女神にお目にかかれるとは。私の悪運も底をついたわけではなさそうだな」


 そのとき、話しかけられた。

 三階は特別席しかない場所だ。だから教会の聖職者たちと、ミルリカでは遥かに及ばないような貴人の姿しかない。話しかけてきたのは貴人の方。金色の髪に、長い足。顔は知っている。


 第一王子、ファレン。


「お手に触れても構わないかな。ちょうど今、女神の祝福を必要としていたところでね」


 ミルリカは、笑って右の手を差し出す。ファレンはキザな仕草でその手を取ると、恭しくその甲にキスをした。


「席の番号は? 人入りが激しいからな。どうせ一人席同士、詰めて場所を空けてやろうじゃないか」

「ご冗談を。婚約者がいる身ですので」

「安心するといい。これでもその婚約者の兄だ」


 あらら、とミルリカは心の中で思いつつ、もちろん口には出さない。決まりだ、とファレンは近くの者に声をかけて、ミルリカを先導し始める。ついていくほか、選択肢はない。


「王妃殿下とも席を共にしたらしいな」


 ファレンは席に深く腰を下ろすや、思い切り足を組んだ。

 意外な仕草だ、とミルリカは思った。伝え聞く第一王子の姿は、品行方正に物腰柔らか。いかにも高貴な人物だったから。


「すごい度胸だよ。私にはとても耐えられん」

「王妃殿下にはとてもお優しくしていただきました」

「冗談のセンスがある。友人が多いだろう」


 三階にも、似た席はいくつもある。

 目線が同じだから、見ようと思えば他に誰がいるのかを探すこともできる。それでも、ミルリカとファレンがいるこの席に向けられる視線は、それほど多いとは思えなかった。


「大逆転もいいところだな。ゲームの勝敗は、最後のカードをめくるまでわからない」


 もう、用済みになったふたりだから。

 ファレンは薄く笑っていた。ミルリカのことを見もしない。その視線は、すでに準備を整えられた眼下のステージに向けられている。


「狙ってやったのか?」

「まさか。聖者様と見抜くほどの眼力など、私には」

「残念だ。もしそうなら、君に私の最後のカードをめくってもらおうと思っていたんだが」


 もっとも、と。

 声をひそめて、彼は言う。


「もうそんなもの、残っていないか」


 やがて幕は開く。

 どういう交渉の果てにこの座組が決定されたのだろう。最初に出てきたのは、カイスラルが率いる楽団のメンバーだった。可哀想に、観客は彼らでは満足できない。聖者の姿を探している。それすらも織り込み済みだったのかもしれない。奏でられる音楽に、もうひとつの弦の音が加わる。耳ざとい者がそれに気付く。秘密を保てる時間はそう長くはない。


 カイスラルが、舞台の袖から現れる。

 歓声が湧いた。


「君から見て、あの弟はどんな人間だったかな」


 ファレンは、大して興味もなさそうな顔で続けた。

 訊いておいて答えを待たない。私には。そう言って彼は続ける。


「恐怖だったよ。母が亡くなり、後ろ盾になるのは見ず知らずの老人ばかり。これで苛烈な後妻と対峙するのだって一苦労なのに、私より五つも六つも年下の弟が、すさまじい勢いで追い上げてくるんだ。正直、あの顔を見るとその日の夢見が悪くてね。今日もかなり覚悟してきた」


 そんな話をされているなんて、夢にも思っていないのだろう。ヴァイオリンを手にしたカイスラルは、思うがままに音色を奏でている。美しいと誰もが思うに違いない。目を瞑れば、その音楽を。耳を塞げば、音を自ら楽しむその姿を。


