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1次創作/ロゴス魔法学校

長夜、満ちて灯る

作者: 花楓

月の光も差さぬ程夜も更けた頃、ベッドの隣に置かれたサイドテーブルの燭台の炎がこの部屋の唯一の光源であった。

揺らめいている炎の下で、シトロンは静かに手元の書物に記された文字を追っている。


この書物は屋敷の当主から借りたものだ。

屋敷には意外と書物が多く所蔵されており、尚且つ毎日一冊読んでも追い付かない頻度で入れ替わりも激しいので、シトロンはいつも数冊まとめて手に取るようにしていた。


手に持っている書物の他に、もう数冊拝借した書物をベッドサイドテーブルに積み上げている。

燃えてしまう恐れがあるので、自身とは反対のベッドサイドテーブルに。


シトロンはその反対側のテーブルにちらりと視線を向ける。

テーブルに行き着く手前、ベッドの上に一人分の空間が不自然に生まれていた。


その空間は、ここで眠る男が不在であることを証明している。



その男はシトロンの夫である。



男はこの屋敷の当主に仕える使用人で、主人の命により現在遠征中の為不在。

恐らくあと数日は戻ってこないだろう。

つい先日、いってらっしゃいと見送ったのだが、遠い昔の出来事のように思えてならない。


この屋敷に来てから与えられたシトロンの自室にはベッドがない。それは最愛の男と共に眠る為だけの寝室が屋敷に用意されているからだ。


最初の数日は珍しい気分だったのだ。

案外このベッドって広いのねと感心もした。 

けれど時が経つにつれ、徐々にシトロンの心に寂しさが募ってゆく。


平均よりも若干低めの体温を持つ最愛の男は必ずといっていい程シトロンを自身の逞しい腕で抱きしめて眠った。

シトロンも男の胸にすり寄る形で眠った。


体温を共有するように体を寄せあって眠ることがとても安心できるから、このベッドの上はシトロンにとって心が休まる場所の一つであったはず。


なのに。


彼と自分が二人並んで入っても少し余裕のあるベッドが、今はとてつもなく広くて、冷たくて、寂しくて。


それでも遠い地へ仕事に向かうあの男を引き留めることはシトロンにはできない。

彼にとって仕えるべき主の命令は絶対で、その主の役に立つ為に彼は全てを捧げたのだ。

その人生をかけた思いを知っているから、シトロンはその男の道を止めることはない。


あの真っ直ぐな忠誠心を掲げ、狂気とも言える程己の強さをひたむきに追う彼に恋をした。

そんな彼だからこそ、共に歩んで支えていきたいと思った。


だからシトロンはいつも笑顔で見送る。


無事に帰ってきてね。

わたしはいつまでも待ってるから。


そんな願いを込めながら、シトロンは美しい笑みを携えて男の背中を押すのだ。


シトロンは手元の書物をパタンと閉じる。

少し思考の海へ身を預けていたら、どうやら微睡んでいたらしい。


そろそろ寝ないと、明日もジュリエット様を起こすところから始まるから…


ページに押し花の栞を挟み込み、他の書物を積み上げたベッドサイドテーブルの方へ、その書物を乗せた。


少し位置のずれたベッドシーツを簡単に整え、主より拝借したブランケットをくるりと自分の上半身へと巻き付けた。


夢の中であなたに会えたらいいな。


そう思って、燭台の炎を消そうと蝋燭に顔を寄せたその時だった。



カチャリ


静かにドアノブがまわされた音がした。


シトロンはドアを凝視する。ドアノブの動きはゆったりで、音を立てないようにこの部屋に侵入しようという意図が明確である。


全身に緊張が走る。


いざとなれば迎撃しないと

ジュリエット様をお守りしなくちゃ


身構えた時、扉が開いた。


扉の奥に、漆黒の闇に溶けた微かなネイビーブルーを、シトロンの瞳が捉える。

見覚えのある色だ。


まさか


「ブルー……???」


「シトロン……?」


静かに扉を開いて入ってきたのは、シトロンの最愛の夫、ブルーであった。


ブルーはきょとんと目を丸くし、ベッドの上で同じく目を丸くしているシトロンをじぃっと見つめた。


シトロンの緊張の糸がぷつんと切れた。

と、同時に今度はとくんとくんと心臓の鼓動が

速くなっていく。


彼は遠征中のはずなのに、自分の目の前にいる。


夢を見ているのかと勘違いしそうになったが、自分がブルーを見間違えるはずがない。


どうして、どうして、でも


シトロンはベッドから降りて、ブルーに向かってぱたぱたと駆け寄ると勢い良く彼の胸へ飛び込む。自分一人が力一杯抱きついてもびくともしないその屈強な体にそのままくたりと体を預ける。

