10年間引きこもっていた私がお城の夜会に行ってみたら
(まずいわ。誰かが私を尾けてるみたい。でも、どこに逃げればいいのかしら)
ほとんど初めて来たような場所を少女はドレスをつまんで闇雲に走る。
と言ってせいぜい早足程度だ。
(すぐ追いつかれてしまうのではないかしら)
今日のために仕立てたドレスは装飾が多くて重い。
(かかとの細いヒールなんだもの、早足なんて無理よ)
今駆けている場所が王城に隣接する庭園のようなところであるのは昼間確認している。
けれども今は宵闇に覆われてまわりもよく見えない。
それにまわりは灌木と草花、芝生。
そんななかどうやって追っ手を捲けばよいのかもわからない。
少女は自分の心の中の不安を覚られないように足取りだけは落ち着いているように心がける。
でも内心、少しずつ焦り始めていた。
(私、どうなるの?)
少女の名はリリーベル・クロネッカー。
王城で文官を担うクロネッカー伯爵家の長女である。
年齢は十五歳。
体格は小柄のほうで、どちらかと言えば痩せ気味。
背中まで伸びた薄いベージュの髪は生まれつき全体にゆるく巻いている。
アーモンドの形をした二重の大きな目は長く黒いまつ毛で縁取られ、瞳は薄く赤みを帯びた黒色。
鼻も口も慎ましやかな愛らしい顔立ちである。
その彼女は今日、国王主催の夜会に招待されていた。
そして彼女は今日という日をとても楽しみにしていたのだ。
(なのにここでこんな怖い目に合うなんて…王城は治安がいいって言ってたのはだあれ。ちょっとそこのおとうさま。私、今、知らない人に追われてるんですけど)
いつもは大好きなちょっと暢気な父のことを悪くは言いたくなくて、こんな時でも茶化してしまう自分が恨めしい。
だが、リリーベルは本当は気がついていたのだ。
お城のあの広間にいるときから、自分のことを見ているような気配に。
だから、今ごろになって激しく後悔していた。
(やっぱり広間にいるときに誰でもいいから話しかけるべきだったのね)
こんなふうに一人になるのだけは絶対に避けなければいけなかったのだ。
でもその時はできなかった、頭の中ではそう思っていても。
リリーベルは他人と話すのが苦手なのだ。
そのせいで今の今までいろいろな夜会を避けてきたのである。
と言ってもそれは生まれつきではなかった。
幼い頃は初対面でも、誰とでも物怖じしないで話のできる子どもだったのだ。
それが今ではもう、家族以外とは面識のある人とでもなかなか話ができないというありさまだ。
もちろん事務的な話はできるし、社交も最低限はこなす自信はある。
最低限は。
でもできれば避けたいというのが本音だった。
そんな、他人と話すのを苦手としているリリーベルが今夜ここに来てや海に出席したのには深いわけがある。
お城の中に入れてもらえるからだ。
十年ほど前まではお城は城勤めのものとその家族が自由に入れる場所だった。
ところが、あるときを境にお城は王さまが許可した人しか入れなくなったのだ。
お城に入れるのは、王族以外はわずか数人。
お城で要職についているリリーベルの父すら、登城の許可が得られない。
必要なことは書類を手渡すか、口頭で代理人に伝えるか。
(十年もの長い間、よくそんなことでお城の仕事が回ったわね、正直な話)
リリーベルは城の仕事のことなど詳しくはよく知らないし、理解する必要もないと思っていたが、事の重大さ、異常さはわかる。
伯爵家の長女として幼い時から領地経営には関わっていたし、領主がどうやって仕事を回しているかもわかっていたからだ。
それが、今回は十年ぶりに大規模な夜会を行うという。
そしてクロネッカー伯爵家にも招待状が届き、機を逃すまいと出席することにしたのだ。
なぜそこまでしてお城の中に入って見たかったのか。
実はリリーベルにはお城の中で確かめたいことがあったのだ。
自分が小さい頃、まだお城の中に自由には入れたころにそこで一緒に遊んだ男の子は誰だったのか、できるならその正体を知りたかったのだ。