「音楽を仕込んだのは君らしいな」


 今度は、ファレンは返答を待った。ミルリカは言う。


「仕込んだというほどでは。お会いして間もないころに、ともに楽器に触れていただけです」

「余計なことをしてくれた」

「それは大変失礼いたしました。出入りできる音楽室があったもので……」


 ふん、とファレンは笑った。


「私の落ち度というわけだ。全て取り上げて、地下牢にでも閉じ込めておけばよかったよ」


 ご冗談を。そう言ってミルリカが返せば、彼の笑みが消える。演奏の一曲目が終わり、カイスラルが壇上で話し始める。今壇上にいるのは楽団の仲間たちでどうこう。できる限りあの日の状況を再現するために。しかしながらこれは単に実験に留まることはない。ぜひこれを機会に我らが楽団の演奏を楽しんでいただければと――。


「弟は、私を恨んでいるかな」


 ぽつり、ファレンが呟いた。


 真剣そのものの口調だったのに、すぐに彼は自分で笑って、その調子を打ち消す。いや、実は。そう言って話し始める。


「反対に私が地下牢に閉じ込められるのではないかと心配でね。君から見てどうかな。弟は私に復讐するつもりがあると思うかい」

「率直に申し上げても?」

「もちろん」

「それは、カイスラル殿下がお決めになることではないでしょうね」


 ファレンは鼻で笑う。二曲目が始まる。小さく言う。


「よかったよ。君の婚約が破棄されて。道理がわかっている敵は怖い」


 そのとおりだ、と。


 カイスラルは、次々に楽器を持ち替えた。もしかすると、この公演のためにさらに練習を積んできたのかもしれない。その手つきと技術はどこをどう見ても、あの頃の幼い手指とは結びつかない。それだけでもほとんど、ひとつの魔法のように見える。


 昔は、とファレンは語り始める。


「このゲームの指し手が誰なのか、考えていたよ」


 それは、古くから続くゲームだ。

 人がふたりいれば、いつでも始まりうる。誰が立ち、誰が得るかを決めるゲーム。時代が下るにつれて、それは複雑性を増していく。カードは力だけでも、知恵だけでもなくなった。ゲームの場それ自体が変質していった。


 後から生まれた者は、否応なくそのゲームの駒になる。

 王と呼ばれた、勝者の子孫すらも。


「けれど、今は思う。ルールそれ自体が差し手なんだ。私を動かそうとする者もまた、誰かに動かされている。その誰かも誰かに動かされ、どこかでその誰かを、私が動かしていたのかもしれない……」


 演奏の切れ目に、ひとつ、大きな楽器が壇上に運び込まれてきた。


 誰でも知っている楽器だ。黒い身体をして、蓋を開けると白と黒の骨を覗かせる。初心者がやるのにうってつけの、整然とした楽器。


「少し話しただけでわかったよ。ミルリカ嬢。君は私に似ている。このゲームの存在を知っている。誰もこの場所から出られないことを知っている。そして、きっとずっと思っている」


 カイスラルが、その楽器の前に座る。

 指が触れて、白を押し込む。



「『このゲームは、いつ終わるんだ?』」



 一音聴いて、もうわかった。

 ミルリカは立ち上がる。


「ファレン殿下。本日はお付き合いいただき、ありがとうございました」


 ファレンは顔を上げない。今もまだ、壇上のカイスラルのことを見ている。


「最後まで聴いていかなくていいのか?」

「ええ。もう決まりでしょう」


 そこから、光が漏れ出している。

 ひとつひとつの振動が色を孕み、色の中に音が生まれる。誰がどう見ても、どう聴いても間違いはない。


 カイスラルは聖者だ。


 自分がここにいる必要は、もうない。


「そうか。紳士としては帰り道を送ってやりたいところだが」

「お気遣い大変ありがたく。しかしながら、ファレン殿下にもご都合があるでしょうから」


 ああ、と彼は頷く。つまらなそうに笑って、


「負け犬には、負け犬なりの振る舞いというものがあるからな」


 では。ミルリカは礼をする。踵を返す。席を抜け出る。

 その去り際、不意にファレンが言う。


「付き合わせて悪かったな」


 振り返るほどのことではなかった。

 向こうもきっと、聞かせるつもりの言葉ではなかったのだと思う。音楽に負けて、本当なら届かないと見込んでいた言葉。唇が震えただけの音。


 それでも、ミルリカの耳に届いた。


「少しでいいから、誰かと話したかったんだ」





 ここで停めて、と。

 どうして言ったのか、ミルリカはまだ自分でもわかっていない。


 音楽ホールから帰途に就く途中のこと。馬車の窓から外を眺めて、不意に、その声が喉から漏れていた。馬が足を止める。御者が訊ねる。何かございましたか。ミルリカは答えられない。けれど、止まってしまったものは仕方がないとも思う。


