六夢「嘘をつきました」
「――ッ! もしかして思い出した!?」
ものすごい勢いで両肩を掴まれ揺すられる。
彼女が顔色を変えて驚愕するので、思いつきででた言葉に現実味が帯び始める。
「え、なあ嘘やんな、冗談やんな」
「……え、あ」
「ははは。はは……は。……、やっぱり冗談じゃないん?」
「……、ごめん。思い出せたと思って。ごめん……」
「え、あ、マジ……なん?」
「実は、その、……。いつの日かベットの上で眠り続ける日が、来ると思う」
「……ガチか。それってやばいやつやん。病気とか?」
「多分違うと思う。頭には包帯が巻かれてたはず。それに、……ごめん。記憶も明確なものじゃなくて、何時とか、何処でっていうのが全くわからなくて」
なんとなく理解できてしまった。
自分にはわからない未来の記憶があるから、当の本人である俺に未来の記憶を知ってほしかったのではないだろうか。残念ながら全く記憶などないが。未来の記憶があれば当然『無双』してやるところだ。
冷静に落ち着いたフリをして、考えを巡らせてみる。
頭に包帯を巻いていて、眠りから覚めない未来の俺。
考えられるのは車に轢かれたとか、階段から落ちた、とか? 色々な可能性がありすぎて、どこで大怪我を負うのか予想もできない。
もしくは地中外生命体が襲ってきたり、世界を救う勇者に選ばれたりするのだろうか。
「マジかよ。……え、じゃあ俺どうしたらええんよ。家で引き篭る?」
「できるだけ未来の記憶と変わった行動はとらない方がいいかも。原因がわからない分、最悪……未来にある記憶よりも、酷い状態になるかも」
「え、頭に包帯巻いてて眠りから覚めへん状態より悪いって、どんな?」
「最悪、死ぬ……とか?」
「え、じゃあ俺詰んでる?」
「記憶の中では普通に過ごしてたはずで、とりあえず普通に過ごすのが一番かなって」
「え、普通? 普通って何よ」
普通ってなんだ。自分の身を守る行為は普通に入るよな?
どう考えても身を守るために自宅に籠るとか、もしくは防弾チョッキを装着するとか、護身術を習うとかが得策だ。しかしそれを普通と言わないなら悪手となる。……むしろ、用意万端な状況を作ることで、大事件に巻き込まれたりする危険フラグが立つとか?
え、ガチで詰んでるやん。
何が原因かわからない状況で、対策をいくら考えても無駄だ。この世界でなら、何が起きてもおかしくないため自分を守る方法が思いつかない。あまりにもやばすぎる。
「普通は普通。友達と会話したり、私と一緒にいたり、あとは授業受けたり」
「……マジか。普通すぎてこわい。どこで怪我するかとかがわからんのが余計に怖いわ」
「大丈夫。私もできる限り早矢仕が危険な目に合わないように動くから」
「お、おーけー。どうしたらええかわからんし、八重頼みでマジですまんけど、よろしく頼むわ。もしテロリストが来たりしたら真っ先にかばってな!?」
「……テロリスト?」
「え? うん。あと化物とか、あと異能力を持った生徒から命を狙われたり」
「いや、ないからそんなこと」
「え? ないん? い、いやいやいやっ! わからんやんかそんなこと!」
「それは漫画の見過ぎ」
どうやら特別な力が宿ったり、化け物がいる世界線ではないようだ。残念に思う一面、やはり安心が勝る。
「……そ、そうか。ごめん。でも、なんでここまでしてくれるん? 未来では親友の枠超えてるとかそんな感じ?」
八重は俺との関係について触れてはいない。ただ話しをする程の仲ではあるようだから友達以上でははあると思う。俺のような人間と八重のような綺麗な女の子の二人が並んだ時に浮かぶ感想は、相性悪そうだなってことくらいだ。
彼女程の美人ならきっと俺以外にも多くの仲がいい友達もいるはずだ。想像すればするほどわからない。
そんな、多くの中の一人であるはずの俺が、未来で大怪我を負う未来を知っていたとしても、ここまでしてくれるのか。実は、イメージと違ってかなりお人好しなのかもしれない。
俺の質問に中々答えあぐねているのを見て、なんて俺はダメなんだと反省する。
「あ、ごめんごめん。答えにくいか! はは、忘れてくれ。てか、未来のこと聞きすぎるとダメ的な? ごめんさっきの質問はなかったことにしよう、な!」