(彼はお城にいたんだもの。お城の子だよね。しかも五歳の子どもの目で見ても、質のいい服を着ていた。だから、貴族かもしかしたら王族か。あの子は確か私よりも三つ上だと言った。それなら今は十八歳くらい。もし、あの子にもう一度会えたら、私もまた幼い時のように誰とでも屈託なく話せるかもしれない。そして、もう、あの子への気持ちに蓋をできるかもしれない)
はっきりと覚えていないが、その男の子が好きだった。
そして彼との間に何かがあった。
そのせいで自分は他人と話すことができなくなった。
だから彼の正体を知り、そのころの自分と決別して、今の自分をなんとかするきっかけにしたい。
…というのが、動機であり目的だったのだ。
十年前ほど前のこと。
要職に就くリリーベルの父が城に一週間ほど泊まり込んだことがあった。
事情は幼かったリリーベルにはわからない。
わからないが、とにかくその間母と彼女も一緒に城で過ごすことになったのだである。
と言って、幼い子どもにとって城での生活は退屈だ。
大人たちが忙しくしているのをいいことに、初日から城の隣の庭園に遊びに出た。
昼下がりに会ったのがその男の子だった。
城でその日何回目かの鐘が鳴る。
「ねぇ、きみ、そんなところでなにしてるの」
植え込みの中に頭を押し込んでリリーベルが隠れていたときに男の子の声がした。
「み、みつかっちゃった」
外に見えている部分が下半身だけだったリリーベルが、植え込みから押し込めていた上半身をよろよろと引き出した。
「なんだ、かくれんぼしてたのか」
リリーベルが声の主を見る。上質な生地と丁寧な縫製のクリーム色のシャツに深い緑色の半ズボン。肩よりも少し長い金色の髪を左肩のところでゆるく結んでいる。
(こんなきれいなおかおのひと、みたことない)
リリーベルは言葉を失くしてしまう。
自分の格好と来たら、髪の毛には枯れ葉がいっぱい絡まり、顔には土がついていて、お気に入りの薄ピンクのドレスも汚れてしまっていた。
男の子が「どろだらけだよ、ふわふわがみのようせいさん」と言いながら、髪の毛に絡みついた葉っぱを一枚一枚つまんで捨てる。
そして自分の手でリリーベルの顔の土を拭い、ドレスの汚れをパンパンと払ってくれた。
「あ、ありがとう」
(わ、わたしもおれいになにかしなきゃ)
リリーベルが持っていたハンカチをポケットから取り出して男の手をゴシゴシ拭く。
男の子が透き通るような碧い目を見開いて
「そのハンカチでまずふかなきゃいけないのはきみのかおだね」
とクスッと笑った。
さすがのリリーベルもちょっと恥ずかしくなって照れ笑いした。
「そうだ、さっき、みつかったって。かくれんぼしてたの?」
男の子に問われてリリーベルが頷く。
「うん、コーシーにさがしてもらうの」
「コーシーってだれ?」
「じじょだよ」
男の子は上から下までリリーベルをしげしげと見つめた。
そして顎に手を遣り、「ふーん」と言って
「ぼくはフォン、きみは」と尋ねた。
「リリーベル・クロネッカーともうします」ときれいなお辞儀をする。
フォンと名乗った男の子は「おじぎはきれいだな」と感心して「クロネッカーはくしゃくのれいじょうか」と呟いた。
植え込みの前に置かれたベンチに二人で座り、話し始める。
地面を歩いているアリのこと、傍らの木に咲いている花の名前、どこかでいななく馬のこと。
どれもたわいのない話だが次から次へと話が弾む。
その時、遠くから「リリーベルおじょうさま」と探す声が聞こえた。
その声に慌てたのはフォンのほうだ。
「いけない、だれかくる。ねぇ、リリー、あしたもここにきてね。あと、そのドレス、叱られるよ、覚悟して」
フォンがいたずらっ子の顔をしてそう言うと、リリーベルが「リリー?」と首を傾げた。
「わたし、おとうさまとおかあさまからはベルってよばれてるよ」
「ならちょうどいいな。きみはリリー、あっリリーってよぶのはぼくだけね。やくそくだよ。ぼくのことはフォンでいいよ。あと、しかられるのはきみじゃなくてコーシーね」
そう言って振り返り振り返り走り去って行った。
(やくそくって、あしたもここにくること?それともリリーってよぶのはフォンだけってこと?)