「少し、歩こうかと」


 付き人もなしで街を歩くことは、ほとんどない。

 けれど、学園の中では慣れていた。客室の扉を開けて、ミルリカは石畳の上に降りていく。御者は渋い顔をしたけれど、もう長く付き合ってきた家の者だ。すぐに戻りますからと一言添えれば、折れてくれた。


 お嬢様、お気を付けて。


 気を付けるまでもなく、誰もいない街だった。


 いっそ世界が滅んでしまったのではないかと思うくらいに。街中の人間は皆、今は音楽ホールに集められているらしい。人の姿はひとつもない。声もない。夜明けのように静かな、空っぽの街。


 もうすぐ冬が来る。

 川べりには、冷たい風が吹いていた。


 川の流れに従うように、ミルリカは水路の傍を歩いていく。左手には夕暮れ。橙色の光が水面にちらちらと光っては、少しだけ肌に温度を分けてくれる。眩いけれど、ミルリカはその目を覆わずにいた。ただ色の変わりゆく空を眺めて、一日が終わりゆく姿を見上げて、ようやくふっと、自分がこの場所で降りた理由を知る。



 どうして自分じゃなかったんだろう、と思っていた。



 ファレンが言ったことを、ミルリカは思い出している。君は私に似ている。確かにその通りだ。彼も同じことを思っていたのだろう。ただ、その後に取った対処の仕方が違っただけ。


 ファレンは、人と話したくなった。

 ミルリカは、ひとりになりたくなった。


 長く短い日々のことを思った。ここに来るまでの時間。最初の記憶から、ここに至るまでに過ぎ去っていった風景。


 自分では何も決められず、結局は無駄になった日々のこと。


 こつん、とミルリカの爪先が音を立てた。

 彼女は靴を見下ろそうとする。その途中で、動くものが目に入る。小石だ。二度、三度、それは石畳の上を跳ねていく。欄干に当たり、その隙間を抜け出ていく。


 水に落ちる音なんて、ミルリカの耳にも届かない。

 どこに流れていったのかもわからない。


 けれど、それでも十分だった。小石の名前なんて、誰も気にしない。あの川の底に沈む石のひとつひとつを、誰が確かめて回るだろう。ふとミルリカは思い出す。あのとき、カイスラルが邸宅に押し掛けてくる直前。婚約解消の書類を前にして、サインをできずにいた理由。


 自分の名前を、一瞬思い出せなくなったからだ。


「ふ」

 笑ってしまう。


 しばらく学園に行かなかったせいもあるのかもしれない。誰に呼ばれることもなく、何を綴ることもなかったから。それにしてもと自分で思うけれど、そうなってしまったものは仕方がない。人は、自分の名前の綴り方を忘れることがあるのだ。幸いすぐに思い出すことができたけれど、晩年のことを考えると、もう今から怪しい。


 でも、何も困りはしないはずだ。


 今日、帰ってサインをしよう。ミルリカはそう思う。川の流れる音を聴きながら、そう心に決める。約束は十分果たした。父に一式渡してみれば、明日には正式な手続きに入るだろう。想像する。椅子を立つ自分。空いた椅子に座る誰か。


 その人の名前なんて、誰でもいい。


 夕日が沈んでいく。風が吹くたびに水面が揺れる。髪が膨らむ。橙の光がとろりと溶け出して、全ての川が行き着く先へ、ともに流れていく。


 息を吸うと、冷たくて気持ちがよかった。

 その空気を、音にしてみたくなった。


「――――」


 ひどい声だ。

 自分でそう思うから、ミルリカはまた笑ってしまう。


 当たり前のことだ。もう何年も歌っていない。それなりのものになったと自分に認めたとき、歌うのはやめた。練習なんてずっとしていない。ハミングは掠れて、鳥が羽根を擦り合わせるような音が立つ。


