サルドネに嫁いで30年
第1章: 203号室の声
地方の精神病院、閉鎖病棟の203号室。そこには、40歳の女性患者が住んでいた。彼女の名前はアルベルティーナ――少なくとも、彼女はそう名乗っていた。白い壁に向かって、彼女は今日もうわごとを呟いている。
「コンラード様から手紙が届かない…。ドナシアンのせいだ!庭付き一戸建てを寄越せば許してあげますよ!」
担当看護師の小池翔太、22歳独身男は、彼女のベッド脇で食事のトレイを準備しながらため息をつく。
その光景を初めて見た時、小池は驚いた。「患者」は、壁に向かってこのように語りかけていた。あとで同僚の上嶋に聞いたが、これが毎朝のルーティンらしい。「お母様が亡くなったあと、お父様は新しいお義母様をお迎えになったわ。けれど、継母にとって私は邪魔だったのね。すぐにご縁談とやらが決まって、私は故郷を離れざるを得なかった。行き先はサルドネ王国と言って…」小池は黙って患者の語りを聞いていた。「私は夫に7年も放置されたの…」
(どう言うことですか?)小池は医者の野島に尋ねた。(シッ、患者のせん妄に疑問を抱いてはダメだ)と、野島は静かに制した。小池は、この患者の担当になってから日が浅い。とは言え、カルテくらい目を通している。40歳。女。7年前に、患者の父親がこの病院に連れてきた。それ以来、家族や友人が面会に来たことは一度もない、と記載されていた。
医者から「患者の妄想を壊さないように」と指示されているため、小池は仕方なく「ばあや」として振る舞う。
「はいはい、アルベルティーナ様。お薬の時間ですよ」と、小池はわざと柔らかい声で言った。内心では「俺、ばあやって何だよ」と毒づいていたが、彼女の目は真剣だった。
「ばあや、ドナシアンに言っておいてくださいね。コンラード様が私を見捨てたのは彼のせいなんだから」と、彼女は壁を見つめたまま呟く。
小池は首を振って、トレイを置いた。彼女にとって、野島医師が「ドナシアン」、そして同僚の上嶋が「コンラード様」らしい。壁への語りは、上嶋が近づけないからだと、小池は薄々気づき始めていた。
第2章: 喫煙所の会話
その日の夕方、小池は病院の裏にある喫煙所にいた。今時珍しい喫煙設備だが、都会から離れたこの病院ならではの古臭さだ。隣には同僚の上嶋がいて、タバコの煙を燻らせながらぼんやり空を見ていた。
「なあ、小池。あの203号室の患者、今日も壁に喋ってた?」上嶋が口を開いた。
「ああ。『コンラード様から手紙が来ない』ってさ。んで、『継母に追い出されてサルドネ王国で7年放置された』とか語ってたよ。俺がばあやで、野島先生がドナシアンらしい」小池は苦笑いした。
上嶋は煙を吐きながら頷いた。「俺、昔はあいつの担当だったけどさ。今は近づくなって野島先生に言われてる」
「なんで?」小池が眉をひそめた。
「俺がコンラードだからだってさ。ゲームの中じゃ、アルベルティーナの夫らしい。俺が近づくとヤバいって」上嶋は肩をすくめた。
小池は目を丸くした。「じゃあ、壁に話しかけてるのは…?」
「俺の代わりなんだろ。俺が近くにいられないから、壁がコンラードになってるらしい。知らねえよ、俺、生まれる前に出たゲームなんて知らねえし」上嶋は笑ったが、その目はどこか遠くを見ていた。
小池はタバコに火をつけながら思った。――俺が身代わりで「ばあや」やってるのも、上嶋を遠ざけるためか。
第3章: 野島の調査
数日後、野島医師が喫煙所に現れた。小池と上嶋が煙を燻らせていると、彼は手にタブレットを持って近づいてきた。
「君たち、アルベルティーナの言う『サルドネの花嫁』ってゲーム、気になって調べてみたよ」野島は静かに言った。