リリーベルにはわからなかった。
とにかくそのあと、リリーベルを見つけたコーシーが困り果てたこと、コーシーがリリーベルの母親にこっぴどく注意されたのは言うまでもない。
二日目。前日にお高いドレスを土まみれにしたせいで、リリーベルは母からかくれんぼを禁止されてしまった。
しかも、外に出ないように城詰めの夫人たちのお茶会に連れられて行くことになった。
リリーベルの父親と同様、城に缶詰めにされた役人の家族が暇を持て余しているのだ。
だがそのせいでなかなか抜け出せない。
(あぁもうきょうはむりなのかな)
ゴーン、ゴーン。
昨日隠れた時に聞いたのと同じ鐘が聞こえた。
焦る。
でもまだまだお茶会は終わりそうになかった。
(なんとかぬけだせないかな)
リリーベルは幼いながら知恵を働かせてもじもじしながら母親に声をかける。
「おかあさま、おはなをつみに」
「あらあらベル、我慢してたのね。場所はわかる?」
当惑しながら母親が訊く。
お茶会はたけなわでどうやら母親は抜け出したくないようだ。
快く送り出してくれた。
それでリリーベルはこれ幸いと目的の場所に向かう。
(さいしょっからそういえばよかったかな。まあ、とにかく、いまはいそがなきゃ)
大急ぎで行くとフォンがもうすでに来ていた。
昨日と同じように質の良い生地でできた丁寧な縫製の水色のシャツと少し光沢のある藍色の半ズボンをはいている。
「おそかったね、リリー」
少し寂しそうに笑った。そして
「ごめんなさい、おかあさまが」
とリリーベルが言うのを遮って、
「いいよ。じかんがもったいない、はやくいこう。ついてきて」
と手を差し出した。
「フォン、まって」
フォンの手をとって、リリーベルも駆けだす。
着いた先はお茶会の場所とは反対側の庭だ。
「ここだと、だれにもみつからないよ」
フォンが片目をつぶる。
そして、その場所に生えている大きな木の根元に腰を下ろした。
「リリー、ここ」
隣の場所をポンポンと掌でうち、隣に座るように催促する。
「うん」
リリーベルが座ると、満足そうに微笑んで、ポケットから何かを取り出した。
「これは?」
「クルミだよ」
フォンはクルミを受け取ったリリーベルのようすをじっと観察した。
何の変哲もないクルミを彼女がどう扱うのか、試しでもするかのように。
「ふーん」
リリーベルはそれを近くの石で割ろうとしたがうまくいかない。
「かたいな」
何度やっても割れないので、木の幹にゴシゴシとこすりつけたり足で踏み割ろうとしたり。
そうこうするうちに、リリーベルは別の遊びを思いついた。
いったん両手を後ろに回してクルミをどちらかの手に握り、両方の手を握った形でフォンの前に差し出す。
「どっちだ。クルミはいってるの、どっちだ」
フォンは目を丸くした。
リリーベルの手は小さくクルミははみ出していて、答えは一目瞭然だったから。
けれど、いたずら気を出して
「こっち」
とわざと入っていないほうの手を指す。
幼いリリーベルはくるみがはみ出していることに気づいていない。
「はずれ」と笑うリリーベルが眩しいとでもいうようにフォンは目を細めた。
「じゃあこんどはぼくにやらせて」
「いいよ」
リリーベルがクルミを渡すと「どっちだ」とフォンが両手を出した。
「こっち」と右手を指す。
フォンは悔しそうに「あたり」と手を広げた。
けれど右手の中にあったのはクルミよりやや小さめの琥珀だった。
虫入りできらきらと光っている。
「こはくっていうんだよ」
リリーベルは一度は「わあきれい」と目を輝かせたが、すぐに「当たってない」と怒り出した。
(フォンがかくしたのはクルミのはず。こはくじゃないもん)
リリーベルの猛抗議にフォンが「わかったわかった」と左手も開く。
が、左手の中には何もない。
「ねっ、リリー。あたりだったでしょ」
少し不服そうに不思議がるリリーベルにフォンは
「これあげる。リリーがもってて」
と琥珀を握らせた。
“知らない人から物をもらってはいけません“
リリーベルの頭の中を一瞬母の言いつけが過る。
(でも、フォンはもうしらない人じゃないよね)
「ねえ、フォン、わたしたちって、しらないひと?」
確かめると、フォンは
「ううん、なかよしだよ。リリーはぼくのなかよし、だいじなひと」
とにこにこしてくれる。
「ありがとう。じゃあ、だいじにするね」
リリーベルは安心してドレスのポケットにしっかりしまい込んだ。
それを見届けてからフォンは
「きょうはもうかえったほうがいいよ。あした、またいつものじかんにいつものばしょにきて」