 それでもいい。

 口ずさんだ。


「誰の日も暮れていく もう行かなくちゃ――」




「――ミルリカ!」




 振り向くよりも、ずっと早かった。


 ミルリカは、その手に感触を覚える。硬い手だ、とわかったのは先に声を聞いていたからだ。聞き慣れた音。肩も掴まれる。振り返るのも、回り込むのも、お互いに同じくらいの早さになる。


「殿下?」


 頬に汗を流して、その人は立っていた。


 まさか走ってきたのだろうか。息を切らしている。口元から洩れる呼気が白く濁る。まだ彼は話すことができない。ミルリカの手をぎゅっと握り締めたまま、膝に手をつく。背中を上下させて、息を整えて、


「客席から、いなくなっていたから、」


 追いかけてきた、とでも言うつもりだろうか。

 ミルリカは周囲を見回した。本当にここまでずっと走ってきたはずはないと思うのに、馬車の姿が見当たらない。


「慌てて、」

「慌てすぎです、殿下。演奏会はどうなさったんですか」

「切り、上げてきた」


 切り上げてきた、ではない。

 今頃音楽ホールはどうなっているのだろう。私の知ったことではないと切り捨てられるような段階でもない。殿下。ミルリカはそう呼び掛けて、


「探してくださったのは嬉しいですが――」

「嬉しいのか?」


 カイスラルが、顔を上げた。

 屈むのをやめれば、彼の背はミルリカよりもずっと高い。彼は、まだ手を離さない。荒い息が、まだその胸を膨らませている。


「よかった。迷惑に思われていたら、どうしようかと」


 ミルリカは、その言葉にも間を置かなかった。微笑んで、すぐに答える。


「私が迷惑ということはありませんが、演奏会の方は大騒ぎでしょう。早くお戻りください」

「残った者がどうにかしてくれる。戻る必要はない」

「それは殿下が決めることではありませんよ」

「いいや。俺が決めた。そういう風に、わからせてきた」


 ミルリカ、と彼は呟く。真剣なまなざしで、


「今日が何の日か、覚えているか?」

「殿下が本物の聖者様であられるかを確かめる、演奏会の日です」

「違う。君の誕生日だ」


 もちろん、そんなものはミルリカの記憶には残っていない。

 自分の名前も忘れるような人間が、自分の誕生日なんて覚えていられるはずもない。思わず呆気に取られた。そうなんだ。


「聴いてほしい曲があったんだ。なのに、いざ演奏を始めたら君がいない。だから追いかけてきたんだ」


 それは大変光栄なことですが。そう続けようとして、ふとミルリカは立ち止まる。


「聴いてほしい曲?」


 そもそも、どうしてこの演奏会に自分は顔を出したのだったか。


 婚約解消を待ってくれ、と言われたからだ。本当に聖者かどうかまだわからないから。それが確定してから判断してくれと。だからミルリカは足を運んだ。実際に確かめた。


 けれど今の言い方は、何か引っかかる。

 婚約解消を待たせている相手の誕生日に、聴かせたかった曲。


「……どんな曲ですか?」


 まさか。そう思いつつミルリカは訊ねる。

 妙に真面目な顔をして、カイスラルは答えた。


「ラブソングだ」





 そのころ音楽ホールで、まだファレンは呆然としている。

 三階の客席。貴賓席。第一王子として、聖者の兄として呼ばれたその席で、彼は椅子に深く沈み込んで動けずにいる。


 ステージの上には、もう誰の姿もない。

 ざわめきが止まないその場所で、彼の心にはたった一言、ずっとこの言葉が浮かんでいる。


 今、何が起こった?