「……なの」
「え?」
「わ、私と早矢仕は、未来で付き合ってるから……っ!」
「……は? ガチ? 俺と、八重が……?」
「う、うん……」
信じられない未来の話を聞いて、言葉を失う。
一体何の間違いで目の前の女子と付き合うのか想像ができない。全く、できない。
「おお、お~、まじか。なるほど、だからここまでしてくれてるんや。なるほどね……。あー、ありがとう。とりあえずありがとうやわ、うん。……。」
「……。」
とりあえず納得する。だから俺の未来を知っている彼女は心配してくれているのだ。未来の彼氏の安全を。
無理やり納得して、とにかく今は大事なことに話を戻すとする。
自分の未来の安全だ。
「と、とにかく! これからは八重頼みやからよろしく、な」
「……うん。頑張る。あと、ありがとう、信じてくれて」
「おお、別に、こっちこそって感じ。てか、そう……っ! 八重って『ありがとう』って言える子なんやな~」
「……。別にそれくらい言うから。あと、感謝の言葉は甲矢仕の方が……あ、そういえば、甲矢仕はなんでこんな早くに公園に着いてたん?」
照れ隠しなのか何なのか、露骨に話をすり替える彼女に思わず口角が上がる。
「えぇ~? 話の転換露骨~「――なんで?」……ノリ悪いなぁ。別に放課後は暇やし、仮入部は明後日やしな」
ノリが悪いなと悪態をついてから普通に答える。なんてことはない。仮入部は明日からだからそれまでは放課後の時間いっぱいに遊びたいものだ。
「今日の放課後、委員会総会があるって言ってたけど?」
「……え? なにそれ」
「委員会総会。委員会に選ばれた生徒が出席する集まり? 的な。給食委員は違う日?」
「いや、はは、今度こそ嘘やろ? あ、そうや! それこそ未来の記憶ではどうなんよ! 俺が無断欠席するの知ってたんやったらさ、それこそわかるわけやろ? 今ここで話してるってことはさ大丈夫なんじゃないん?」
「まず! 甲矢仕をずっと見てるわけじゃないから! だからそこまで知ってないから!!」
「ま、マジかよォ!! ど、どどうしよっ!? え、今から間に合う?! いや絶対無理やんもう日も沈みかけてるし、うわぁぁぁぁいきなりしくったぁぁ!! 神様どうか数時間前に戻してくださいお願いしますぅぅ!!!」
「……アホ」
× × ×
部活動紹介の行われた放課後に八重から衝撃的な話を聞いて二日が経った。
俺は放課後に行われていた委員会総会を無断欠席したことを八重から聞かされ、翌日担任の先生から怒られた。そして給食委員の担当をしている先生が出張か何かでその日学校にいなかったため、二日経った今、遅れて怒られている。
ちなみに八重に未来がわかるなら、せめて俺の失敗談を教えてくれと言ったが、『……え、失敗談? 絶対ダメ!』と頑なに教えてくれなかった。大きく未来を変えるつもりはないから、せめて失敗談だけでも改変したかった人生だ。
「――もうっ! 本当にさぁ〜。しっかりしてよぉーー。あなた達中学生の自覚と責任を持ってる? それにね――」
俺と木町は見慣れない教室で二人並んで、まだ一度も顔をあわせたことのない先生にかれこれ三十分以上説教をされている。
そう、まさかの失敗だった。
委員会総会の無断欠席は俺だけではなく、相方である木町も揃ってしていたのだ。大失態だ。
「あー、もう。次からは気をつけるようにしてねー、ほんとにー。本当にまだまだ言い足りないけど。私も忙しいからこれ以上はあなた達に時間割けないのぉーー」
「はい、気をつけます……」「申し訳ございませんでした」
「はあ~。謝って許されるのは、小学生の頃までです。あなた達は中学生で、さらにクラスの代表として給食委員を務めることになるのぉーー。その自覚をもちなさい」
「すいません、はい……」「以後気をつけます」
「……。あなた達には罰として、一カ月間のボランティア活動をしてもらいますからっ」
「えっ、はあ!?」「……わかりました」
耐え切れず大声で反発してしまう俺と、素直に言われた要件を飲み込む木町の相反する対応に、視線が交差する。
もしかして、このボランティア活動で大怪我を……!?