と言って、お茶会をしている部屋に通じる近道まで連れてきてくれた。
お茶会の部屋に戻ると、トイレに行ったはずのリリーベルがなかなか戻らないことを心配した母親が彼女の姿を見て、心底安堵した顔をして抱き締めてくれた。
三日目、四日目、五日目。リリーベルはうまく抜け出せるようになっていた。
いなくなっても結局は心配するほどでもない時間にきちんと戻ってくる。
それでリリーベルの母も侍女のコーシーも慣れ、彼女を信用するようになっていたのだ。
もっとも、それはフォンがうまく取り計らってくれているからだが。おかげで、リリーベルとフォンは庭のもう少し遠いところに行ったり、あまり人に知られていない裏口から図書室にこっそり入り込んだりして、楽しく過ごした。
六日目。ご夫人たちはガーデンパーティーを開いていた。
外での催しはリリーベルにとっては好都合だった。
すぐに約束の場所に行けるし、子どももたくさん来ていて、みんな思い思いに遊んでいるからいなくなっても目立たない。
けれど一つ問題があった。
纏わりついてくる男の子がいるのだ。
(しょうがない、あのてをつかおう)
「そうだ、ミック、かくれんぼしましょう!じゅうまでにかいかぞえてね。そのあいだに、わたしかくれるね」
そう言って、さっと駆け出した。
ミックの「いーち、にぃー」と叫ぶような大声が聞こえる。
大急ぎで約束の場所に行くが、まだフォンは来ていなかった。
きょろきょろと探していると、「ベル、どこー」というミックの声が近づいてくる。
慌てて納屋のような小さな建物の陰に隠れようとすると、手をそっと引っ張られた。
「リリー、こっち」
フォンが建物の中に引き入れて内側から鍵をかけた。
リリーベルは鍵をかけるという行為がちょっとこわくてフォンをじっと見る。
(けれど、フォンのめはやっぱりすきとおったあお。いつものやさしいフォンのひとみ。わたしのだいすきなひとみ。わたしをだいじそうにみてくれるひとみ)
リリーベルはもう疑わない。
こわくない。
「フォン、きょうはなにしてあそぶ」
フォンは一冊の絵本を取り出した。
リリーベルが初めて見る絵本だ。
かっちりした装丁の表紙の角が少し擦り切れている。
「僕が大好きなお話だよ」
そう言ってフォンがリリーベルに読み聞かせをはじめた。
とてもなかよしだった男の子と女の子がお別れしなくちゃいけなくなる。
別れ際、男の子が女の子に大切な三つの呪文を教えてあげる。
大人になった二人が再会して、その呪文のおかげで幸せになるというお話だ。
読み終わったあともフォンはいつもよりさらに優しい目をしてリリーベルを見ていた。
でも、少しだけ辛そうに言う。
「ごめん、リリーとはきょうでおわかれなんだ」
リリーベルはひどく驚いた。
「なんで。フォン、いなくなっちゃうの?あっさっきのおはなしとおなじ?」
「ああ、でも、またあえるときがきっとくるから」
フォンは優しくリリーベルの髪を梳いた。
「いやよ」
思わずリリーベルはフォンに抱きつく。
甘くて優しいにおいがふわっと香った。
フォンは一瞬だけリリーベルを強く抱きしめたあと、からだを放して
「ほら、もう、じかんだよ」
そう言って、内鍵を開けて、リリーベルの手を引いて出してやった。
「さようなら。もうおゆき」
隠れているはずのリリーベルを探す声がいつの間にかミックだけでなくなっている。
大人も総出で探しているのだ。
「わたし、ここよ」
そう声のする方向に叫んだあと、リリーベルがフォンのほうをもう一度振り向いたが、もう彼はいない。
リリーベルはフォンの面影を振り払うように、あわてて
「ミック、ごめんなさい」
と言いながら、彼らのもとに戻った。
七日目。リリーベルは母から急に「今日帰るわよ」と言われて馬車に乗った。
(ずっとおしろにいるのかとおもっていた。じゃあ、きのうはわたしからもフォンにさようならっていわなきゃいけなかったんだ)
心に区切りがつかないまま馬車の窓から外を見た。
生憎の雨でいつもフォンと待ち合わせた場所も一緒に出掛けた場所も濡れそぼっている。
フォンとの思い出も全部流されてしまったように見えた。
(せっかくなかよくなってもこんなふうにあっけなくさよならするくらいなら、フォンのことなんかしらないほうがよかった。もうあんまりほかのひととおはなししたくない)
リリーベルはそう思ってしまった。
一方で強く思う。
(だけど、フォンともういちどあいたい。ひとめだけでも)
もうずいぶん逃げている気がする。
誰かがまだ追いかけてくる。