 わかっているのは、弟がピアノに触れたということだ。事前に知らされていた曲順とは異なる。予想していたのとは異なる和音が響き出して、それで、そこから先は、


 不意に、王妃殿下と目が合った。


 三階で、同じ目線の高さだから起こったことだ。彼女もまた、あらかじめ知らされていなかったのか。呆然とした顔をしていた。目が合ったことに気が付いた。いつものように、すぐに苛烈な表情に変わるかと思った。そうはならない。夢うつつのまま。


 つい、心の奥を晒してしまったかのように。

 無邪気な顔をして、彼女は笑った。


「――はは、」


 釣られたら、止まらなくなった。


 堰を切ったように、己の喉から笑い声が出てくる。ファレンは自分でわかっている。大声で笑うなんて、一体いつ以来だろう。笑いの止め方なんてずっと昔に覚えたはずなのに、これだけ注目されながら抑え込めないのはなぜなのだろう。椅子に背中を押し付けるようにして笑う。笑いすぎて、涙が目に浮かびすらする。


 向こうで、アデルも笑っている。

 ファレンは、ついさっきまで隣にいた人物のことを思い出している。


 幸運の女神よ。ファレンはこれからの生涯、必ずそう言って彼女に呼び掛けることだろう。ゲームの勝敗は、最後のカードをめくるまでわからない。この場所に背を向けて出ていった彼女が、結局は最後のカードをめくってくれた。


 自分にはもう、カードは残っていなかった。

 残っていたのは、カイスラルの方。


 頭の中の冷徹な部分が、すぐさま話を組み上げ始める。聖王陛下は残念ながら誕生することはないだろう。民衆の期待を裏切って申し訳ないが、民衆もまた、この音楽ホールに詰めかけたおかげで、それが不可能であることを知った。これまでの慣行通り弟は単なる聖者として、偶然に生まれた時代の守護者として、教会の権威に収まっていく。


 王になるのは、第一王子ファレン。

 ゲームに勝ったのは、自分の方だ。


 だというのに――


「ああ」


 笑い疲れて、天を仰いだとき。

 その場所にまだ満ちている光の温かさに触れたとき、王妃殿下と同じように心の底から、こんな言葉が溢れてしまう。


「完敗だ」


 ざわめきが、一際大きくなった。


 目を移すと、ステージの上に現れた者たちがいる。ファレンは知っている。侯爵家の三男に、伯爵家の次男。子爵家の跡取りもいれば、男爵家の養子もいる。


 困ったような、呆れたような、楽しんでいるような顔。

 容色優れたふたりが前に立って、


「お集まりの皆様には大変申し訳ございませんが、聖者様はお聞きの通り、真実の愛に向かって駆け出してしまわれました」

「ですのでここからは僭越ながら、我ら聖者様の楽団が後の公演を引き継ぎたいと思います。曲順はすでに乱れてしまいましたので……」


 ふたりが目くばせをする。

 本当に言うのか? 気心が知れているのだろう。ふたりは不安も、それから抑えられない悪戯心も、ほんの一瞬の間に共有し合って、


「ここからは」

「ラブソング特集です!」


 ファレンは勇気ある楽団員たちに、惜しみない拍手を送った。





 芸術に耽溺している人間に、政治を任せようと思う者はいない。

 まして芸術どころか、お飾りの婚約者が相手となれば、なおさら。



 ミルリカには、それでも判断がつかなかった。

 実際に現場を見ていないからだ。演奏会は一体今、どういう状態なのだろう。カイスラルはその曲を通して何を伝えてきたのだろう。まだ彼が王位に就く目はあるのか。ないのか。