彼は予想通り、シトロンを難なく抱きとめるとそのまま彼女を優しく抱き締めた。大きな手でシトロンの髪をゆっくりとすいていく。


間違いない

ブルーだ

ブルーがここにいる


シトロンはたまらなくなってブルーの胸に頬擦りし、耳をピタリと添わせる。

彼の心臓の音が聞こえる。

生きている彼がここにいる。


ブルーからふわりと冬の冷気を感じる。ブルーがこの屋敷に帰ってきて間もないことを示していた。きっとこの部屋へと直行してきたのだろう。体が随分と冷えきっている。


「あなた、おかえりなさい、お外寒かったでしょう?」


「ああ、雪がちらついていた」


「あら…どうりで寒いと思った…ジュリエット様がブランケットを貸してくださったのだけど、やっぱり寒くて…」


「外なんか最悪だ。遠征先では睫毛が凍った。」


「まあ…それは大変」


二人は抱きしめあったまま、小さな囁き声で他愛もない話をする。いつも眠る前に二人でベッドの上に寝転がりながらする日課だった。

じわりじわりとシトロンの体温がブルーの冷たい肌に溶けていく。

二人が抱き合って数刻経っただろうか。不意にブルーがシトロンを抱きしめていた腕を解く。


「……………シトロン」


「うん」


「………わるい。もう行く」


「うん。遠征?」


「ああ」


だろうなと思った。とシトロンはくすりと笑う。


何故ならブルーはこの寒さの中で防寒具を何一つ身につけていないからだ。


彼が愛用している香水の香りに混じる微かな血の痕跡。

恐らく防寒具として着用していた外套に返り血でもついてしまったのだろう。

シトロンに会う前にその外套を脱ぎ捨てて、愛用の香水で誤魔化そうとしたのだ。


血生臭い自身を感じさせない為に。

シトロンを安心させる為にブルーが行った拙い偽装工作に、彼の不器用な優しさが汲み取れた。


「本当は屋敷に帰ってくる予定じゃなかったんだ。でも、何だか、ものすごく、シトロンの顔が見たくなって、帰らせろと駄々をこねた。」


「…………」


「この時間きっと寝ているだろうから寝顔だけ確認してすぐに発つつもりだった。けどお前が起きていたから、つい話をしたくなって。」


「…………」


「お前をこの腕におさめた瞬間、今すぐそこのベッドに滑り込んでお前を抱きしめたまま眠って一緒に朝を迎えたいと思った。………本当に」


ブルーの口が珍しくまわる。

普段ブルーが話をしない分シトロンがたくさんの会話を投げているのだが、今回は逆だった。

しかもこれは会話とは言い難い。

ブルーの独白である。


「シトロン」


「なあに?」


「愛してる」


「うん、わたしも愛してる」


静かな愛の語らい。

シトロンだけしか知らない、ブルーの愛を囁く際の声色。

普段冷たく感情の起伏が感じられない彼の、甘さを含んだ特別な低音。

その甘さは鼓膜どころか脳まで震わせ、シトロンを夢中にさせた。

ブルーの、愛してる、をもっと聞いていたい。

感じていたい。

この時がシトロンにとって紛れもない夢のような幸福の時間である。


だが、そんな夢の一時もどうやら終焉のようだ。名残惜しそうにブルーはシトロンを解放する。


「何かあったらお嬢に言え。必ずお前を守ってくれる。」


「うん、わかってる。でも私もジュリエット様を守るわ。テレメゴールの一員だもの。私だって炎魔法を使って戦う。」


「そのときは頼む。あと、この遠征が終わったら二人でどこか出掛けよう。………久々にオイコスに行ってもいい。」


「本当?楽しみにしてるわね。でも無理はしないで。あなたの体の方が大事だから、お出かけは次の機会でもいいの。」


「…休みをとる。お嬢だけシトロンとずっと一緒に過ごしているっていうのは………正直気にくわない」


「もしかしてそっちが本音???」


思わず吹き出してしまった。

こんなにも屈強で頼もしい男であるのに、シトロンの前ではわりと存外にかわいい反応をするのだ。

特にこのブルーのむすり、と口をへの時にしてむくれている癖はいくつになっても変わらず、シトロンの心を簡単にくすぐる。


そんな不機嫌な唇へ、シトロンはたまらず、ちう、と吸い付いた。

一瞬驚愕にぴくりと瞼を震わせたが、ブルーはシトロンの後頭部に手を回して固定し、そのまま口づけを深くする。

角度を変えて互いに唇を何度も合わせる。

体温を分けあうような優しい口づけ。

最後は軽いリップ音を奏でて唇が離れていった。


「………いってくる」


「いってらっしゃい」


ブルーは微かに唇をつり上げてシトロンの頭を優しく撫でた後、部屋の扉を開けて出ていく。

扉の向こうで遠くなる足音を聞きながら、シトロンは自分の唇を人差し指でなぞった。


あんなに寂しさを募らせて暗い曇天が覆っていた胸の内が一気に晴れやかになる。


彼が、シトロンに会いたいと思ってくれている。シトロンと同じ気持ちであったことが、彼女の心を喜びで満たしていく。


彼の帰る場所になれていることが、嬉しくて、幸せで


シトロンはブルーから分け与えられたぬくもりが逃げぬように急いでベッドへ潜り込む。

自分の体から彼の香水の香りが微かに鼻腔を擽った。きっと先程の包容で香りが移ったのだろう。


香りも熱も、少しでも長く、ここに留まっていてほしい。


シトロンはゆっくりと目を閉じた。


また数日間寂しい時間を過ごさないといけないけれど、彼は必ず帰ってくるから。

その時は、笑顔で、おかえりなさい、と迎えたい。


しんしんと降り積もる雪が一等に寒さを強くして体を冷やすはずなのに、シトロンの身も心も穏やかな暖かさに包まれている。


おやすみなさい。

凍えるような寒さに耐えてがんばるあなた。

何事もなく無事に帰ってこれますように。


愛する夫にささやかな祈りの言葉を念じながら、シトロンは夢の中へと足を踏み入れたのだった。


良い夢を。愛する人へ。

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