(ああ、でも、だんだん、足が疲れてきた。もうだめ。逃げられない)
そう思ったとき急に足元が抜けた。
どすん。
思い切りしりもちをつく。
「イタタタ。えっ、ここどこ」
辺りは夜の闇以上に暗い。真っ暗だ。
リリーベルはまず手と腕を確認した。
手はかすり傷を負ったのか少しひりひりするが、腕は動く。
落ちた時、変に手をついて嫌な予感がしたけど、手首も肘も骨は折れてない。
ぶつけたところも大丈夫。
上半身の無事を確認したところで、追いかけてくる人が気になってそっと上を見上げてみる。
思った以上に深い。
だけど、頭上に人の気配はない。
(きっと、私が穴に落ちたせいで見失ったのね。不幸中の幸い)
リリーベルはその場にそっと立ってみる。
穴の大きさは人ひとりがやっと収まるくらいだ。
穴の入口は自分の手がかかるか、かからないくらいのところにあって、結構深い。
おしりと腰はさすがに少し痛いが、足はさほどでもない。
ちょっとひねったのか歩きづらいけど。見れば枯れ草がたまっていてクッションになっていたようだ。
(でも、どうしよう。自力じゃ、外に出られないな。それに外に出られたとしても、まだあの、誰かわからない人が探してるかもしれない。こわい。やっぱり、明日になるまで待つのかな)
そう思いながら、疲れ果てていたのか、いつの間にかリリーベルは眠りについていた。
(うわっくすぐったい。なに?私のそばに何かいる)
リリーベルは気配を感じて目を覚ました。
真夜中だと思われる頃だ。
私、寝ちゃってたんだ。
気がつけば膝を折り、座ったままで眠ってしまっていたようだ。
うっすら目を開けると、月明かりが入ってきて仄かに明るい。
そして右の脇腹が妙にくすぐったい。
顔を近づけて目を凝らしてみたら、手のひら大のアカネズミがいた。
「きゃっ」
リリーベルは正直なところ、動物が得意ではない。
逃れたい。
でも穴は狭い。
小動物をよけてからだをずらすほどのゆとりもないのだ。
少しだけ我慢していると、アカネズミはドレスの上に乗っかってきた。
そしてしきりにドレスを掻く。
その様子が少しユーモラスで思わずくすっと笑ってしまった。
アカネズミが気にしているのはちょうど右ポケットのあたりだ。
右ポケットにはフォンからもらった琥珀を入れている。
十年前にフォンとさよならした日からずっと、お守り代わりに持ち歩いているのだ。
リリーベルはポケットに手を入れる。
ドレスの上でアカネズミはなおも手足を動かす。
それがちょうどポケットの中のリリーベルの手を掻く恰好になっていてまたしてもくすぐったい。
ふふっと笑いながら
「なに?きみ、これほしいの?」
と言って取り出したものを広げて見せた。
広げて見せて、リリーベルのほうが目を見張る。
手の中にあるのは琥珀ではなく、クルミだったのだ。
琥珀を持ち歩いているつもりだったのに、と言うか、ポケットに入れた時は確かに琥珀だったのに。
アカネズミはクルミの実が好きだと聞いたことがあった。
「そうか、きみ、クルミがほしかったんだね」
もうそのころには、リリーベルの中から動物を忌避する気持ちがすっかり消えていた。
いや、このアカネズミだけかもしれないが。とにかく、少なくともこのアカネズミには親しみの気持ちが芽生えてきていたのだ。
掌の上のクルミに手のひら大のアカネズミが鼻をつける。
と思うと、鼻でつんつんとクルミを押した。
丸みを帯びたクルミは、リリーベルの掌からころりと落ちる。クルミを奪った形になったアカネズミは器用に鼻でつんつんとクルミを押しながらドレスからさっと下り、するすると駆けていった。
「ちょっ、ちょっと待って。持っていかないで。それフォンからもらった大事な」
アカネズミの駆けて行った方向を見る。
(暗くてさっきは気づかなかったけど、どうやら空洞になっているみたい。行ってみる?それともここで助けを待つ?もし行っちゃったら、私、誰にも見つけてもらえないで、死んじゃうかも。でも、フォンからもらった琥珀((なんでか知らないけどクルミになってた))を取り返さなきゃ)
リリーベルが悩んでいると、先ほどのネズミが戻ってきた。
もちろん、もうクルミはない。
「ねえ、きみ。クルミをどこにやったの。私の大切ななかよしさんのくれたクルミなの」
リリーベルは幼い日にフォンとやりとりしたことを思い出す。
(ああ、私、あの時は気づかなかったけど、フォンのこと、好きになってたんだ。そのあともずっと、今までずっとフォンのことが好きなんだ。)
なんだか知らないうちにポロポロ涙が出てきた。