 自分は今、どうなっているのか。

 とりあえず、笑ってみた。


「殿下、思い切りが良すぎますよ。お別れの餞別にしても、華やかすぎます」

「君が最初に言ったことを、俺はまだ覚えてる」


 カイスラルは、笑わなかった。

 真っ直ぐに、ミルリカを見つめて言う。


「君は、覚えているか」

「……『ご機嫌麗しゅう』ですかね」

「『自分のことは、自分で笑わせなければならない』だ」


 俺は、と語る。

 彼はもう、素直に頷くだけの男の子ではなかった。


「あのときは、確かにその通りだと思った。自分の都合だけで動く輩。動かそうとする輩。動かされてしまう自分。動かされて、結局放り捨てられた自分。あのとき俺の世界にあったのはそれだけで、だから、君の言葉にいたく感銘を受けた」

「光栄です。偉大なる聖者様のお心に何かを残せたなら、これに勝る喜びはございません」

「君のその、皮肉屋なところが好きだった。何が起こっても笑って受け流して、相手にしない。俺とは違って、目の前の現実に負けていない。その強さが憧れだった。……けれど」


 けれど、と一度だけ俯いた。

 縋りつくように、彼は両手を添えて、


「そうするしかなかったから、笑っていただけなのか?」


 雲が流れている。

 薄い夕雲が空と、ミルリカの瞳を横切っていく。二度と同じものを見ることはないだろう。それは千切れて、形を変えていく。定められた場所へ帰っていく。


「もちろんです」

 何を今更、と思った。


「それが楽しく生きる秘訣ですよ、殿下」

「間違っている」


 カイスラルは、はっきりと言った。


 もう一度、彼は呟く。君は言ったな。あのとき、閉じこもっていた俺の前に現れて。小さな花びらが詰まった箱を抱えて。自分のことは、自分で笑わせなくてはならないと。


「悲しい顔をしていたって、誰も助けてくれないと」


 その手に、力が込められる。

 カイスラルが、顔を上げる。




「あんなのは嘘だ。

 悲しい顔をしていたら、君が助けてくれた」




 その頬に流れる涙を見つめながら、ミルリカは考えている。

 私は一体、今まで何をしてきたのだろう。


「君はすごい。きっと婚約を破棄されても、必ず強く生きていくだろう。もしかすると、俺なんかよりずっと良い相手を見つけることもあるかもしれない」


 決められた椅子に座ることが、全てのはずだった。

 求められるのは、ただ座っていることだけ。へらへらと笑って、やり過ごすことだけ。そうすれば誰かが勝手に決めてくれる。そうしなくたって、誰かに決められてしまう。


 何をしても、何の意味もない。

 誰がやったって、同じ仕事。


 そのはずなのに――


「でも、君にそう思ってほしくない。そう思い続けて、ほしくない」


 自分はこの人に、何をしたのだろう。

 この人生には、何があったんだろう。


「知ってほしいんだ。自分が感じていることに、意味があるということを。それを伝えれば、誰かが答えてくれるということを」


 想像したこともなかった。

 でも、想像できるはずのことだった。


 当たり前のことだからだ。ミルリカは、自分で思う。何でもそこそこだ。それは単に、意図的なものだけじゃない。自分はきっと、何かひとつのものに打ち込んだとしても、人並み外れた結果が出せる人間じゃない。だからこの場所に座り続けている。いつでも、誰にでも代われるような場所にばかりいる。


 だから、自分ができることは人にだってできる。


「悲しいとき、無理に笑ってほしくない。悲しいんだと教えてほしい。俺は、俺はもっと、しっかりした人間になるから。君が頼っても大丈夫だと思ってくれるような人間に、なってみせるから。だから――」


 何をしたのかは、彼が教えてくれた。



「傍に居させてくれ。

 君が悲しくなくなって、笑えるようになるまで」



 明日よりもずっと遠い未来に、ミルリカは、かつての自分を振り返る時が来る。

 要は、人生を楽しむ才能がなかったのだ、と。


 大切なことはきっと、目を瞑ることだった。カイスラルに抱き締められたとき、何も言わずに、ただ感情のままに抱き締め返せばよかった。たったそれだけでよかったはずだと、ミルリカはいつかわかる。もしかすると、その時点でもわかっていたのかもしれない。なのに、それができない。考えてしまう。