「ハーーヤーーシーーくーーんーー!?」
ゆっくりと間延びした話し方が特徴の先生。
長時間説教をされていたが、今、先生を本気で怒らせてしまったことを実感する。
「す、すすいませんっっ! マジで反省も猛省も激反省中です! 一学期ガチで一番頑張るんで本当に勘弁してください!」
「……。ほんとうにぃ? 今言ったことに嘘偽りの気持ちはないぃ~?」
先生からの本気の説教を逃れたい一心で思いつく限りの反省の意と今後の対応を勢いで発言した。それを今更「嘘偽りだらけの嘘八百です」なんて言おうもんなら、今度こそ俺の学生生活は終わることになるだろう。
よって、ここで選ぶ選択肢は一つしか存在しない。
「も、もちろん! 頑張りますよ! 俺は!! 他の誰よりも!!」
「ハヤシくん、調子いいことばっか言わないようにねぇ。……はぁ。わかりました。今日はもうこれで解散。次回以降はないと思ってください。ったく、もぉーー」
先生もやっと落ち着いた様子だ。深い溜息を吐いた後、「もういいわ、行きなさい」と顎をドアの方にしゃくって解放の意を示した。
教室を出る手前で、最後にもう一度深く礼をする。
すぐ扉を閉めたいと焦る気持ちを抑えて、ゆっくりと丁寧に閉める。
扉を閉め切ると、廊下の静寂が俺と木町の間に訪れる。
過ぎ去った嵐に、やっと肩の力が抜ける。長い時間硬直していた筋肉が一気に弛緩し、思わず立てなくなりそうになる足腰。
どうやら緊張で肩と足が凝ってしまったようだが、隣の木町も同じ様子だ。
「やっちゃったね、私たち」
少し歩いた先で、木町が前を向きながらあははと笑う。俺もつられて笑いながら「そうやな、最初から躓いてもうた」と素直な感想を返す。
俺と木町だけの重たい足音がリノリウムの床に反射して廊下に響く。
ここは特別棟と呼ばれている校舎らしく、普段の授業で使うことは少ないため人も少ない。
放課後には文化部が空き教室を使用していて、少し遠くからは吹奏楽部の演奏が聞こえる。
何も話さないのも、少し気まずい。何か話題がないかとそわそわする。
落ち着きのない様子が伝わってしまったようで、ふふと笑い声の漏れる彼女に「なんやねん」と思わず顔をしかめた。
「この後は、仮入部先に行く感じ?」
気まずい空気を察してくれたのか、先に向こうから質問が投げられた。
今日が初めての仮入部の日であるのにも関わらず、いきなりの遅刻に少し憂鬱な気持ちになった。
「あー、まぁ、そうやな。今から行ってもあんまり参加できんかもやけどな」
既に放課後になってから三十分以上も経っていて、今から部活に向かって着替えた後では下校時間まで残り少ない。四月の間は十七時が完全下校らしい。
先に水泳部の顧問には伝えていたので一応大丈夫だと思う。しかし色々と躓いてしまった。最悪のスタートダッシュだ。
「仮入部先は? 水泳部?」
「え? あ、そう。水泳部。あれ、話したっけ?」
「えー? だって自己紹介で特技水泳って言ってたし?」
確かに自己紹介で特技は水泳と言ったが、まだあの時は木町と面識はなかった。たまたま俺の自己紹介を覚えていたのか、もしくは全員の自己紹介を覚えているのかどちらかになる。
「もしかして全員の自己紹介覚えてんの?」
「さあね~? どっちでしょうか」
少し意地悪な笑みを浮かべながら口角を上げてニッと笑う。ショートカットの似合う彼女の純粋無垢な笑みは窓越しに差し込む夕日で赤く照らされる。
「それに部活動紹介では凄い前のめりになって聞いてたよねー」
「……よく、見てるな」
「まーね~」
今、自分がどんな顔をしているかはわからないが、彼女を照らす夕日はきっと、俺をも平等に赤く照らしてくれているはずだ。そうでないと困る。
数分前には先生から説教をされて、最悪の気分だったのに、今では浮足立つ自分が情けない。
自分の話題を続けるのは得策ではないと思い、逆に質問をすることにした。