アカネズミはリリーベルの肩のところまで登ってきて、涙をつんつんつつく。
リリーベルがびくっとすると、さあっと降りて行って、彼女の前に立った。
そして、リリーベルを振り返り振り返りこっちを見ては少し進み、こっちを見てはまた少し進む。
「ついて来いって、言ってるの?」
アカネズミが頷いたような気がして、リリーベルがからだを起こす。
手探りで側面を確かめると、アカネズミのいる方向は小柄なリリーベルが四つん這いになれば余裕で通れる程度には空いていた。
その時にはもうリリーベルの中では、恐怖心よりも好奇心のほうが勝っていたのだろう。
もしだめなら、引き返そう。
リリーベルは靴を脱ぎ、ドレスも可能な限り脱いで、その場に置いた。
そして長い髪が引っ掛からないように、ドレスの下に使っていたリボンで一つにまとめる。
リリーベルが身軽になったところで、彼女の意思を理解したのだろうか。
アカネズミは四つん這いになった彼女のすぐ前まで戻ってきた。
そしてあらためて先導するかのように、彼女の前をゆっくり進む。
四つん這いになってみると、少し先がほのかに明るい。
これなら何とかなりそう、そう思って一歩進む。
どうやら下っていくような感じだ。
四、五歩進んだところで急に視界が広がり、開けた空間に出た。
よろよろと頭を出し、おしりを出し、足を出す。
からだが全部出たところで、ああ、疲れた、と座り込んだ。
(これ以上だったら、きっと、耐えられなかったわ)
リリーベルはとりあえず安堵する。
そしてあらためて周りを見まわして、大きく目を見開いた。
「あっ、あの建物の中と同じ」
そう。その空間はリリーベルがフォンと最後に話をした納屋のような建物の内部と同じ造りをし、同じ調度を置いてあったのだ。
それで思わず、「フォン、フォン、どこ。どこにいるの」と呼んでしまった。
だけど、部屋には誰もいないし、返事もない。
もう一度「フォン」と名を呼ぶ。
すると、さっきのアカネズミがクルミを転がしながらやってきた。
「えっ、もしかして、あなたがフォンなの?」
(まさかね)
リリーベルは屈んで、アカネズミに話しかける。
アカネズミは何も言わない。
でもリリーベルの差し出す手に鼻をつんつんと何度もつけてくる。
何かを言おうとしているみたいに。リリーベルはアカネズミにもう一度問いかける。
「あなたはフォンではないの」
アカネズミは差し出した手に飛び乗ってきた。
からだを全部乗せたところで、リリーベルはアカネズミの背をそっと優しく撫でてやる。
アカネズミは気持ちよさそうにじっとしていた。
動物が苦手だったのが嘘のようにアカネズミに対して愛しさがどんどん増していく。
思わず頬ずりをした。
ふわっと甘く優しいにおいがする。
(あの時と同じだわ)
フォンに抱きしめられたときのことが甦り、リリーベルは思わず呟いた。
「もうどこにもいかないで、フォン。あなた、フォンなのでしょ」
そして独り言ちる。
「もしも、もしも、このこ(アカネズミ)がフォンだとしても、フォンの本当の姿がこのこ(アカネズミ)だったのだとしても、あなたがもうどこにもいかないのなら、私は、あなたはあなたのままでいい」
刹那、部屋の中が光をともしたように明るくなる。
そしてアカネズミがリリーベルの手の中から抜け出した。
と同時に、ポンと何かがはじけるような音がした。
一瞬、辺り一面が白煙でいっぱいになる。
反射的にリリーベルも飛び退く。
白煙が消えた時、リリーベルの目に映ったのは、ひとりの美しい青年だった。
金色の長い髪を左肩で結ぶ。
深い碧い目。
顔立ちは大人びて、身長はあの頃よりはもっと高くなり、体型もすらりとしているけれど、見間違えるはずがない。
「フォン?あなた、フォンでしょ?」
青年は無表情のまま、何も言わない。
「フォンじゃないの?」
リリーベルはよろよろと立ち上がろうとして、右足で何かを蹴る。
素足で硬いものを蹴ったものだから、痛い。
なんだろう、と見ると右足のそばに琥珀が落ちていた。
琥珀を丁寧に拾う。
アカネズミに差し出したときはクルミだったからだろう。
あんなに転がしたりつついたりしたのに、キズはついていなかった。
よかった、とほっと一息ついて、無表情の青年に近づく。
青年からも甘くて優しい香りがした。
(やっぱり、フォンだ)
どちらかと言えば小柄のリリーベルが、長身の青年に見えるように琥珀を掲げる。
「これ、琥珀。フォンからもらった」
青年は目で琥珀を追う。
が、やはり何も言わない。
(どうして、どうして、何にも言ってくれないの?)