 永遠に終わらない営みの中にいる。

 ゲームは続く。


 彼は王子で、聖者だから。何があったとしても、この盤上から逃れることはできない。常に誰かが彼を動かそうとする。彼が動けば、誰かがそれに反応する。どこにいたってそうだ。水を泳げば波が立つように、風を切れば音が立つように、私たちはここから出られない。そういうことが、ミルリカにはわかっている。わかってしまう。


 でも、それだけじゃない。


 それだけじゃないということも今、ようやくわかった。


 川に流れる小石が、他の小石と出会う音がした。

 千切れていったはずの夕雲が、違う形で結び付く姿が見えた。

 川のせせらぎが、海へと注いでいく。風は巡り、いつか知らない誰かの頬に触れる。


 これからも目を瞑ることはないだろう。ミルリカは、自分でそう思う。カイスラルのことを不器用だと思っていたが、自分も大概だ。知ってしまったことを、知らないふりで過ごすことができない。今立っている場所が誰の思惑なのかを考えてしまう。ファレンが見捨てられたように、カイスラルが押し込められたように、今いる場所がひどく不安定であると、明日には残っていないかもしれないと考えることをやめられない。


 それなのに、あなたの心臓の音が、こんなにもはっきりと聞こえる。


 そっと、ミルリカは手を伸ばした。目を瞑ることもなく、耳を澄まして。その音の中に、自分が触れてきたものがあると信じて。記憶の扉のひとつひとつを叩いて、自分が生きてきた全てを、確かめるように。



 自分を誰かに決められるのが、ずっと嫌だった。

 でも、自分で決められたことも、確かにあった。



 夕焼けの中で、ミルリカは笑っている。

 悲しくなかったからだ。





 この後に待ち受けていることを思うと、頭が痛くなる。

 だというのにこの王子様は、どうしても一曲聴かせたいらしい。


「ほら、ミルリカ。隣に座ってくれ」

「…………」


 まさか音楽ホールに帰るわけにはいかないし、いきなり王宮にというのもどうかと思う。だから、イゥニーゼ家の音楽室。今までふたりで過ごしたような場所と比べれば、幾分かグレードは落ちる。


 けれど、ピアノはある。

 その椅子に座って、カイスラルは自分の隣を手のひらで優しく叩く。


「どう見ても狭いんですが」

「詰めれば座れるさ」


 あの頃より、ずっとカイスラルの身体は大きくなった。

 長椅子とはいえ、腰を下ろせば肩が思い切り触れる。これでは演奏しづらいだろうに、彼はにこにこと笑って、ピアノの音を確かめている。


「調律は良いな。よし、それじゃあミルリカはこの音を頼む」

「え?」


 私も弾くんですか。驚いて訊ねると、カイスラルはあっさりと頷く。


「君が昔、俺に連弾させてくれたのと同じだ」


 難しくはない、と彼は言う。実際、しばらくピアノを触っていないミルリカにも容易く呑み込めるような、単純な進行だった。簡単に試奏してみせれば、カイスラルはもう一度頷く。カウントを始める。


 一、二、三、四。


「傍にいて それ以外何も要らないから――」



「ひ、」

 あまりの驚きに、ミルリカの手が止まった。

 自然、カイスラルも驚いて止まった。


 見つめ合う。ミルリカの方が、当然先に言う。


「弾き語りなんですか?」


 カイスラルは、呆気に取られた顔をする。その顔に書いてある。なぜそんなことを訊かれるのかわからない。その顔のままで答える。


「ああ」


 笑いすぎて、弾けなくなった。


 淑女の笑い方というものがある。お腹を抱えて天井を見上げるなんて、もってのほか。というわけでミルリカは、お腹を抱えて身体を丸める。髪の先が白鍵の上に枝垂れ落ちる。顔を見せないようにする。


「嘘でしょ……」


 笑い声だけは、全く抑えられない。

 ラブソングと聴いたとき、ミルリカはてっきりこう想像していた。伝統的な愛の曲というものはある。それをそのままか、あるいはそれを思わせるような切なげな調子のものを、一曲ステージで披露してきたのだろうと。