「じょあそっちは? 何部に入る予定なん」
「女バス」
「ジョバス……。あー、女子バスケットか。そういえばそっか」
そういえば、朝の部活動紹介の時も木町は女子バスケットボール部の紹介の間は集中して聞いていた。俺がじっと見ていることにも気が付かないくらい、真剣に聞いていた。俺の存在をわざわざ気に掛けることもないので、気付かないことはおかしくはない。おかしくはないが、なぜだか彼女になら気付いてもらえる気がしていた。
「ん? 『そっか』って?」
自分はさっき、『そういえばそっか』と発言した。これは木町のことを見ていたという自白も同然だ。
失言だったと焦るが、これ以上の失態を晒さないために、深呼吸をゆっくりとしてから話す。
「……ほら、自己紹介で言ってたやろ?」
「私はハヤシくんと違って自己紹介では言ってないけど?」
俺は木町の自己紹介を覚えていない。
それはそうだ。俺はクラス三十人の自己紹介を覚えることができるほど記憶力はよくない。よく凛が『記憶力最悪』と弄ってくるが、あれは言い返すことのできない、紛れもない事実。
てっきり自己紹介で言っているだろうと思ったが、墓穴を掘った。
他に逃げ道はないかと模索している中、木町は先ほどよりも笑みを深めて距離を縮めてくる。
「ふーーん? 部活動紹介のとき、私のこと、見てたんだー? ふ~ん?」
ニヤニヤと鬱陶しい顔でうりうりとちょっかいをかけてくる。弄られて嫌な気はしないが、恥ずかしいし何かいけない扉が開きそうだ。別に開くつもりも開くことも決してないが。決して。
「別に。たまたま見てただけやから。たまたまや、たまたま!!」
「はいはい、たまたまね~。たまたま」
くくくと嚙み殺した笑いが喉で鳴っているのを無視して、徒歩の速度を上げる。後ろから「待ってよー。ごめんってー」と言いながらパタパタと軽快な足音を立てて横に並ぶ彼女。
先ほどまでは吹奏楽部の演奏がたまに聞こえるくらいだった廊下も、心臓の音が煩くてそれ以外何も聞こえない。
少しずつ運動部の元気な掛け声のほうが大きくなってきた頃、首や耳に感じる熱も治まり、紅潮していたと思われる頬も落ち着いてきた。
もう少し進んだ先を曲がると階段が見えてくる。そこを下りた先で、運動場へ向かう道と体育館へ向かう道の分かれ道があるはずだ。
憂鬱とした気分が完全に晴れたわけではないが、木町のおかげで少しは前向きに取り組めそうだ。
なんとなく、今更ではあるが、もしかして木町は俺のために気をつかってくれたのではないかと思い至る。
分かれ道の場所に到着した俺達は無言で立ち止まり、顔を見合わせる。
木町は俺が何か言いたそうにしている雰囲気を察してくれたのだろうか、いつものホワホワとした優しい表情で待っててくれている。
ずっとここで、こうしているわけにもいかない。木町も俺と同じで仮入部の時間を奪われている。俺がこれ以上もたついていると不必要に時間が奪われてしまう。
相手のためだと改めて意識をすることで、決心がついた。
「木町、その、ありがとうな。正直かなり落ち込んでたし、初めての仮入部当日に遅刻にもなるしで。最悪やった気分も木町のおかげで少しマシになったわ。だからありがとう」
少し回りくどい言い方になった。だけど、しっかりと伝えたい気持ちを相手に言うことができたと思って、木町の顔をしっかりと見る。
木町は笑顔で首を横に振った。どういう意味か理解できなかったが、後ろ向きな答えではないことがなんとなく空気間を通して伝わってくる。
「別に大丈夫だよ、私だって落ち込んでたし、でもそれ以上にハヤシくんが落ち込んでて笑ちゃった。だからそのおかげで冷静になれたのかも?」
「お、おう……」
「あ、でも! ウチのおかげでって言うならありがたく受け取っておこうかなっ!」
「おう、受け取っててくれ。大したもんでもないけどな」
「友達なんだから必要ないよ。言葉で十二分。むしろそれ以上かも」