「えっと、私、小さい頃一緒に遊んだ、リリーベルだよ。フォンはリリーって呼んでくれてたよ」
一生懸命に訴える。
けれど何の反応もない。
「どうして?どうして何も言ってくれないの?」
琥珀を右手に握りしめて、思わずフォンに縋り付く。
「ねえ、私のことを覚えてない?」涙がこぼれてしまう。
(いけない、これじゃフォンの胸が濡れてしまう)
そっと見上げた。
が、フォンの目には何の色も宿らない。
(ただただ切ない。なんだろう。何で切ないんだろう。私がフォンかもって希望を持っちゃったからかな)
「フォン、私のことを覚えてない?」
左手はフォンに縋り付いたまま右手の琥珀をポケットにしまう。
そしてその右手で自分の両の目の涙を拭いながら、フォンの目を見て言った。
「お願い、私を思い出して」
その時、フォンの目に明らかに光が宿る。
そしてゆっくりとフォンの両腕が、縋るリリーベルの背に回った。
「フォン、フォン」
思わず何度も名を呼んでしまう。
そしてその呼ぶ声に応えるように青年が
「リ、リー?リリー、なのか」
と穏やかに問うた。
「そう、リリーだよ、フォン、フォン」
「そう、なのか。時が、来たんだな」
リリーベルは自分の背に回ったフォンの腕に力がこもるのを感じた。
「フォン、フォン、会いたかった、ずっと」
「うん、うん」
フォンは頷く。
「もう放しはしないよ」
「本当に?」
「本当だ、だから、あの言葉を」
フォンの冷めた声にリリーベルは思わずたじろいだ。
「へっ」
(フォンって、こんな人だったの?)
ロマンティックな気分が消し飛ぶ。
「リリー、早くあの言葉を言うんだ。時間がない」
「えっ、どの言葉?」
フォンからさっきの穏やかな雰囲気は消え失せて、何やら苛立っている。
「ほら、あっただろう」
「あった?どこに?」
「絵本の」
「えほん?」
「そうだ、呪文が」
リリーベルはようやく思い出した。
(そうだ。絵本は離れ離れになった男女が三つの呪文で幸せになるお話。そしてその呪文は。あれ、もう二つは言っちゃってた)
リリーベル自身も知らないうちに言ってしまっていたのだ。
じゃあ残るのはあの言葉しかない。
でも、リリーベルにとってそれはただの呪文ではない。
自分の本心からの言葉だ。
「フォン、聞いて。お願い。どうかこれからも。ずっと一緒にいて」
ガラガラガラ。音がして、瞬間、二人は全く見知らぬ部屋にいた。
(部屋というか、これは王さまに謁見する場所?)
なんだか見知っている男性たちが立っている。
(えっ?その中にはおとうさまも!中央に座る人はきっと王さまだ)
フォンが呆然としているリリーベルの手を引き、王の近くまで進む。
そしてさっと跪いたので、なんとか彼女もそれに倣った。
「陛下、ただいま,戻りました」
「うむ、フォンラッド、よくぞ無事で戻った。十年は長かったが、そなたの働きですべて片付いた」
「ありがたきお言葉でございます。私の隣にいるのが、リリーベル・クロネッカーでございます。クロネッカー伯爵家令嬢の助けなくして、帰還はかないませんでした」
「うむ。リリーベル嬢、よくぞ我が国の王太子を無事連れ帰ってきてくれた。礼を言う」
(ええっ、フォンて王太子様だったの?)