 なのにこれ。

 作詞作曲、本人。


 詩に起こすようなことがない、と言っていた人が。


「まさかこの曲、皆さんの前でも披露してきたんですか?」

「ああ」

「ふ、ふふ……」


 笑いは一層ひどくなる。いきなりこれを聴かされて、会場は一体どうなったのだろう。一階席は盛り上がったかもしれない。二階席も、もしかしたら。けれど王妃殿下や第一王子殿下は? 想像するだけでおかしくて、とんでもないことになってしまったと自棄になって、


「待て。言っておくがな」


 しかもカイスラルが、変に焦った調子で、


「この曲は、君のパートがあって完成するんだ。壇上に来てもらおうと思ったときにはいなかったから、当然まだ、誰にも完成形は聴かせていないぞ」

「――あはははは!」


 とうとう、俯いたままではいられなくなった。


 淑女どころの話ではない。ミルリカは笑いに笑ってしまう。直接的な言葉で訊ねてしまう。


「わ、私、あの数の観衆の前で急に壇上に引っ張り出されて、ラブソングの連弾をさせられるはずだったんですか? 自分に向けた、恋人のオリジナルの?」

「……そうだが」

「よかった、会場にいなくて!」


 笑いすぎて、涙まで出てきた。


 カイスラルが、心なし落ち込んだ様子で言う。そんなにダメか? 当たり前だった。当たり前すぎて、さらに笑ってしまう。こうなるともう、笑い終わるまで止まらない。二分も三分も、ひとりで笑っていた気がする。


 笑い疲れてようやく、ミルリカは目じりを拭って言う。


「命拾いしました。本当に」

「……次からは、サプライズの前に相談する」

「そうしてください。もちろん、お気持ちは嬉しいですけどね」


 それにしても、とミルリカは、


「本当に思い切りましたね、殿下。それじゃ言い訳も効きませんよ」

「誰にだ」

「民衆にです。聖者様が突然公演中に愛を弾き語ったら、みんな思いますよ。『ああ、この人はどれだけ立派な方に見えても、実は恋愛にうつつを抜かしたダメな人なんだなあ』って」


 これから苦労しますよ、と笑って言ってやる。


「そうか?」


 けれど、カイスラルは不思議と動じなかった。

 確かに母上や兄上、貴族の連中はそうなるかもしれないが、普通に音楽を聴いた人間は、ただ納得するんじゃないか。納得? ああ。


 だって、



「子どもでも知っていることだろう。聖なる力の源は、愛だなんて」



 この曲の続きが、聴きたくなった。


 言おう。ミルリカはそう決めた。笑ってしまってごめんなさい、殿下。もう一度改めて聴かせてください。彼もこれだけ笑われたのだから、ちょっとくらいは拗ねるかもしれない。一生懸命書いたんだぞ。ちょっと前なら、そう言って頬を膨らませたりしたかもしれない。今はどうだろう。でもほら、私のことを笑わせられたんだから本望じゃないですか。そう言ってみれば、結局は頬を緩めるだろう。幸せそうな顔をして、愛の詞と音色を奏で始めるだろう。


 けれどその前に、滲んだ心があったから。


「カイスラル」


 ミルリカは彼の名を呼ぶ。手を握る。随分と時間は経って、ふたりの背丈は変わってしまったけれど、それでもあの頃のように。


 短く拙い詞を、口にした。


「愛してるよ」



(了)

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― 新着の感想 ―
良い意味でタイトル詐欺ー!どんな展開になるか読めず、最後では涙が出てしまいました。読後に幸せな気持ちになり、読んで良かったと思わせてくれる作品でした。
すごくよかったです いい意味でタイトル詐欺(でもタイトルに偽りなし)
読み返すたびに心の動きが大きくなります。 感想もたぶん何度目?なのかわかりませんが、今日も胸の中に言葉もなく大きな存在感を残してくれました。 一日の始まりに、私はとてつもなく充実した何かに包まれており…
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