「――っ」
友達、と木町に言われて少し昔のことをおもいだす。
「それじゃ、俺こっちだから」
「うん。私はこっち」
お互いの指の刺す方向は違う。俺は運動場へ向かう道へ。彼女は体育館へとつながる道だ。
水泳部の活動場所は運動場に向かう途中にある連絡通路を通った先に水泳部の部室兼更衣室がある。女子バスケットボール部の活動場所は体育館だ。
「また明日な」
俺が先に背を向けて歩き出し、部活動へのドキドキや不安に意識が切り替わるタイミングで「あのさ、」と背中に声をかけられる。首だけで振り返って「どうした?」と立ち止まる。彼女はさっき見せたニヤニヤとした表情で両手を後ろに組んでいる。嫌な予感がしたけど俺はそのまま立ち止まる。
「私も見てたよ。部活動紹介の時」
「……え? …………は?」
思わず呆気に取られていた俺を「それじゃ!」といって、廊下を軽快な足取りで駆けていく。その足取りは最初に聞いた重たい足取りと違って、羽のように軽かった。
「……。おいおい、……っ」
思わず俺はその場にうずくまって頭を抱える。
最近、色々ありすぎや。
はぁ、顔が熱い。今日なら寒中水泳も余裕だが、四月の間は陸トレと聞いている。
少し先で、恐らく水泳部と思わしき集団が縄跳びをしているのが見えた。
まだ見慣れない景色ではあるものの、目に入るどれもがそのうち日常になって普通になる。
「普通、か……」
誰にも聞かれない声量で零す本音。
どこが普通かと言いたい最近の出来事の数々の笑いがでる。
ここ数日の間、色々な想像に頭を抱えた。
八重の言う通りになった場合、俺は未来で大怪我を負うそうだ。
最初はその事実に怯え、震えてていた。何が原因で、いつ、どこで怪我を負って、眠り続ける日がくるのか。この不安を思い出すと、数秒前まで普通に鼓動していたはずの意識が、まるで現実から切り離されたかのように、視界が真っ暗に染まる。
「ふう、大丈夫。今は、大丈夫。……ふぅ」
ゆっくりと深呼吸して、落ち着くように言い聞かせる。
なんとなく振り返るも、木町の姿は既にない。どこか寂しさを感じる。この場に俺は一人だけ。完全に取り残されてしまった。
本当に、そうか。俺は取り残されたのか……?
深呼吸をして思い出す。木町とのやり取りに八重との会話。全く関係のないクラスメイトに、親友の凛。そして両親もいる。
いつの間にかその場でうずくまっていた俺は、よろよろと立ち上がって、グラウンドを見渡す。運動部が一生懸命になってボールを追いかけている姿があった。運動部の掛け声にあわせて、一斉に走り出す姿があった。
俺の知らない世界でも、人は変わらず全力で普通を生きていた。
皆、明日がどうなるかなんて気にする素振りもなく精一杯生きている。
でも、俺は知っている。未来で自分がどうなるかを。
未来で怪我をすると聞いてからずっと迷っている。
でも、迷うって何にだ。迷って、困って何になる?
未来を変えることができるなら万々歳だが、変えられなかった時はどうだ? それが、迷って困っているだけの俺に災いが襲ってきたとき、果たして俺は納得できるのか。
絶対にできない。後悔しかしない。満足なんて、絶対にない。迷って、したいことに蓋をした分だけ、やり残した数々にしがみついてしまう。しなかったことを後悔するんじゃない。迷って困って何もできなかったときが怖い。
もったいないと、そう思ってしまう。
それなら俺は、迷って困って蹲っている場合じゃない。答えは最初から決まっていたんだ。
この狂ってしまった世界でも『普通』に生活を送って満喫するんだ。そうしたらきっと、動けなくなったときも、何もできなかったときに比べて納得ができるはずだ。きっと、もったいなくない。
俺は、自分が何をすべきかを見定め、今度こそ歩き始める。
水泳部の部室に遅れて参加したころにはトレーニングのメニューは終わっていたので、制服のまま少ない残り時間を過ごした。