「へえ、先生までそんな気分っすか?」小池が軽口を叩いた。
「まあね。彼女の妄想があまりに独特でさ。参考になればと思ってね。『サルドネ王国で7年放置された』なんて話も混ざってるから、なおさらだ」野島はタブレットを操作し、画面を見せた。
そこには、30年前に発売されたゲーム「サルドネの花嫁」のあらすじが載っていた。ワイン作りで有名なサルドネ村が天災で壊滅し、村人たちが「バアヤ」というブドウが枯れた絶望の中、「アルベルティーナ」という古い品種の種を見つけ、「のほほんと平和に」育てて村を再興する経営シミュレーション。村長のコンラードが中心となり、ベストエンドで「サルドネの花嫁」――再興を果たしたブドウ、アルベルティーナがそう呼ばれる物語だった。恋愛要素は一切ない。
「…え、サルドネ王国とか…恋愛は、出て来ないんですか?」小池が目を丸くした。
「まったくないね。彼女の言う『夫』とか『7年放置』とか、全部妄想だよ。継母だの縁談だのも、どこか別の話が混ざってるんだろう」野島は淡々と答えた。
上嶋が煙を吐きながら呟いた。「じゃあ、俺がコンラードで、彼女の夫ってわけ?」
「彼女の頭の中ではね」と野島は静かに言った。「ゲームの本当のコンラードはサルドネ村の村長だよ。恋愛も結婚もない。ただ村を再興するリーダーだ。彼女が勝手に『夫』にして、放置された妄想を付け加えてるだけさ」
上嶋が小さく笑った。「じゃあ、俺は村長じゃなくて良かったってことか」
「まあ、そういうことだね。私のせいで夫に放置されている、と言う主張は正しいかもしれないけど」野島は皮肉っぽく笑った。「上嶋君を近づけるのは危険だよ。彼女の中では、君がコンラードだからね」
第4章: ブドウになりたがる女
喫煙所の空気が一瞬静まり、小池が口を開いた。「でもさ、ブドウになりたがる妄想って、斬新じゃないっすか?『サルドネ王国で7年放置』とか、継母とか、どこから出てきたんだろ」
野島はタブレットを閉じながら頷いた。「確かにね。現実の『サルドネの花嫁』と、彼女の語る物語は全く内容が異なってる。ゲームじゃ、アルベルティーナはただのブドウの品種だよ。恋愛も結婚もない。彼女の中では、自分がコンラードに裏切られた妻なんだろうね。『王国』や『継母』は、彼女の過去か別の記憶が混ざったんだろう」
上嶋も小さく頷いた。「俺、村長だったのかって一瞬思ったけど、違くて安心したわ」
小池はタバコを灰皿に押し付けながら笑った。「でも、『庭付き一戸建てを寄越せ』って、放置された妻らしからぬ庶民くささっすよね」
「そこが彼女の妄想の面白いところだよ。ゲームの『バアヤ』って名前が、どこかで混ざっちゃったのかもしれないね。7年前にここへ連れてこられた孤独が、こんな形になったのかも」野島は静かに言った。
3人はしばらく黙って煙を燻らせていた。40歳のアルベルティーナ、誰も7年間誰も面会に来ず、10歳の頃に夢見た「サルドネの花嫁」を、30年経ってこんな形で生きている。その切なさと滑稽さが、喫煙所の薄暗い空気に溶けていた。
エピローグ: 壁の向こう
その夜、小池は203号室の巡回でアルベルティーナを見た。彼女は壁に手を伸ばし、こう呟いていた。
「コンラード様…私がそばにいれば、あなたは私を愛してくれますよね?もう私を置いていかないでください…」
小池は一瞬、彼女が上嶋を抱きしめる姿に見えた気がした。でも、現実は壁に呟く40歳の患者だ。彼女の「サルドネの花嫁」は、継母に追われ、サルドネ王国で7年放置された妻の物語として、30年間彼女の心の中で育ち続けていた。上嶋が近くにいない分、壁がその代わりになっていた。
「ばあやとして頑張るか…」小池は小さく呟き、そっと部屋を後にした。