リリーベルは何が何だかわからないまま「もったいなきお言葉でございます」と言うのが精いっぱい。
そのあとはあれよあれよといううちに、フォンとリリーベルの結婚式の日取りまで決まってしまっていた。
謁見のあと、フォンの私室だという部屋に通される。
帝王学や政治経済の本に交じり、ぬいぐるみや絵本も置いてあった。
あまりにもかわいらしいので、リリーベルは目を丸くする。
フォンが決まり悪そうに言った。
「この部屋は十年前、リリーに最後に会った次の日からそのままなんだ」
「じゃあ、十年前からフォンはここには帰ってなかったの?」
「そうだ、今初めて戻った。僕は十年前にこの国に現れた魔法使いとその配下の悪だくみを炙り出す手伝いをしていたんだ」
フォンが十年前に突然現れた魔法使いのこと、魔法使いを倒すため自分に自分で魔法をかけたこと、それからのお城の中のようすを話してくれる。
「じゃあ、おとうさまがお城に泊まりこんでいたのは」
「対策を練っていたんだな」
「じゃあフォンが私を見つけたのは」
「それは偶然。でも、聞いて。僕、本当にあのとき君が一目で好きになってたんだよ、ふわふわ髪の妖精さん」
“ふわふわ髪の妖精さん”
フォンが私に会った日、最初にそう呼び掛けたっけ。
リリーベルの胸に熱いものがこみ上げる。
(たったの6日間だったけど、フォンも私のことを?)
フォンが続けた。
「それでね、リリーに魔法を解く呪文を託したんだよ」
「あの絵本の?」
「そうだよ。それも、自分が愛し、自分を愛する人が言ってくれないと意味がない」
えっ、それって。
「フォン、もし私があなたを愛していなかったら、そうでなくても呪文を忘れていたら」
「僕はアカネズミのままだね」
(なんて、そんな危険な魔法を。王太子様なのに)
「でも、僕のリリーがそんな不実なわけないだろっ」
とケロッとしていた。
僕のリリーと言われて、リリーベルは耳まで赤くなる。
「でも、リリーとはずっと会えなかったから、一生このままかと思うときもあった。思い余って会いに行こうと思ったこともある」
確かに私は引きこもっていた。
私に確実に会うためには、クロネッカー領に来てもらうほかないだろう。
ちなみにうちはお城からは遠い。
アカネズミのフォンがたどり着くのに何か月かかるかわからない。
それにたどり着いたところで、退治されそう。
(王太子様が危険すぎるぅ~~~)
リリーがそうならなかったことに心から感謝していると、フォンが「だから、父上に年頃の娘が城に集まる機会を作るように頼んだんだ。そして必ず僕と会えるように、従者にここまで追い込んでもらって。彼、獲物を追い込むのが得意なんだよね」
と照れたように自分の首に手を遣った。
(今不穏な言葉が聞こえてきたけど、あの追いかけてきた人はフォンに頼まれてたの?)
「でも、それなら、私をお城に呼べばすむことのような気もするんだけど」
「炙り出したかったんだ。魔法使いの息のかかった人物すべてを」
それであんな大規模な夜会を。
「それに、クロネッカー伯爵家令嬢だけが呼ばれたとなると噂が立つ。引きこもりがちのきみをそんな渦中に投げ込みたくなかったんだ」
(そんなフォンの心遣いひとつとっても嬉しい)
「ありがとう。フォン。それにしても、フォン、八歳だったんでしょう。そんな子どもに」
「子どもにしか解決できないことが悪だくみの中にあったんだよ。それに何と言っても、僕はこの国の王太子だからね」
と片目を瞑って見せた。
でも、と素朴な疑問を口にする。
「私と結婚なんて、よかったの」
「なんで?リリーしかいないよ」
「でも私、なかなか人とお話しできないし、王妃様になるような教育も」
「話のこと以外は君は素晴らしいレディだよ。それにそっちのことだって、僕に会えたから克服できたでしょ」
「えっ、ちょっとフォン、なんでそんなこと知ってるの」
リリーベルが文句を言おうとしたら、フォンは彼女をひき寄せて、優しくキスをした。
(もう、フォンたら!みんな見てるのに)